Pinky Promise 019

第1章 月夜の時盗人

4.指切り―Pinky Promise― 019

 ただでさえ体力のない子どもの体は赤騎士との戦闘の後で泥のように重い。
 だが、ヴァイスの自宅まで戻らないわけには行かなかった。こうして命がある以上、まだ睡蓮教団の存在を明るみに出すわけにはいかない。通報システムを解除しなければ。
 三人がマンションの部屋の前まで戻ったところで、ひょこりと隣から「隣人」が顔を出した。
「おかえりなさい」
「ダイナ? どうしたんだ、こんな時間に……」
「それは私もお聞きしたいんですけれど……三人ともどうされたんです?」
 爆発の煤で真っ黒になった三人の姿にダイナが目を丸くしている。
 この時間になってもまだ起きていた彼女は、人の気配に気づいてそう言えば先程出かけると言っていた三人が帰ってきたことに気づき扉を開けたらしい。
「それに……アリス君は、怪我もしているようだわ」
「あ、そうだ。忘れてた」
 赤騎士の手によって地面に思い切り押さえつけられたアリストは、あちこちに擦り傷を作っている。本人は気にも留めていなかったのだが、目を留めたダイナの方が痛ましそうな顔をした。
「とりあえず手当をしましょう。うちに寄ります?」
「でも、こんな時間に御迷惑では……」
 治療ならすぐ隣のヴァイスの家でもできる。子どもらしからぬ気遣いの声をあげたのはチェシャ猫だ。
 しかし、家主であるヴァイスの方がその誘いに乗ると返した。
「いや、悪いがダイナ、ちょっと上がってもいいだろうか。私は用があるから、この二人に手当てをしてほしい。あと出来れば風呂なども借りたい」
「ヴァイス?」
「白……ヴァイス」
 ヴァイスは常日頃から虎視眈々とダイナに近づく機会を狙っている。いきなり隣に越してくるなどストーカーじみた面もあるが、逆に言えばその行動自体は必要以上に図々しかったり馴れ馴れしくはない。
 と言うか、そんな馴れ馴れしい行動が自然にとれる男はストーカーになどならない。意中の女性に上手く近づくことができないからこその隣人として遠回しに仲良くなろうというストーカー作戦である。
 この時もヴァイスは別に下心からというわけではなく、単に必要性の問題という、本当に困った顔でダイナに頼み込んだ。
「知っているとは思うが、私はこれまでずっと男の一人暮らしだった。子ども、特に小さな女の子が生活できるような準備など何もない」
「……そう言えば、この家のお風呂にはろくなシャンプーすらなかったわね」
 昼に一応地下道を通った汚れを落とすために湯を借りたものの、ほぼ石鹸しかないような風呂場に驚いたチェシャ猫が遠い目で頷いた。
 ヴァイス本人はきちんといつも清潔感のある身なりをしてはいるが、それは必要最低限をきっちりこなしているだけでメンズ化粧品を大量に買い込むような性質の男ではない。
「悪いが、この二人を上げてやってくれ。私はうちの用事が終わったら引き取りに行く。せいぜい三十分程度だ」
「わかりましたわ。じゃあ、アリスくん、シャトンちゃん、一緒に来てね」
 部屋の扉を開いたダイナに招き入れられ、二人は少しだけ「レーヌ家」に世話になることになった。
 アリストにとっては実に二日ぶりの我が家である。

 ◆◆◆◆◆

「痛くない?」
「だ、大丈夫です!」
 姉の優しい手に傷の手当てをされ、アリストは不覚にも涙ぐみそうになった。過剰な反応も痛みのためと姉が誤解してくれるのであれば、今なら女々しいと言う言葉も受け入れよう。
 ここは自分の家で。この人は誰より大事な自分の姉で。
 けれど今のアリストでは――「アリス」としての姿では、それを伝えることすらできない。
 シャワーを借りていたチェシャ猫が出てくる。この家にはヴァイスの家よりもシャンプーやソープの類が豊富で、いつもと同じ表情ながらチェシャ猫もいくらか機嫌が良いようだった。
