第1章 月夜の時盗人
3.赤騎士との決戦 014
「……っていうか、真正面から『果し状』って」
「別にいいだろう? まだるっこしいことは好かん」
昨日と同じホテルの一室。呆れる白兎ことアルブス=ハーゼに、赤騎士ことルーベル=リッターは外出準備をしながら適当な返事をする。
「普通に無視されたらどうすんの?」
「すでに双方面の割れている状況で長期戦はな……奴らだとて、周囲の人間を巻き込みたくはないだろう」
「それでも無視されたら?」
「これは奴らにとっても絶好の――」
「こんな夜中に呼び出すんじゃねぇよって、来てくれなかったら?」
「……」
「あの文面だと彼らに利点がないじゃん。普通あそこは果し状じゃなくって、人質とって脅迫状とかにしなきゃ駄目でしょ」
「……」
白兎のダメ出しに、赤騎士は思わず無言になる。確かに手落ち感はあるのだが、それでもこれがルーベルのやり方だ。
「皆殺しにするなら人質をとるのもいいが、そんな依頼は受けていない」
「最低限の人間を巻き込まないって? とんだお人好しだね」
「ただの拘りだ。元はと言えば、お前があの坊やに現場を見られたからではないか」
必要とあらばいくらでも殺すことはできるが、用もない相手を殺す趣味はない。
赤騎士の知る限り、今回の仕事のイレギュラーであるアリスト=レーヌは白騎士と手を結んで以来、彼と行動を共にしている。他の人間に下手に情報を広げたりはしていないらしい。ならば彼と白騎士と、白騎士のもとに逃げ込んだ裏切り者のチェシャ猫を消せばいいだけだ。
それを説明すると、白兎は怪訝な表情になる。
「いくらお前だって彼らを四六時中見張っていたり、盗聴器を仕掛けたわけじゃないだろう? なんでそんな情報を――」
「“ジャバウォック”に聞いた」
「!」
白兎が大きく瞳を瞠る。彼がこれだけ驚愕を露わにするのは珍しい。
「“姿なき情報屋ジャバウォック”! お前――彼とコンタクトをとれるのか?」
「時折、向こうから、一方的に」
白兎の問いに、赤騎士は肩を竦めることで返す。謎多き情報屋の存在に関して、多少の接触はあるものの赤騎士自身も伝えられるだけの情報は持っていない。
“ジャバウォック”もまた、“白兎”“赤騎士”“チェシャ猫”のようなコードネームの一つだ。『鏡の国のアリス』に登場する詩の中に歌われる化け物。詩の中にその名が含まれるだけで、実際にそう言う名の化け物が物語中に登場するわけではない。
実体のないことにかけて、“ジャバウォック”は“姿なき情報屋”とも呼ばれている。
その由来は、帝都一の情報屋として存在を知られていながら、誰も彼の正体を知らないことにある。
ジャバウォックの接触は常に電話やメールなど対面せずに情報を伝えられるツール越しに限られていて、直接その人物と顔を合わせた者はいないらしい。しかしながら彼の持ち込む情報は完璧で、一つの間違いもないという。
あらゆる謎の解を告げる情報屋の、最も大きな謎は彼自身の正体。
「でもジャバウォックって……どちらかと言えば教団の敵対者じゃない?」
「さぁ。なんとも言えんな。教団の味方でないことは確かだが、だからと言って完全に敵対の意志を見せる様子でもない。特に“マッドハッター”関連は警察にたれこむこともあると言う」
「ああ……帽子屋を名乗るあの怪人ね。彼らは教団の敵っぽいけど、ジャバウォックはその敵でもあり、しかしどの陣営も、敵の敵は味方、と単純にはいかない、と」
