Pinky Promise 023

第1章 月夜の時盗人

4.指切り―Pinky Promise― 023

 ゲルトナーの研究室を辞し、三人で廊下を歩いているとダイナの姿を見かけた。
「ダイナ」
「ああ、ルイツァーリ先生。アリス君にシャトンちゃんも」
 ヴァイスの呼びかけで彼らに気づいたダイナはそれまでのどこか憂いを帯びた表情を消して笑顔になる。アリスはほてほてと彼女の方へ歩み寄った。
「入学式はどうだった?」
「うん、楽しかったよ。何日か前にたまたま街で会った子が一緒のクラスだったんだ」
「それは良かったわね。早速お友達ができたのね」
 腰を屈めて「アリス」の目線に近づけてダイナは話しかけてくる。その顔は柔らかな笑みを浮かべてはいたが、アリスとしては先程の憂い顔の方が気になった。
「ダイナお姉さん、どうかしたの?」
「え? ……どうして?」
「さっき一瞬、なんだか元気がないみたいに見えたから」
 無邪気な子どもを装って不調を聞きだそうとする。なんだか卑怯な気もするが、今の見た目ではそのぐらいでなければ相手もしてもらえない。
 先日、ヴァイスが急に預かることになった二人の子どもたちの世話を手伝いたいと申し出たダイナは、その言葉通りに彼らの世話をして、あれこれと便宜を図ってくれた。
 アリスとシャトンが不自然な時期に転入などということにならぬよう、入学式に間に合わせるため強引な手段で書類を捻じ込んだヴァイスは昨日四日はほとんど家を空けていた。その間二人の面倒を見てくれたのはダイナである。
 朝昼の軽い差し入れだけならまだしも夜はしっかりと夕食まで作ってくれて、むしろヴァイスの家の台所を彼女が借りる形だった。家主よりものの扱いに詳しい彼女のおかげで、アリスたち三人はおいしい食事にありつけたのだ。
 昨日の夕食を一緒にした時のダイナの様子はいつも通りだった。しかし今日はなんだか力が入っていない様子である。……何かあったのだろうか。
 アリスとしては今の状態ではとくに連絡も入れられない。声が違うので電話などかけられるはずがないし、下手な話をしてつじつまが合わなくなっても困るのでろくにメールもできないのだ。
 その辺りに関してはヴァイスに誤魔化す当てがあるのでもう少し待てと言われた通り、アリスはただの子どもとして振る舞い、「アリスト」として姉や知人と連絡をとることを今は一切控えている。
「いえ……ちょっとね。今日は始業式だけれど、結局アリストは戻って来なかったのねと考えたら……」
「あ……」
 アリスとしてはダイナの様子を見ることができるが、ダイナとしては「弟」にもう四日も会っていないのだ。
 それも日数が決まった旅行などではなく、何か事件に巻き込まれでもしたかのような姿の消し方だった。
 ヴァイスを通して連絡を入れたものの、それだけでは不安になってもおかしくない。
 ――姉さん。
 ダイナとアリストは、たった二人の姉弟だ。アリストに何かあれば、ダイナは独りになってしまう。
 彼女は学院内でも外でもとても人気があるから、その気になれば友人も恋人もいくらでも作れるだろう。けれど家族と言える存在は、もう血の繋がらない弟であるアリストだけなのだ。
 その彼女を不安にさせていることに、アリスの胸も痛む。
「約束したのにね」
 ダイナの紅い唇から小さな囁きが零れる。
 どんなことがあっても、ちゃんと帰ってくると。
「ダイナお姉さん」
 アリスは呼びかけた。
 今は本物の弟なのだと告白することのできないその人に。それでも、「アリス」としてでも何か言葉を返したかった。
「“アリスト”は、必ず帰ってくるよ!」
「……アリス君?」
 アリストがいなくなってから現れたはずの子どもの言葉に、ダイナが僅かに驚きを浮かべる。
「あ……」
 ここでぼろを出せばせっかくのこれまでの偽装が無駄になる。アリスを止めようと二人の間に割って入ろうとしたシャトンを、ヴァイスがそっと肩を掴んで押し留めた。
 好きにさせてやれ、と。
「ちょっと時間はかかるかもしれないけど、でも、必ず、必ず戻ってくるから……」
 背伸びをするように腕を伸ばして、アリスはダイナに片手を差し出した。
 正確には、片手の小指だ。他四つの指を折りたたみ、小指だけを突き出している。
 その手の形にダイナがハッとして紅い瞳を瞬いた。ゆっくりと口元に微笑を浮かべると、自分も同じように立てた小指を差し出す。
 アリスは小指と小指を絡めて、もう一度誓いを――約束の言葉を繰り返した。
「必ず帰ってくるよ!」
 本当はわかっている。
 いくら禁呪の開発者であるチェシャ猫が傍にいるからって、必ずしも元の姿に戻れる保証はない。
 睡蓮教団から時間を取り戻そうとして殺されるかもしれない。生き残れても、時間を取り戻すことはできないかもしれない。取り戻すことができたとして、それはもはや手遅れとなるほど時間が経ってからの話になるかもしれない……。
 不安要素を数え上げればキリがない。どれだけ難しいことかは、アリスだって言われずとも理解している。それでも。
 それでも、戻るから。
 あなたの傍に、帰ってくるから。
「ええ」
 ダイナが瞳に半ば涙を浮かべて頷く。
「私も……信じているわ」
 弟が必ず帰って来ることを。
「だから、だから……」
 待っていてと告げようとした言葉は、驚愕に目を見開いたダイナの表情に呑みこまれる。
「あ……アリスト?!」
 へ? バレた?!
 アリスは慌てたが、どうやらそういうことではなさそうだった。いや、ちょっと待て。むしろそれ以上にどういうことだこれは。
 ダイナの視線を振り返ったその先に。
(お……俺がいる?!)