 アリストも一日ぶりにとても気分が良くなるのを感じた。やはり自宅は落ち着く。
「お風呂、ありがとうございました」
「どういたしまして。二人とも、こっちでお茶にしましょう」
 汚れた体を清め傷の手当てを終えて、ようやく人心地がついた。その頃には隣の部屋で即席の通報システムを解除していたヴァイスもレーヌ家にやってくる。
「すまんな、ダイナ。世話になった」
「いえ、こちらこそいつもお世話になっております」
 ヴァイス自身は自宅で風呂を使って来たらしい。煤だらけの格好から着替えている。この時間だというのにダイナを訪ねるためか、やたらと気合が入っているのが気に入らない。
「そう言えばルイツァーリ先生」
「なんだ?」
「アリスくんとシャトンちゃんの親権問題って……」
「あー」
 子ども二人になるべく聞かせないよう、僅かに声を潜めながらのダイナの問いに、ヴァイスがそういえばそんなこともあったと苦い顔をする。
 アリストとチェシャ猫の二人はお茶菓子に夢中の振りをしながらしっかり聞き耳を立て、自分たちの頭でもこの先どうするべきかを考えていた。
 両親に関することは可能な限り濁して最低限の部分だけ捏造するしかないが、どういう状況を周知させるのがもっとも自然か。
「その、向こうも遺産相続が血で血を洗う勢いで」
 いきなりちょっとまずいことを言いだすヴァイスにじと目を向けつつ見た目子どもたちは大人たちの会話を見守る。
「騒動がどうにも長引きそうでな。他に引き取る人間もいないし、しばらくは私が預かることになるかもしれないのだが……」
「ルイツァーリ先生が引き取るのですか?」
「いや、そうではない。あくまでも一時的に預かるだけだ。私以上に保護者に相応しい相手が出てきた場合、そちらに行ってもらうことになる」
 アリストとチェシャ猫の二人は、状況次第ではどこか別の場所で生活をした方がいい場合もある。
 それに睡蓮教団の調査や戦いがうまくいって元の姿に戻れるようになったら、当然ヴァイスの元からは姿を消すことになる。事後の処理のためにはあくまでも「一時的にヴァイスのもとに預けられた子ども」を演じるしかないだろう。
「でも……お一人でいきなり小さな子どもを二人も預かるのは大変では?」
「う……」
 そこなのだ。問題は。
 ヴァイスがもっと里親、養親として相応しい人間であれば「親戚の子どもを預かっている」発言にも説得力が出るのだが、残念ながら彼の性格的にまったくもって向いていない。
 ジグラード学院の生徒あたりであれば、ヴァイスのもとに年端もいかない子どもがいるという話の時点で「虐待じゃねーか」と言い出すだろう。もちろん、その場合真っ先にこのツッコミを入れるのは当事者でなかった場合のアリスト本人である。
 しかし、そこで救いの手が現れた。
「よろしかったら、私も少しお手伝いさせていただけませんか?」
「本当か?! ダイナ!」
「ええ?!」
「はい。お料理とか、たぶんしばらく作りすぎてしまうと思うし、ぜひお裾分けさせてください。ルイツァーリ先生が何らかの用事でお出かけする際には二人をうちで預かってもいいですし」
 想い人からの思いがけない申し出に、ヴァイスが顔を輝かせる。焦ったのはアリストだ。
「ちょ、待っ――」
「これまでずっと男の方の一人暮らしで、いきなり三人分の生活を整えるのも大変でしょう? 女の子もいますし」
「いやぁ、ありがたい。実は私も自分一人の力では不安で――いででででっ、なんだアリス」
「……ヴァイスー、ちょっとこっち来て~」
 アリストはヴァイスの手を抓って気づかせると、引きつった笑顔のまま、彼をダイナの目の届かない廊下に引っ張り出した。
 扉を閉めた途端、彼が愛らしい子どもの仮面をかなぐり捨て鬼の形相になったのは言うまでもない。
