第1章 月夜の時盗人
3.赤騎士との決戦 017
「白兎……!」
自分をこの姿にした張本人の憎い姿を前に、アリストは唇を噛みしめる。
「やぁ。迷子のアリスちゃん。話には聞いていたけど、まさか本当にプチサイズに変身とは」
「誰のせいだと思ってんだ!」
岩肌の途中に腰かけた白兎は、採石場の地面に立つ四人より高い位置から彼らを見下ろした。いまだ赤騎士に抑え込まれたままのアリストは、苦しい姿勢のまま叫ぶ。
「アルブス? 何をしに来たんだ?」
「ちょっとね。別の仕事が入ったお知らせに」
今夜赤騎士が裏切り者と目撃者の口封じを目論んで白騎士と対戦することは、白兎も知っていた。その彼がわざわざこの現場に乱入する理由とは?
「撤収しよう、ルーベル」
「……本気か?」
相棒に問いかけながら、赤騎士がようやくアリストを解放する。ようやく自由になったアリストは、その場で二、三度咳き込んだ。
白兎は赤騎士の質問をひとまず無視して、敵であるはずのヴァイスとチェシャ猫に目を向けて問いかけた。
「お前たちも、それでいいだろう?」
元よりヴァイスとアリストとチェシャ猫のたった三人だけで巨大な組織である睡蓮教団と正面からやりあうのは不可能に近い。
彼らを殲滅するのであれば、相応の準備や仲間が必要だ。アリストの盗まれた時間を奪い返すためとはいえ、ここで赤騎士に仕掛けた罠は一か八かの危険な賭けだった。
赤騎士と白兎が退いてくれるのであれば、ひとまずは平穏が保たれる。
だがその理由がわからないことには、何とも言えない。
「どういうことだ?」
当然の質問を投げたヴァイスに、白兎は妖艶な微笑と共に告げる。
「こちらでも不測の事態が起きてしまってね。今はお前たちの相手をしている間も惜しいんだ」
「不測の事態……?」
つい最近まで教団にいたはずのチェシャ猫が眉根を寄せる。彼女の記憶には、教団内部でそんな大変なことが起きていたという覚えはない。
「ああ。教団を裏切ったどこかの誰かさんを心配したその姉貴分が、よりにもよって研究施設の一つを爆破したんだ。しかもいくつかのデータを消去、あるいは持ちだした上でね」
「! 姉さん……! まさか……!!」
先程赤騎士もチェシャ猫を教団に連れ戻す理由として名を挙げた、チェシャ猫の大切な人。“公爵夫人”が、教団に反旗を翻した?
「教団内の抹殺対象リストのトップは現在、ジェナー=ヘルツォークこと“公爵夫人”を置いて他にはない。余計な奴らに構っている暇はないんだ」
白兎から聞かされた話に、赤騎士が顔を歪める。赤騎士と公爵夫人は元々折り合いが悪い。彼女が教団を裏切ったと聞いて気分が悪いのだろう。
「……確かに、そちらの事情とやらは理解した」
ヴァイスが言葉を選びながら、更に白兎の真意を問いただす。
「だがそれは、我々を見逃す理由にはならないはずだ」
今は不測の事態が起きている。白兎はそう言った。だが彼の様子では、その不測の事態が終わったからと言って、仕切り直してアリストたちを殺しに来るでもなさそうだ。
その真意がわからない。
これまでアリストは、睡蓮教団という団体は頭のおかしいカルト宗教としか思っていなかった。しかし様々な視点から彼らの歴史を教えられ、今その教団に属する人間に触れて、どれほど悪質な犯罪を引き起こそうとも、その相手も所詮は一人の人間に過ぎないのだと知った。
赤騎士も白兎もチェシャ猫も、恐らく公爵夫人と言う人も皆、それぞれの考えで動いている。
その考えとは、何?