 ◆◆◆◆◆

 時間は数分前に遡る。
 フートたちアリストの友人連中も雑談を終えて、そろそろ帰り支度をするところだった。
 そこに、携帯片手のギネカが血相を変えて飛び込んでくる。
「い、今下に、アリストらしき人が!!」
「「「マジで?!」」」
 だだっと廊下に駆け寄る青少年たち。廊下の窓から見える中庭を通るのは、確かにアリストに見える……のだが。
「ってことはやっぱヴァイス先生の話がマジってこと?」
「確かにアリストだよな、あれ。他に金髪のああいう頭の奴っていたっけ」
「でも、なんでこんな時間に……」
「とりあえず行ってみよう……って、ギネカ?!」
 レントが声を上げたのと、ギネカが窓枠を蹴って約二階分の高さを飛び降りたのは同時だった。
「ちょ、普通飛び降りるかよ!」
「ま、その方が早いしな」
 そしてフートも飛び降りた。しかも彼の場合一人ではなく、幼馴染のムースを抱えて。
「ええええええ?!」
 フートは叫んだ。確かにこの学院の学年成績トップを争うような連中は文武両道で身体能力も高いのだが、だからと言ってこれはないだろう!
「感心してる場合じゃないよ、レント。僕たちも行こう。もちろん、普通に歩いて」
「そうだよレント! あたしたちはこんなとこから飛び降りるなんて無理だからね!」
 ヴェイツェとエラフィに促され、レントも慌てて駆け出した。

