第1章 月夜の時盗人
4.指切り―Pinky Promise― 020
四月五日。帝都エメラルド。
多くの学校がこの日、入学式を行う。
帝都一の規模を誇るジグラード学院も例外ではない。
「それでは、皆さん一人ずつ自己紹介をしましょう」
「「「はーい」」」
朗らかな担任の声に促されて。ジグラード学院小等部のとあるクラスでは小さな子どもたちの元気な声が重なった。
今頃いくつもの他の学校、学部、学年のそれぞれの教室で行われているだろうやりとり。もちろんこのクラスも例外ではなく、幼児を脱しかけた子どもたちが和気藹々と集っている。
今、名を呼ばれた一人の子どもが席を立つ。もう少し学年が上がれば自己紹介もそれなりに色を付けた挨拶が求められるが、小等部一年生なら本当に名前だけを名乗る程度だ。
「アリス=アンファントリーです……よろしく」
こうして、本来十七歳になるはずの“アリスト=レーヌ”は、無事に“アリス=アンファントリー”として小等部一年の入学式を終えた。
◆◆◆◆◆
小さな子どもたちの体に合わせた小さな机と椅子。悲しいことに、アリスト改めアリスには今のこの机のサイズがぴったりだった。
「はぁ」
「小等部一年生が入学式から何暗い顔してるのよ」
くす、と小さな笑い声が隣からかけられる。こちらも到底小等部生らしくない大人びた皮肉気な物言いは、もちろん中身は大人の少女、アリスと共にこのたびジグラード学院小等部に入学した“チェシャ猫”改め“シャトン=フェーレース”だ。
「今更小等部からやりなおしかよ……」
「あら、いいじゃない。それにどうせあなた、この学校の小等部には通ったことないんでしょう?」
親の再婚で帝都に移住してきたアリストは、ジグラード学院の小等部には通ったことがなかった。それは事実なのだが。
「だからって、今更七歳の子どもらに交じってお勉強って……」
気分が暗くなるのも無理はない。
「仕方ないじゃない。私たちの今の見た目年齢だと、それらしい身分を手に入れるには小等部生として学院に在籍しそう振る舞うのが一番自然なのだから」
これよりも小さな子どもになると、毎日学校に通わなくて済む代わりに保護者をつけずに歩いていると過剰に心配される恐れがある。ヴァイスがうっかり通報されても困るし、アリスとシャトンはなんとか「普通の子ども」をそれらしく演じる必要があった。
……すでに果たせていないような気もするが。
「それにしても、つい四日前までは存在もしなかった人間がたった数日で学校への入学を果たしているとはな……」
今ここにいることに関し、アリスは納得以前の多大な疑問を山ほど抱えていた。戸籍のない子どもを小等部に通わせるのは可能なのだろうか。いや待て、もしそれが可能だとしても、たった数日でどうやって……。
手続きをしたのはもちろんヴァイス=ルイツァーリ。どういうツテを持っているのかもわからない、相変わらず謎が多い男である。
「あなたの場合それでもまだ数日あったわけじゃない? 私なんか赤騎士との戦いの後だから準備をしなきゃって話になったのがまず昨日のことなのよ?」
ここ数日を振り返ると、本当に激動だった。
新学期開始の一日の夜に“アリスト”は“アリス”にされ、二日にかけてヴァイスに助けられた。同日昼はゲルトナーの話を聞きに行き、赤騎士に襲撃されたところをシャトンに助けられる。二日から三日の夜にかけて決戦を行い、ダイナと会話をして、その日の昼間は全員が疲れ切って一日寝ていた。
というわけで入学準備を行ったのは式前日の四月四日のみというハードスケジュールであった。と言ってもアリスの入学に関しては、ヴァイスはもともとこの事態を予期して色々手を回していたらしい。
アリスを置いてヴァイスが用事を済ましてくると言った二日の昼、一人になったところを赤騎士に襲われたあの時間だが、どうやらヴァイスは小等部の手続きのために役所に行っていたらしいのだ。
彼には最初から見当がついていたのだろう。アリスはすぐには“アリスト”に戻れないことが。
元の姿を取り戻すその日までは、“アリス”としてまるで別人の子どもの生活を送る。そういう雌伏の時が続くということを。
「ま、いい加減納得しなさいよ。初日からそんなテンションじゃ鬱陶しいわよ」
「あのなぁ……」
誰のせいでこうなったのかという言葉を呑み込む。
シャトン自身の性格はまぁともかくとして、彼女の存在自体は心強い。彼女がこちら側にいる限り、睡蓮教団から盗まれた時間を取戻しさえすれば、アリスは元の姿に戻れるのだから。
「あ! ねぇねぇキミ!」
アリスが隣のシャトンをじとっとした表情で睨んでいると、突然そんな声がかけられた。
