第2章 歪む鏡の向こう側
5.ダイナの翻弄 027
ヴァイスの家を辞して、ヴェルムは現在自宅として使っているマンションの一つに戻った。
ヴェルムの母親が帝国有数の富豪の娘だった関係で、両親が亡くなった際にヴェルムへも多額の遺産が遺されている。
まだ未成年であることを考えれば親戚に引き取られるのが一般的だろうが、ヴェルムは自らそれを断った。
別に伯父夫婦や他の身内と仲が悪いわけではない。ただヴェルムは、探偵として父の後を継ぎ、真実を解き明かして両親の仇を打ちたかった。
書類上の親権関係はともかくとして、今のヴェルム自身の生活は両親の遺産で賄われている。
学生であれば事あるごとに種々の手続きに保護者の同意が必要となるだろうが、ヴェルムはもう学生ではない。
また、探偵として活動することによって多くの恨みを買うことを考えれば、傍に人を近づけたくないという思いもあった。
両親と暮らしていた屋敷は残してあるが、普段はより帝都の中心部に近いマンションで過ごしているのもそのためだ。
しかし現在、その部屋で暮らしているのはヴェルム一人ではない。
半月程前の夜、道に倒れていた女性を拾い介抱した。行く宛てがなく追われているという彼女を匿うようになって、ヴェルムの生活は独りではなくなった。
「おかえりなさい」
扉を開けて部屋に入った瞬間かけられた柔らかな声に返事をする。
「……ただいま、ジェナー」
◆◆◆◆◆
「じゃあね! アリスちゃん、シャトンちゃん!」
「お二人とも、また明日学校で!」
「寄り道すんなよな!」
手を振って道を分かれる子ども三人に、アリスは手を振り返した。シャトンは小さく振り返るのに留める。
「お前らこそ真っ直ぐ帰れよ! じゃーな!」
「また明日」
入学式の日に出会った子どもたちのうち三人、カナールとローロとネスルは普段からよくアリスたちに話しかけてきた。
黄色の髪に橙色の瞳を持つ少女カナール=ハウスエンテは、いかにもこの年頃の女の子らしい愛らしさだ。しかし中身はその可愛らしさとは裏腹になかなか好奇心が旺盛で、面白いことを見つけると首を突っ込まずにはいられない。
小等部一年生にして知識の収集・実践が好きな赤い髪に濃緑の瞳の少年ローロ=プシッタクス。よく図鑑を持ち歩いている姿を見かけるくらい調べ物が好きで、カナールやネスルがあちこちで見つけてくる「不思議な物」の正体を探るのを自分の役割と捉えている。
白髪に黒い瞳のネスル=アークイラ少年は、三人の中でも一番子どもらしい。どうにも本能で行動しているらしく落ち着きがなく人の言うことを聞かないが、その分他の二人を振り回す勢いで引っ張っていく行動力がある。
この三人がひとたび集まれば、どんな日常の些細な出来事も彼らにとっては大きな「事件」となる。好奇心旺盛な三人組は、探検や冒険といった言葉が大好きなのだ。
最近ではアリスもすっかりその中に巻き込まれている。
「それにしてもあなた、随分慣れたわね。この生活に」
日常の遊びにかける小等部生の元気は大人の体力に引けを取らない。体が子どもになってしまったアリスたちは、当初は体力と言うよりも主に精神的な面で彼らの行動力にひたすら振り回されていた。
しかし数日もすればアリスはその環境にも慣れてしまって、いまや学校にいる間は平然と子どもたちに混じって遊ぶようになっている。
一方のシャトンはまだそこまでの気分になれないのか、純粋な子どもたちの誘いを適当な理由で断ることも多い。
事情が事情だけに常に一緒にいるアリスと比べ、シャトンだけまだカナールたちとも、クラスの他の子どもたちとも距離があるような状態だ。
「まーな。最初は元の姿に戻りたいって焦りがあったけど、学校でまでそんなこと考えてても仕方ないし、あいつらといるのも悪くはないしな」
「木を隠すなら森の中……本物の子どもたちの中に紛れていれば、私やあなたのように異質な存在でも見かけ上はただの子どもの集団にしか見えないものね」
「そういう言い方するなよ。それだとなんか……自分が隠れるためにあいつらを利用しているみたいだぞ」
「違うのかしら」
「違うだろ。というか、隠れ暮らすために交じるなら、あいつらみたいにどこでも突撃する連中は不向きだぞ……」
カナールたちへのフォローが半分、まったくフォローにならない理由半分で、アリスはシャトンの発言を諌めた。
「それに、本物の子どもでも俺より頭いいんじゃねぇの? って奴もいるし」
「ああ……テラス君ね。彼、何者なのかしら」