 ◆◆◆◆◆

「ごめん、姉さん! 今までろくな連絡もしないで!」
「アリスト」
 両手を顔の前で合わせ、ダイナに向かって勢いよく謝る男。その顔はどこからどう見ても、“アリスト=レーヌ”にしか見えなかった。
「嘘……」
 アリスは呆然と呟く。
「な、なんで」
 隣からシャトンがのほほんと問いかけてきた。
「あなた実はアリスト=レーヌじゃなくて別の人だったの?」
「ンな訳あるか!!」
 ちょっと声が大きくなってしまったが、今はそれどころではない。誤魔化さなければいけない相手はアリスト(偽)と会話中でこちらのことなど気にも留めていなかった。
「四日もかかるなんて、どんな事件に巻き込まれていたの?」
「あ、ごめん。まだ、終わってないんだ」
「え?」
 “アリスト”の言葉に、ダイナが再び顔を曇らせる。
「はじめは変な泥棒にちょっと盗られたものを取り返しに行ってただけなんだけどさ……その過程で俺と同じ立場で困ってる奴と出会ったり、俺を助けてくれた探偵さんがまだ他にも解決しなきゃいけない問題を抱えてたりで、今度はそっちを手伝ってやりたくなったんだ」
 だから学院はしばらく休学して、帝都の外でそれらの諸問題を片づけてくる、と。
「ど、どれくらいかかりそうなの?」
「……わからないんだ。色々複雑な事情が絡み合っているみたいで、今はまだ初期の初期段階過ぎて目処も立てられない」
「そんな……」
 ダイナの落ち込んだ様子に、“アリスト”も眉を潜めた。罪悪感に苦しむかのようなその様子に、アリスはまるで鏡を見ているかのような気持ちに陥った。
 だが、この男は本物のアリストではない。そして本物のアリスト自身は、今の姿はアリスと名乗る子どもでしかない。
 一体どういうことなのか。混乱状態でパンクしそうな中、これまで不自然に黙っているヴァイスの状態に気づいた。
「ヴァイス」
 彼は自らの唇の前に指を一本立てて内緒のポーズを取っている。
 まりこの“アリスト”は、ヴァイスの仕込みということか? アリスがアリストとしてダイナと連絡をとれるよう色々やっているというのは、まさかこのことだったのか?
「……事件が、全部解決したら、帰ってくるよ」
 そして“アリスト”は屈みこむと、“アリス”の頭に手を乗せて言った。
「姉さんを一人にしてごめんなさい。でも、最近ヴァイスの家にこいつらが増えて賑やかになったんだろ? ちょっとの間だけ、我慢させてもいいかな」
「アリスト……」
 ダイナの視線が“アリスト”と“アリス”の間で揺れる。
 先程アリスはついつい「アリスト」の名を出してしまったが、どうやらこの“アリスト”にしても“アリス”と面識があることにするらしい。上手く行き過ぎるつじつま合わせは、やはりヴァイスの仕込みだからだ。
「アリスト!!」
 突然、今までとは別の方向から名を呼ばれて、本物と偽物のアリスト二人共思わず振り返った。
「マギラス、マルティウス。それにシュラーフェン、あっちから走ってくるのはターイルとアヴァールとセルフだな……ん?」
 まるで誰かに説明するような口調でアリストの友人たちの名を連ねたヴァイスが最後に何かに引っかかるような顔をした。“アリスト”の方も一瞬「やべっ」という顔をしたのをアリスは目撃する。
「……知り合いでもいるのかしら」
 アリスと同じく、むしろ十七歳のアリスト本人を知らないだけにいたって冷静にこの状況を観察していたシャトンがアリスだけに聞こえるような声で囁く。
 この“アリスト”がアリストの振りをしている“誰か”であれば、その誰かを知っている相手と顔を合わせるのはまずいに決まっている。
 だが、その“誰か”は退かずに演技を続行することにしたようだった。くるりと振り返り友人たちの方に向き直った時には、もう“アリスト”の顔をしている。
「よ、お前ら。なんだよいきなり」
「それはこっちの台詞だよバーカ!」
 フートがムッとして“アリスト”に詰め寄る。
「数日前に行方不明になったとか変な連絡入ったと思ったら、始業式まで欠席しやがって。何かあったかと思ったじゃねーか」
「アリスト、今までどこで何をしていたの?」
 多少不自然な動作で、ギネカがフートを押しのけアリストに迫りその腕を掴んだ。
 傍でその様子を見ていたアリスは、変だな、と感じた。積極的に身体的接触を図ろうとするのは、いつもの彼女らしくない。