「いきなり何を言い出してんだよテメーは!」
「何を言う! ちょうどいいだろうが、渡りに船! 棚からぼたもち!」
「どういう意味でだ! 姉さんに迷惑かけてんじゃねーこのストーカーが!」
 ダイナの傍にいられるのは嬉しいが、過剰に彼女を事態に巻き込むのはよろしくない。そうなれば何のために「アリストが盗まれたものを取り返すためにしばらく帝都を離れる」という嘘までつく羽目になったのか。
「……バレたらどうするんだよ。俺はこんな事態に、姉さんを巻き込みたくない」
 長き不在と連絡が取りづらくなることに関する心配と、全てを明かした後の心労を計りにかけ、アリストは前者を選んだ。ダイナに自分の正体が――「アリス」が「アリスト」であることがバレたら困るのだ。
「お前の言いたいことはわかるがな、実際、生活面での助け手は必要だぞ。今までダイナと共に生活してきたお坊ちゃん気質のお前に私の生活ペースに合わせて生きることができるか? お前より繊細な女の子のチェシャ猫はどうする?」
「う……」
 料理一つとっても、ヴァイスにまともなものが作れるとは思えない。彼の腕前はとりあえず死なない程度に食えればいいぐらいのものである。
「必需品の買い出しだってそうだ。私がチェシャ猫を連れて女児用の下着売り場なんぞに出かけた日には即刻通報されるわ!」
「不審者の自覚があるならその生き方を改めろよ!」
 確かにヴァイスはチェシャ猫ともアリストとも似ていないので親子にも兄弟にも見えない。二十七歳の男性と七歳の子どもではそのどちらで通すにも若干苦しい関係である。アリストとチェシャ猫もまったく似ていないので尚更だ。家族と言い張るのは不審である。
 そこに温厚で分別ある女性のダイナが付き添ってくれるだけで、具体的な関係を想像すると多少おかしいものの、集まって何かをしてもとりあえず咎められることはない程度に一般人を装える。
「要は、お前のことがダイナにバレなきゃいいんだ。気張って隠せ」
「他人事かよ!」
「他人事だ」
 確かに普通は十七歳の少年が七歳の子どもにまで若返ったなど思いもしないだろう。「アリスト」と似ている「アリス」のことは気にかかるだろうが、常識的に考えれば他人の空似と思うしかない。
「幸い……と、言うのもなんだが、ダイナは知らないのだろう。お前の子ども時代を」
 口にするヴァイスも微妙な顔になったが、言われたアリストも複雑になる。
 そう。幸か不幸か、ダイナ=レーヌはアリスト=レーヌの過去の姿を知らない。
 親の再婚で二人が義理の姉弟の関係になったのは、アリストが十二、ダイナが二十歳の時だからだ。
 アリストが少女だったら顔も声も似すぎていて非現実的な疑惑は深まったかもしれないが、少年は声変わりをする。アリストの子どもの頃の様子を知らないダイナ相手なら、今のアリストが子ども特有の甲高い声をしていることもあって、演技次第でどうにか誤魔化せないこともないだろう。
「それに、離れすぎるのも逆に不安だしな。考えてもみろ。今のところお前の事情は私が電話で彼女に伝えたことが全てなんだぞ」
 この上いきなりダイナから距離をとるために引っ越しなどしたら、何かやましいことでもあると疑われかねない。
 アリストを最後に見て以来ずっと本人からの連絡がなく、その近況について知人が口頭で伝えただけで音沙汰がないとすると。
「……なんかそれ、お前が俺を殺して埋めて逃げたみたいなんだけど」
「なんで私がそんなことをしなきゃならんのだ。だから、多少怪しかろうと不自然だろうと、こうして何食わぬ顔で日常を送るのが一番いいんだ」
「……」
 アリストにしても、ダイナと離れすぎるのは不安だ。弟としての存在は取り戻せなくとも、彼女が困った時や何かあったとき、すぐ傍で駆け付けられる距離にいたいという想いは当然ある。