「“公爵夫人”の裏切りをわざわざこの場で話したのは何故だ。隠しておけば、チェシャ猫に対するカードとして使えるのに」
ヴァイスが言葉を重ねる。
「禁呪の被験者であるアリストのことだってそうだ。殺さずとも少なくともチェシャ猫共々教団にでも連れていけば、格好の実験材料となるだろうに」
白兎の決断は、それらをあえてせず三人を見逃すというものに聞こえる。
「理由、理由ねぇ……」
説明する気がないというよりも単に面倒くさいと言わんばかりの態度で、白兎が顎に指を当てる。
「気まぐれと言うんじゃ駄目かな」
「駄目だ」
「ちぇー」
ヴァイスの即時却下に唇を尖らせた白兎が、軽やかな身のこなしで岩肌を降りて赤騎士の隣に立つ。
彼は軽い口調で告げた。
「お前たちを見逃す理由は、現時点ではお前たちの力など大したものではないからだよ」
「……」
「もちろん、十年前に帝都の教団勢力を壊滅寸前に追いやった白騎士の存在は憂慮すべき問題かもしれないけれどね……だからと言って、この十年動いて来なかったんだ。今すぐに教団に対してどうこうというものでもあるまい」
「そうか? 私は今まさに赤騎士と取引して貴様らの本拠地に乗り込もうと考えていたんだが?」
ヴァイスが腕を組み仁王立ちの偉そうなポーズになる。アリストとチェシャ猫は彼の両脇に立ち二人の会話を見守った。
「取引だけだろう? 十年前ならいざ知らず、今の貴様に教団を潰せるだけの力も仲間もないはずだ」
「私が今の貴様らにとって、脅威とならないから放置するだと?」
いくら睡蓮教団が巨大な組織だとは言っても、邪魔者を片っ端から殺害していくわけにも行かない。犯罪を行うからと言って出会った警察官全員を殺すわけには行かないのと同じだ。
教団にとって、現時点で活動を続けている余程の脅威となる人間でなければ殺人というリスクを犯す意味はない。
「ああ。勝ち目もないのに手を出してちくちくと嫌がらせをするような性格でもあるまい」
実際、この十年、教団はヴァイスを見逃し続けてきたという。
一度ヴァイスの手によって壊滅寸前にまで追い込まれた睡蓮教団だ。復興途中に邪魔者を消すつもりでちょっかいを出し、返り討ちに合うのを恐れたのだろう。
ヴァイス自身がこの十年、教団を潰すための活動を続けていたならばまた別かもしれないが、彼は何もしてこなかった。少なくとも教団の目にはそう見えていた。
――彼はこの十年、ただ待っていた。
「では、勝ち目があるとしたら?」
“白の騎士”ことヴァイス=ルイツァーリが次に動く時は決まっている。
白兎の、赤騎士の、チェシャ猫の、そしてヴァイスの目が一斉にアリストの方へと向けられた。
「……へ? え、な、何?!」
どういう流れで自分に視線が集まったのかさっぱり理解できないアリストは、思いがけない注目にきょろきょろと首を巡らせる。別に自分の周辺に何か変わったことがあったわけではないようだ。
視線をアリストに向けたまま、白兎がヴァイスに尋ねる。
「彼が、お前の“アリス”なのか?」
「――ああ、そうだ」
ここに来る前、玄関先でばったり出会った姉との会話を思い出す。アリストに“アリス”と言う偽名を授けたヴァイス。
あの“アリス”には、やはり意味があるのか?