小さな少女、と言ってもこのクラスは小等部一年生なのでみんな小さな子どもなのだが、ふわふわとした髪の愛らしい少女がアリスに視線を向けている。
彼女の後ろには少年が二人立っていた。
「はい?」
いくらこれからクラスメイトになるとはいえ、今日は入学初日。小等部生の知り合いはいない。何故自分が呼びかけられたのかわからず、アリスは首を傾げる。
少女の顔にも見覚えはない……と、そこで数日前の出来事を思い返し、アリスは彼女と初対面ではないことに気づいた。
「あ」
「やっぱり、この前の子だよね!」
“アリスト”が“アリス”にされてすぐ、大人物の服の裾を引きずってずぶ濡れの状態で街を歩いていた時に声をかけてきた家族連れの子どもだ。
「あの時すんごい恰好だったから、心配してたんだよ!」
「あ、ああ~あの時はありがとう。あれからすぐ、迎えが来てくれたんだ」
「ほんと? 良かった!」
嘘は言っていない。直後に赤騎士に殺されかけて、そこに駆けつけてきたヴァイスの魔導の犬に咥えられて運ばれたという迎えだったが、嘘は言っていない。
「わたし、カナール=ハウスエンテ。カナって呼んでね!」
「俺はアリス。アリス=アンファントリー。こっちはシャトン=フェーレース」
「よろしくね」
「うん!」
アリスが流れでシャトンを紹介すると、カナールの顔がぱっと輝いた。彼女も背後に立っていた少年二人を前に押し出す。どうやら三人は以前からの友人同士らしい。
「僕はローロ=プシッタクスです」
「俺はネスル=アークイラ!」
丁寧な言葉遣いの少年と、見るからに元気の良さそうな正反対のタイプの少年二人が、カナールと同じく好奇心に顔を輝かせている。
「アリスさんもシャトンさんも、この近くではあまり見かけない顔ですよね? どこかから引っ越して来たんですか?」
「それとも、おうちは遠くてジグラード学院に通うために遠距離通学?」
「お前らどこに住んでんだ?」
「ああ、うん。色々あってね……今はとりあえずこの近所に来たところだよ」
「私たち、ちょっと事情があって両親から離れて、他のおうちでお世話になっているの」
「へー」
入学式直後に授業があるわけでもなく、校舎の探検なども全学年全学級が一度に行うとこのマンモス校を超えたマンモス校であるジグラード学院では大混乱が起きてしまう。今は自由時間として、交流を深めるよう担任からも指示されていた。
あちこちで子ども同士の何気ない世間話に花が咲く。
「こんにちは」
アリスはまた、誰かに話しかけられた。振り返った先を見てみれば青い髪のどこか大人びた雰囲気のとても綺麗な少年で、彼には先程のカナールよりもずっと見覚えがある。
「君は、確か」
「テラス=モンストルムだよ。よろしく、アリス」
テラスと名乗った少年は、アリスがゲルトナーに睡蓮教団のことを聞きに来た二日の帰りに校門で出会った子どもだった。そう言えばあの時もなんだか普通の子どもらしくない程に大人びた少年だと思ったのだ。
「彼女はフォリー。フォリー=トゥレラ。僕の幼馴染だよ。そちらはシャトン=フェーレースさんでいいんだよね?」
「ええ……」
先日と同じように、隣に立つ大人しそうな少女の名を彼が紹介した。そしてテラスは一度クラスの前で名乗っただけだというのに、シャトンのこともすでにフルネームで覚えているようだった。
「知り合いなの?」
「先日ここでちょっと会ったんだ」
シャトンもテラスとフォリーの独特な雰囲気に何か感じるものがあるのか、そっとアリスの耳元に口を寄せて小声で尋ねる。
しかしアリス自身も、この二人と顔を合わせたのはあの時だけだ。
視線を向け直すとテラスはにっこりと笑みを浮かべてくる。
「やっぱり、同級生になったね」
「あ、ああ。そうだな」
表向きは友好的で人当たり柔らかな少年、だが彼はどこか、その稚い見た目にそぐわぬ謎めいたものを抱えているように思う。
「はーい、皆さん。そろそろ席に戻ってくださーい」
一度他クラスとの打ち合わせに出ていた担任が戻ってきた。恐らくこれから校舎内の見学でもするのだろう。生徒たちをひとまず自分の席に戻らせる。
「なんだか、この生活も退屈だけはしなさそうね」
見るからに元気いっぱいなカナール、ローロ、ネスルの三人組。
そして自分たちを棚に上げてアリスやシャトンにさえ子どもらしくないと思わせるテラスと、彼の幼馴染のフォリー。
子どもとしての日常なんて、適当に学校に通って見た目も中身も子どもの同級生とままごとじみたやりとりを交わすだけで済むという予測は甘かったかもしれない。
小等部一年、アリス=アンファントリーの学院生活は、すでに波乱の匂いがしていた。