 “アリスト”の腕を掴んだギネカは、一瞬後にハッと表情を変えた。そしてぱっと手を離す。
「マギラス、どうかしたのか?」
「あ、いえ……なんでもないんです……」
「ギネカさん、ずっとアリスト君を心配してましたから」
 ヴァイスの問いに、ギネカがぎこちなく返す。隣に立ったムースがフォローを入れた。しかしギネカの表情は何故か晴れない。ムースの言葉を肯定も否定もしないのが気にかかる。
 そうこうしている内に、あとの三人もようやく追い付いてきた。
「フート! ギネカ! てめーら何やってんだよ!」
 いきなり二階の窓から飛び降りた彼らを追ってきたレントの台詞は、そのことに対する文句から始まった。後ろでヴェイツェとエラフィも息を整えている。
「でも、アリスト来てたんだね。良かったですね、ダイナ先生」
「ありがとう、アヴァール君。皆さんも、先日は真夜中にごめんなさいね」
「いえ、大丈夫っす。はい」
 とにかく“アリスト”の顔を見た面々は、ひとまず安堵の表情を見せた。
 いまだに固い顔をしているのは、先程不思議な行動をとったギネカ。そして。
「……ふぅん」
 いつもは陽気すぎるくらい陽気なエラフィが、何故か“アリスト”を思わせぶりに睨んでいる。
「エラフィさん、どうかしたの?」
「ううん。なんでも。それより“アリスト”、始業式にも来なかったのにどうして今頃こんな時間に学院に来たの?」
 様子に気づいたムースの問いをさりげなく躱し、エラフィは“アリスト”の名の部分に力を込めて彼を呼ぶと、この場にいる事情を問い質す。
「実は俺……」
 “アリスト”は先程ダイナにもした休学の話を彼らの前で再び繰り返す。
「「「ええ――?!」」」
「わり! 近々携帯のアドレスも変更するから、そうしたらちゃんと連絡つくようにするぜ」
「携帯? 買い替えるのか? なんで?」
 普段のアリストはメールアドレスでさえろくに変更しないでずっと同じものを使い続ける男だ。
「ちょっと郊外でのトレジャーハントとかもするようになるって言うからさ、この際衛星携帯にでも買い換えた方がいいって助言を受けたんだ。そうしたら帝都の外どころか世界中どこにいても連絡つくだろ?」
「トレジャーハントて……本当、何やらかす気なんだよお前」
 だから、自分に連絡をとるのはそれまで待ってほしいと“アリスト”は説明する。
「……わかったよ。お前が一度言い出したら聞かない性格だってことはな」
「ちょっとしたことならまだしも帝都の外に出るような話だと、さすがに俺らもついていけないしな」
「……なんだかよくわからないけど、十分に気を付けてね」
「ああ」
 フート、レント、ヴェイツェと言った男連中は、それで“アリスト”の事情を納得することにしたようだった。詳細を聞きたい感情もあるが、色々複雑な立場だと言うならそうなのだろうと。なまじアリストの実力を知っているだけに、下手な手出しは差し控える様子だった。
「まぁ、私たちのことは良いですけど、ダイナ先生にはきちんと連絡を入れなきゃ駄目ですよ?」
「うん、そうだな……。ごめん、姉さん」
「……アリストが無事で、元気でやっているならそれで充分よ」
 そろそろ時間だ、と“アリスト”が告げる。
「じゃな! みんな」
「あ、ちょっと待って。私、ちょっと“アリスト”に話あるんだけど、いいかな?」
 尋ねてはいるが半ば断定の口調で、エラフィが言うと“アリスト”の腕をとる。とるというよりもはや逃げられないようにがっちりと腕を組んでいる。
 引きつった顔の“アリスト”は、そうして強制的にエラフィに引きずられていった。
「……? アリストってセルフとそんな仲良かったか?」
「普通の女友達、ちょっと親しいクラスメイト程度だったと思うんだけど?」
「あれはもっと親しい距離感ですよね? いつの間にそんなことになったんでしょう?」
 残された者たちはその不自然な接触に疑問符を浮かべている。
 学生たちの後ろでヴァイスがこっそり顔を手で覆った。
「……バレたな。ありゃ」
 そしてアリスはそんなヴァイスを見上げてこっそりと尋ねた。
「結局、誰なんだ? あれ」

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