白兎の問いにヴァイスが頷くと、赤騎士やチェシャ猫の視線も一層強くアリストに向けられるようだった。
「お前でも、今や名探偵と持て囃されるヴェルム=エールーカでも駄目だった。“アリス”にはなれなかった。だがこの少年ならば、本物の“アリス”になれると言うの?」
「たぶん、な」
ヴァイスの視線がアリストに向けられる。アリストは訳も分からぬまま、ただその視線を真っ直ぐに受け止めた。
ふ、と赤騎士が口元に緩やかな微笑を湛える。
「なるほどな。その小僧が“アリス”か」
「ルーベル?」
「アルブスよ、少なくとも私は得心が行った」
赤騎士の視線がアリストの方へと向けられた。
「先程の駆け引き。一見無茶だが少ない手駒の中ではよくやった方だ」
誰も死なせないと豪語し、赤騎士をただ倒すことよりも生かして取引することに主眼を置いた作戦。具体案を出したのは白騎士やチェシャ猫かも知れないが、そのように行動の指針を取ったのは“アリス”なのだろう。
「だが、教団の人間は上の連中になればなるほど背徳神の復活に凝り固まって説得など通じる連中じゃないぞ。誰も死なせないなどという綺麗事が、いつまで通用するものかな?」
子どもの青臭さだと嘲笑う赤騎士の言葉に、アリストは間髪入れずに返した。
「説得できなきゃ警察に強制的に逮捕してもらうしかないだろうさ。俺は人間誰も彼も説得で穏便に和解できるなんて言ってねーよ。償う気のない罪人なら逮捕しかねーじゃねーか。だからって、悪人だから殺していいなんて言わないよ」
赤騎士と白兎が、揃って目を丸くした。普段は何故か外見より何倍も年齢を重ねた者のように見える相貌が、途端に見た目相応に幼くなる。
「く……アハハハハハハ!」
突然笑い出した白兎の様子に、アリストはぎょっとする。自分ではこんなに爆笑される発言をした覚えはないのだが、なんとなく気恥ずかしくて頬に血が上る。
「な、なんだよ! 何がおかしいんだよ!」
「くくくっ」
どうやらツボにはまった様子の白兎が目元を擦っている。涙が出る程笑われるなんて心外だ。
「そうか。お前は本物の“アリス”なんだな。この時代に生まれ、生きる子ども。今のこの世界を信じている……」
白兎がしみじみと言った言葉の意味は、アリストにはわからなかった。
アリストに時を奪う禁呪をかけた、事態の元凶は間違いなくこの男だ。けれど白兎自身にアリストへの敵意や殺意は薄く、その真意がどうにも掴めない。それは実際にアリストを殺そうとしていた赤騎士でさえ同じだ。
誰かを憎悪などしたくはないが、それでも顔を合わせたら憎むしかないのだと思っていた。けれど今、白兎を前にしても不思議と心は凪いでいる。先にチェシャ猫という、どうしようもない事情で教団にいた少女と会ってしまったからだろうか。
教団から与えられた役割を淡々とこなしながら、まるで彼らは何かを待っていたかのようだ。
「餞別に教えてあげようか。――お前たちの『時間』は、教団の本部にすでに送られている」
「!」
ハッとしてチェシャ猫と顔を見合わせた。
「チェシャ猫、本部って知ってるか?」
「いいえ。トップである赤の王やハートの女王の居場所に関しては、教団の中でも限られた人間しか知らないの」
チェシャ猫が申し訳なさそうに首を横に振る。確かに彼女がすでにそれを知っていたら、もっと直接的にそちらに乗り込む術を探したことだろう。
「もちろん、俺たちも知らないよ。俺とルーベルは、教団の中でもちょっと異端な部類なんで」
聞きたいことを聞く前に白兎が答えた。敵だと言うのに、あまりにもサービスが良過ぎだろう。
「異端……?」
「そ。根っからの睡蓮教信者は俺たち程甘くないから、油断しない方がいいと思うよ」
白兎や赤騎士が、ヴァイスはともかくアリストやチェシャ猫に限っては本当はいつでも殺せるのにそうしないのは、彼らが教団の中でも微妙な立場だからなのか?
「時間を取り戻すにも、教団を潰すにも、とにかく睡蓮教団の真実へ近づかなくてはならない。ま、せいぜい頑張ってくれる? ――我らが“アリス”よ」
「……」
彼らの中ではどうやらアリストの存在は“アリス”として確定されたようだ。
赤騎士と白兎が地を蹴り、先程白兎が彼らを見下ろしていた岩肌の途中に飛び乗る。
「――今はまだ、お前たちは教団の脅威になる程の存在ではない」
「けど、このままこっそり教団のことを探っていけば、そのうち辿り着けるかもね。不思議の国の中心人物、“ハートの女王”に」
アリストたち三人は採石場跡の焦げた地面から二人を見上げる。
「何故俺たちにそんな情報を寄越す? お前たちの目的はなんだ?!」
遠回しにアリストたちの手による教団の破滅を望むかのような行動に、どうにも疑心を捨てきれない。
「大した意味はないさ。不思議の国の住人は、どうせみんなすでに狂っているんだから」
白兎が歌うように言う。
そして彼は優雅に一礼すると、その手から何か小さな塊を落とした。
「目を閉じろ! 閃光弾だ!」
ヴァイスの忠告に従い、顔を背け腕を眼前に掲げて目を焼く光から逃れる。
後に残ったのは爆発で燃え焦げた無残な地面を晒す採掘場跡地と、呆然とした顔で取り残された三人だけだった。