Pinky Promise 025

第2章 歪む鏡の向こう側

5.ダイナの翻弄 025

 雨の檻が血臭を閉じ込めている。
 絶え間なく降り注ぐ雫に打たれて、鬱蒼と茂る草をかき分けるむさ苦しい男たちのコートも暗い色に沈んでいた。
「また、“奴”か」
「ええ」
 男たち――現場を捜索する刑事たちの声が硬いのは冷たい雨に打たれていることだけが理由ではない。
 霧雨のヴェールに覆い隠されてはいるが、遺体発見現場は壮絶なものだった。
凄惨な殺人現場など見慣れているはずの強面の男たちが眉を顰める程に。
「凶器は見つかったか?」
「いえ、まだです」
 黄色いテープの内側で、彼らは今日も誰かの悪意と向き合う。
「これが、今日の遺体につけられていたカードです」
 ディアマンディ帝国帝都エメラルド警察本部、別名警視庁。
 捜査一課強行犯係の警部であるシャフナー=イスプラクトルは、部下に手渡されたビニール袋の中身に目を通す。
「くそっ!」
 大事な証拠品であるそれを、思わず怒りのままに握りつぶしそうになって慌てて自制した。
 イスプラクトルは刑事になって二十年近く経つ。その彼であっても、このように悲惨な殺人事件は滅多に遭遇するものではない。
「警部……」
「大丈夫だ。ちょっと腸が煮えくり返ってな」
「我々も、同じ気持ちです」
「早くこの事件の犯人を挙げねば。これ以上の被害者が出ないうちに――」
 今日殺されたのは、この春大学院を卒業したばかりの女性だった。一流企業に就職し、これからいくらでも成果を出すことができたはずの、明るい未来の持ち主――その、はずだった。
 草むらに転がる遺体にはそんな未来は見る影もない。
 一つの刃物で異常な程の執念を以て切り刻まれたその体。服は真っ赤に染まり、髪は血糊で頬に貼り付き、足元には抉られた体の「中身」が幾つも零れ落ちていたという。
「これで三件目か。これまでの被害者との接点は?」
「これまでと同じく、見つかっていません」
 帝都ではここ一月程、得体の知れない連続殺人が起きていた。
 被害者に一体何の恨みがあるのかと犯人の正気を疑う程に凄惨な遺体。けれど被害者の交友や背後関係を調べても、このような恨まれ方をする人物ではないという証言しか得られない。
 今回で三件目、これまでに二件起きた殺人の被害者たちそれぞれに接点はなく、共通しているのは皆非常に周囲から慕われている評判のいい人物だったということくらいだ。年齢も性別も職業も居住地域も外見もばらばらで、決して印象が重なるような相手同士ではない。
 では通り魔的な犯行かと言うと、それも考えにくかった。死亡推定時刻から算出した犯行時刻付近の現場周辺をどれだけ浚っても、通り魔的な犯行に及ぶ不審者の存在は見つけられない。
 一つの刃物で被害者を滅多刺しという殺害手段から見て、犯行時刻を誤魔化すようなトリックを仕掛けられる可能性は限りなく低い。なのに何故、どうしてその時刻に犯人らしき人物が挙がらないのか。
 いっそこれらが全て別々の人間による犯行であればまだ納得いく説明もできそうなものだが、そうはならない理由――この事件が同じ犯人による連続殺人事件であるという、一つの証拠があった。
 イスプラクトルが反射的に握り潰そうとした白いカード。
 飾り気のないそのカードには、いつも一つの古い童謡が書かれている。
「ふざけやがって……!」
 このカードの意味さえまだ、警察には何も掴めていなかった。
 とにかく情報が少なすぎる。被害者の接点が見えないことからこれは殺人自体を愉しむ快楽猟奇殺人だと吐き捨てた者もいたが、イスプラクトルの刑事としての勘は何かが違うと告げている。
「そう言えば警部」
「なんだ」
「エールーカ探偵、帝都に戻ってきているそうじゃないですか」
「ああ……」
 数日前、アラヴァストロ県警の知人から連絡を受けたイスプラクトルは頷いた。
ここ最近、隣の都市でも連続殺人が起きていて、県警はその解決に外部の手を必要としていた。すなわち、帝都の誇る名探偵ヴェルム=エールーカの力を。
 ヴェルムを紹介したのは、彼の両親と交友がありヴェルムが幼い頃から親交のあったイスプラクトル自身だ。すでに向こうの事件がヴェルムの助言により解決したことも知らされていた。
 しかし当のヴェルム自身は忙しいようで、帝都に戻ってから数日、こちらに顔を見せに来る様子はない。
「いっそうちも、エールーカ探偵の手を借りるとか」
「……そうだな」
 部下の若い刑事の言葉に、イスプラクトルは渋々ながら頷いた。
 ヴェルムの実力は、何よりイスプラクトル自身が認めているところである。だが彼は、いくら本人が探偵を名乗っているとはいえ、未成年である少年をこのように凄惨な現場に関わらせることを躊躇った。
 これはただの殺人ではない。
「この事件がいよいよ俺たちの手に余るとなった、その時は――」
 雨はまだ止まない。
 その雨の中で燃え上がる暗い炎も、まだ当分、消えることはなさそうだった。