「“アリスト=レーヌ”の不在に関しては幾つか布石を打っておかねばならないからな。ダイナの行動もある程度見張っておきたい。彼女の性格からすると、不審な状況でお前がいつまでも帰らないとなるとあらゆる手を尽くして探すだろう」
「あ……」
 怒涛の展開が続いてそこまで考えが及んでいなかったアリストは、ヴァイスの言葉に改めて扉の向こうの姉の存在を想った。
 いつまで誤魔化せるのだろう。あの人はいつまで、都合よくこちらの嘘を信じて騙されてくれるのだろう。
 たった一人の家族がいなくなれば警察に相談したり、探偵に捜索を依頼する可能性だってある。アリストだってダイナが突然いなくなったら間違いなくそうする。
「……ダイナを悲しませたくなかったら、お前は常に能天気でアリストとは全く別人の子どもの振りをして、笑顔で彼女を騙しきれ」
 同じように子どもにされても、チェシャ猫はまだマシだった。彼女は自分を偽る必要がない。
 けれど周囲を騒がせず危険に巻き込まないためには、アリストは「アリスト」を封印して「アリス」を演じきらなければならない。
「……わかった」
 アリスト=レーヌの不在に関してはヴァイスになんとかする当てがあると言う。
ならばアリストはあくまでも、これから先「アリス」を演じ切るだけだ。
 そしてただの子どもであるアリスとしてなら、ダイナの好意的な申し出は無邪気に受け入れるのが自然なのだろう。
 話に決着がつき、二人はレーヌ家の居間へと戻る。
 チェシャ猫とダイナは話が弾む様子ではないが、当たり障りなく会話を続けていたようだった。戻ってきた二人に視線を向ける。
「おかえりなさい。お話は決まりました?」
「ああ。すまないな。変なところで中座して」
 ダイナはヴァイスに微笑むと、視線を合わせるように腰を屈めてアリストの顔を覗き込む。ほんの少し気がかりな表情で。
「私が一緒にいるの、嫌だった?」
「ち、ちがっ、違うよ!」
 その言葉にアリストはぎょっとした。酷い誤解をさせてしまったかと、ぶんぶん首を横に振って否定する。
 その頭を本当の子どもにするようにぽんぽんと軽く叩いて、ヴァイスが珍しくフォローを入れた。
「何分複雑な環境の子どもだからな。まったくの他人に世話になるのに、ついつい遠慮してしまったらしい」
「そう。アリスくんは真面目なのね。でもいいのよ、私も今はちょうど弟が家を空けていて、ずっと一人でいなければいけないのも寂しいし……」
 微笑んでいるのにどこか悲しげなダイナの表情に、アリストは今この瞬間も彼女に負担をかけていることを自覚する。それでも真実を明かすわけにはいかない今は、無関係な子どもの振りをしなければならない。
「お世話に、なります」
 ぺこりと頭を下げると、チェシャ猫も椅子を降りて隣にやってきた。アリストに合わせて頭を下げる。
「まぁ、二人とも。いいのよ、どうか頭を上げて――」
「ダイナ」
 ヴァイスがすっと指を伸ばし、戸惑う彼女の両手を握りこんだ。
「君の好意はしかと受け取った。これからの日々、ありがたく世話になろう。何、いずれ子どもができて家族が増えた際の予行演習と思えば――ぶっ!」
 二方向からの衝撃に、ヴァイスは台詞の途中でその場に倒れ込んだ。
「何してんだセクハラ野郎!」
「婦女暴行罪よ、ヴァイス=ルイツァーリ」
「いくらなんでもそこまで酷くはないだろ?!」
 子ども二人に怒られて、ヴァイスが殴られた箇所をさすりながら反駁する。シスコンはともかくチェシャ猫にまで殴られる謂れはないと後で抗議したのだが、「シスコンでなくとも殴りたくなった意味を考えなさい」と氷点下の声で返された。
 ダイナはヴァイスの決死の口説きも気にせずころころと笑っている。
「しっかりした子たちね。この二人ならきっと、どんな状況が来ても大丈夫そうね」
 そして彼女の台詞通り、これから日常生活と言う名の嵐が幕を開けるのである。