「そんなものだ。私にこの情報を流した意味も、我らには掴めずともジャバウォック側には何かあるのだろう」
「信じていいのか?」
「さてな。一応我らと本人たち以外では、聖塔学院に常駐の“庭師の5”には伝えたらしいが」
「あれはお仲間が揃うまで傍観者の立場を貫くだろう。放っておけばいい」
情報屋が赤騎士に流した情報を信じるのなら、問題の三人さえ始末してしまえば、教団の犯罪に関する秘密は守られることになる。
「それから」
「まだ何かあるの?」
ジャバウォックの名を出してきただけで意外だと言うのに、赤騎士には更に気になることがあるらしい。
「昼に奴らに逃げられた時だが、胡椒を使われた気がする」
「胡椒? ……ああ、それでお前、昼間はくしゃみを連発してたのか。珍しいと思った」
健康には自信があるはずの赤騎士がくしゃみをし続けるのを見て、白兎は貴重な光景だと思っていた。チェシャ猫ともう一人の少年が地下道に逃げた推測はつけられても、くしゃみがどうにも止まらずに後を追えなかったらしい。
赤騎士にしては珍しい失態だと感じたのだが、どうやら原因があったようだ。その原因が「胡椒」。
「ってことは……まさか“料理女”が噛んでいるのか?」
「さてな」
断言こそできないものの、可能性はあるという。
原典で言えば料理女は公爵夫人に仕えているが、現在この帝都で“料理女”のコードネームを持つ者に関して言えば、若干立場が変わってくる。
コードネーム“料理女”。それは“パイ泥棒のジャック”こと、帝都を騒がせる怪盗ジャックの相棒である。
怪盗ジャックは自ら“パイ泥棒のジャック”を名乗った泥棒。神出鬼没で変幻自在の怪盗は、睡蓮教団の敵対者の筆頭である。
怪盗ジャックの狙う獲物は、常に教団が狙っていたお宝だ。だからこそ怪盗は教団よりも早くそれを盗み出し、教団の目的を邪魔する。
その相棒である料理女が、何故チェシャ猫と少年――白騎士に匿われた、アリス候補のイレギュラーを庇うのか。
「“ジャバウォック”に“料理女”か。教団外の名だたるコードネーム持ちに縁があるとは……あの坊やは一体何者なんだろうな」
白兎の疑問に、赤騎士も頷いた。
昨日の今日で、ジャバウォックの情報からしても彼らはそうあちこち出歩いていないし、知人や警察と深く接触したわけではない。どちらかと言えばほとんど素性を隠しながらの対面だったらしいのに、何故。
「私はそれを知りたい。だからこそ、今回は奴らと真正面から決着をつけに行く」
暗殺者のやり口でないと言われればそれまでだ。しかし今は本来の役目よりも何よりも、まず知りたいことがある。
「あの坊やが、本物の“アリス”なのかどうか――」
それによって全ては変わってくる。
「確かめてこよう」
月が天高く昇る。呼び出しの時刻は、もうすぐだった。
◆◆◆◆◆
部屋を出たところで、ばったりと隣人に出会った。
「あら、こんな時間にお出かけですか?」
「だ、ダイナ!」
ヴァイスの隣人――すなわち、アリストの実家であるレーヌ家だ。アリストがここにいる以上、その部屋から出てくる住人はたった一人しかいない。
よりにもよってこれから出かけようというタイミングで、うっかりとダイナと鉢合わせてしまった。
こんな深夜に家を出るヴァイスたちもヴァイスたちだが、ダイナもダイナで何故こんなところに?
「始業式前に、細々とした用事を片づけていたんです。昨日はなんだかばたばたしてしまって忘れていましたから」
「あ、あー、そうか。うん」
「ところでその子たちは? ルイツァーリ先生の御親戚ですか?」
来た!