 ◆◆◆◆◆

「で、どう? 久々の“学生生活”は」
「私ではなくあれに聞け、あれに」
 亜麻色の髪のルルティスなる少年がジグラード学院に編入したその日、赤騎士ルーベル=リッターは新しい隠れ家に帰る。
 “ルルティス=ランシェット”とはとある事情によりルーベルから分離しているもう一つの人格だ。魂は一つ。けれどそこに宿る人格は二つ。
 普段はルーベルを名乗る人格が表面に出ているが、彼の中にはもう一人、同じでありながらまったく別の人物が存在している。そのもう一人を変装代わりのカムフラージュに使い、ルーベルはこの都で活動するにあたり「学生」という身分を手に入れた。
「まったく、忌々しい。あの女がすぐに見つかれば、こんな小細工をせずに済んだものを」
「まぁ、いいじゃない。たまには」
「そういうお前はどうなんだ? 新しい指令が来たと言っていただろう」
「ああ……」
 ルーベルに問われ、白兎アルブス=ハーゼは手元の資料に一度目を落としてからこれ見よがしな溜息をつく。
「お前と同じ。全っ然ダメ」
「おい」
 二人はこの帝都で、新しい仕事をこなすように睡蓮教団の上層部から指令を下されていた。
 コードネーム“赤の騎士”ことルーベルには、教団を裏切って逃亡した“公爵夫人”の捜索が任された。生きたまま連れ戻すのかそのまま殺害するのかは教団の判断にもよるが、まずは彼女を見つけるところから始めなければならない。
 そして“白兎”ことアルブス=ハーゼへの新たな任務とは。
「連続殺人鬼?」
「ああ」
 教団の敵対者の発見と抹殺。
「……近頃ニュースになっている奴か? 詳細は伏せられているが、現場に残された証拠から同一犯による可能性が高いとか言う」
「そう、それ」
 そのニュース自体はルーベルもアルブスも知っていた。毎日流される割には、内容に進展がないことまでわかっている。
「あれの被害者が、全部うちの団員だって。もう三人殺された」
「……おやおや。ニュースでは誰からも愛される人格者ばかりと報道されていると思えば」
「愛されてるかも知れないけど、その何倍も恨まれてるだろうねぇ。ちなみに一番最近の被害者である大学院を卒業したばかりの新入社員は、四、五年前の爆弾事件に噛んでてスイッチ一つで四百人は殺してるはず」
 真実など傍から見ればわからないものだ。
 警察がいまだ掴めないこれら連続殺人事件の被害者の共通点は、その全員が睡蓮教団の関係者であるということ。
 末端の信者まで含めれば、睡蓮教団の関係者は恐らく世間が思うよりも多い。面識のない団員同士も多く、彼ら自身が普通に犯罪被害者となることもありえる。
 一度目は偶然、二度目もありえないことではない。
 しかし三人が殺されたとなれば。
「教団に対する宣戦布告か」
「だろうね。と言うか、すでに犯人は名乗りを上げているんだよ。はい、これ」
 手元のパソコンを操作して、アルブスは先程送られてきた画像をルーベルに見せる。
「なんだ?」
「警視庁に潜入中の“パット”から送られてきた資料。宣戦布告状だね」
「リチャードか。潜入と言うよりただの天職の気がするが……」
 彼らの仲間の一人、『アリス』の物語中で白兎の園丁と説明されている“パット”のコードネームを持つ男は一介の刑事として警視庁に潜入している。
 そのパットが、警察内で入手した情報をアルブスに送ってきた。
 ハガキサイズの白い用紙にプリントされた簡素な文字。そこに書かれていたのは、古い古い童謡だ。
「これは……」
 画面を睨み付けるルーベルの眼差しが険しくなる。
「大胆な奴だろう?」
 アルブスの口元に酷薄な笑みが浮かぶ。
 それは塀から落ちて割れてしまった卵の歌。王様の兵隊を集めても、王様の馬を集めても、割れた卵は戻らない――。
『鏡の国のアリス』にも登場するその詩。
「教団は相手が名乗る通りのコードネームをつけてやることにした」
 いちいち連続猟奇殺人の犯人などと呼ぶのはまだるっこしい。先日まで隣県アラヴァストロでも連続殺人が引き起こされていたことを考えれば、紛らわしいことこの上ない。
 何より睡蓮教団という組織に牙を剥いた一個の敵であるならば、相応しい名が必要だろう。
 そう、彼らの次なる標的の名は。

「復讐鬼、“ハンプティ・ダンプティ”――」

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