昼間は学院の同級生たちにすらあれだけ似てる似てると騒がれたのだ。アリストの姉であるダイナが、彼にそっくりな子どもの存在を気にかけない訳がない。
そもそも長年独り暮らしで滅多に家を訪ねて来るような知人もいないヴァイスのもとに小さな子どもが二人もいること自体おかしいのだ。普段のヴァイスの暮らしぶりを知る者なら尚更疑問に思うところだろう。
うまくすれば顔を合わせずに過ごせる同級生たちと違って、家まで隣であるダイナに顔を見せないというのは難しい。ずっとフードを被ったままでいるわけにも行かず、アリストはうさ耳を引き下ろした。
「あら……」
ダイナの視線がまじまじとアリストに集中する。横にいるチェシャ猫はもはや目に入っていない。
彼女の注意を逸らすように、ヴァイスが話しかける。
「その二人は、私が今事情あって預かっている。遠縁の子たちだ」
「遠縁?」
「名目上親戚一族と呼べるが、血縁はないぐらいの付き合いと言おうか。しかもこの子たちの保護者が今、親権問題でいろいろ揉めていてな」
「まぁ……」
如何にも疲れている、あるいは嘆かわしいと言うような態度を現しながら告げると、ダイナの方でも昼間の高等部生たちと同じように、子どもの背景に何か複雑な事情があると察してくれたらしい。
「私に子育てなど無理だろうが、とりあえず気楽な独り身だからと押し付けられた。正式な保護者が決まるのは……明日になるか数か月先になるか、まだまだわからんらしい」
「大変なんですね」
嘆かわしい話だが今日日育児放棄や虐待など家庭の事情はますます複雑化している。いきなり容姿に似通ったところのない子ども二人を引き取ることを、ヴァイスはそういう説明で無理矢理周囲を納得させた。
「二人は姉弟かしら?」
「……いいえ。違うわ」
口を開きづらいアリストに代わり、チェシャ猫が答える。
そして最大の難関が訪れた。
「お名前は?」
「あ……」
アリストもヴァイスも、しまったという顔をした。けれどそれ以上に戸惑った様子なのがチェシャ猫だった。
アリストは思わず隣の少女の横顔を窺う。そこにはあからさまな狼狽が浮かんでいる。
そう言えばチェシャ猫は、最初の時から“チェシャ猫”というコードネームしか名乗っていない。白騎士であるヴァイスや赤騎士であるルーベルのような本名を口にしなかった。
戸惑う子ども二人に代わって、またもやヴァイスが適当に答える。
「この子はシャトンだ。シャトン=フェーレース」
どうやらチェシャ猫に本名を名乗れない理由があると悟って、今適当につけたらしい。
(猫=猫?)
(仔猫=猫……)
ヴァイスの名づけの法則に内心で突っ込みつつ、子どもたちは顔を見合わせる。
そしてヴァイスはアリストの肩に手を置き、視線はダイナに、言葉はこの場の全員に向けて告げた。
「この子は“アリス”。アリス=アンファントリー」
アリス。
何度も何度も繰り返された、まだアリストの知らない何かの意味を持つ名前。
しかしヴァイスがアリストをそう名付けたこの瞬間から、「アリスト」は「アリス」になった。
ダイナが目を瞬く。
「アリス……? 男の子……ですよね?」
彼女もアリスという名に反応するのかと一瞬身構えたがそうではなかった。よくよく少女と間違えられるアリストの性別を、ダイナはしっかり見分けていたらしい。その上で女性名をつけられたことへの違和感だ。
「そうだ。しかし大した問題でもあるまい」
「そうですわね」
緋色の大陸で言うなら女性に「伊織」という名をつけるくらいであるし、「アリス」と言う名の男がいても良かろうと。
「そんな訳で少しの間、この二人が同居することになるので、何かあった時はよろしく頼む」
ヴァイスは用事があって外出する旨を告げ、危惧されていたダイナとの接触をまずまず無難に終えることとなった。
◆◆◆◆◆
シャトン=フェーレース。
アリス=アンファントリー。
それが今の、この姿での二人の名だ。
「チェシャ猫の方もついでにつけてしまったが、良かったか?」
「……ええ、いつまでもコードネームで呼ばれるわけにもいかないしね。機転を利かしてくれて助かったわ」
夜道を歩きながら、先程のアドリブについて話し合う。
「そう言えば、チェシャ猫って本名は?」
「ないわ」
「……へ?」
「ないのよ。私、スカウトというより、正確には両親が教団関係者だった関係で、幼児の頃から教団で育ったから。物心ついた時にはすでにコードネームで呼ばれていたわ」
教団の人間全てがコードネームを持つ訳ではない。しかしチェシャ猫はその能力の高さから、元々中核に関わる魔導研究を進めることが決められていて早くにコードネームを与えられていた。
そのせいで周囲の同じ研究者である大人たちから無用な嫉妬ややっかみも随分受けた。教団で生まれ育ったと言っていいほどに教団の人間であるはずの彼女が、あそこは自分の居場所ではないと感じる程に。
「だから本当に助かったのよ。私、今日からシャトンって名乗るのね」
「ああ、そうしろ。元の姿に戻れたとしても、必要があるならその名を使い続けて構わない」
ヴァイスは適当に頷いて、シャトンの偽名の件はこれで穏便に終わる。
問題はアリストの方だ。
「なんで俺は“アリス”なんだ。歩兵のアリス?」
名前の意味はわかっても、ヴァイスがどのような考えでそんな偽名を決めたのかはわからない。
「いずれわかる」
そしてこのことに関しては、ヴァイスも今すぐに答えてくれる気はなさそうだった。