前述の三人とはまた別に、アリスたちによく話しかけてくる子どもがいる。
テラス=モンストルム。
青い髪に薄紅の瞳を持つ、子どもながらに驚く程整った容姿の少年だ。
小さな手足に頼りない肩やふっくらとした頬の輪郭は紛れもなく子どものものなのに、彼――テラスはどこか大人びている。下手をすれば、中身が十七歳であるアリスよりも。
彼はアリスとシャトンに興味があるようで、向こうから積極的に話しかけてくる。カナールたちとも仲が良いので、機会があれば自然と集まるようになった。
一方テラスの幼馴染、フォリー=トゥレラはそれほど話しかけてくることはない。この水色の髪に薔薇色の瞳の少女はアリスたちだけでなく他の子どもたちとも会話が少なかった。いつもテラスの傍にいるが、会話は専らテラスに任せたと言わんばかりに黙り込んでいる。
とはいえ、小等部一年生にしては不思議な程高度な知識を持つテラスの話を完全に理解はしているようで、恐らく彼女も見た目より中身が落ち着いているタイプだろう。
「何者って……俺たちじゃあるまいし、あいつは本当にただの子どもだろ?」
「そうかしら。それにしては子どもらしくない面が目立つけど」
「気のせいだって。あったとしても天才児とか、そういうのじゃねーの?」
「……私が気になるのは彼の頭脳よりもむしろ、普通の子どもらしくないあの大人びた性格の方なんだけれどね……」
テラスの存在は、ある意味アリスとシャトンにとって最大の隠れ蓑だ。クラスの他の子どもたちと比べても明らかに大人びているテラスが一緒にいることで、アリスやシャトンの異質性が緩和されているように思える。
しかしそのテラスという存在自体に異質なものを感じるとシャトンは言う。
「あの子はただの子どもじゃないわよ。あなたはそう思わないの?」
「んー、つってもなぁ」
アリスは遠い過去を思い返しながら頭を掻いた。
「俺が本当にこの見た目くらいの年の頃に、ああいう感じの友人がいたし」
「本当に?」
「ああ。帝都に引っ越す前だから、今はどうしているのかさっぱりわからないけどな」
携帯を当然のように買い与えられる今の子どもたちはともかく、「アリスト=レーヌ」が小等部を卒業するかどうかの頃はまだ子どもたちがお互いに連絡をつけることのできる手段など限られていた。生活圏が変わり日常で関わることがなくなれば尚更だ。
しかしその友人は、アリストの中に強い印象を残している。
「フートにそっくりだったんだ」
アリストが帝都でジグラード学院に入学してからできた友人の一人、フート=マルティウス。
学年首席の天才児としても名高いフートと、かつての友人は顔がそっくりだった。帝都に越してきたばかりのアリストは、何故あっちにもこっちにも『彼』がいるのだろうと不思議に思ったものだ。
「だからテラスがあの歳の子どもにしては大人っぽいって言っても、そういう奴もいるんじゃないかってぐらいで気にならないな」
「そう……。なら私の考え過ぎかしら」
「……」
シャトンが腕を組んで考え込む。その横顔をアリスはじっと見つめた。
今のアリスとシャトンの立場はほとんど同じだ。
だが僅かな違いが、二人の距離を絶望的に隔てている。
本当に距離があるのはシャトンと子どもたちではなく、もしかしたらシャトンとアリスの方なのかもしれない。
「なぁ、お前も、もうちょっと肩の力抜いていいんじゃないか?」
視線を正面に戻し、アリスはさりげなさを装って告げる。道を歩くシャトンの足が止まった。
「赤騎士たちが何考えているのかはわからないけど、ひとまず見逃してくれたわけで。何も今日明日にも刺客が襲ってくるってわけじゃないんだし……って、シャトン?」
気づかず喋り続けていたアリスは、ようやく足を止めたシャトンの様子に気づいて背後の彼女を振り返る。
スッと感情の抜け落ちた菫色の瞳が、虚ろにアリスを見つめ返した。
「……私は、ここにいてもいいのかしら」
「シャトン?」
街の喧騒が遠ざかり、二人の間で空気が静かに沈殿する。周囲の全ての音を無視して、二人は互いの声だけに集中している。
「私が傍にいれば、どうやっても周囲を危険に巻き込むわ。たまたま目撃者となってしまっただけのあなたと違って、私は教団内部の事情を知っている――裏切り者なんだもの」
アリスにとって先程かけた言葉が本当はずっと彼女に向けて言いたかった言葉ならば、これはシャトンが何度も口にしようとして、言えずに溜め込んだ言葉だった。
もっと楽に生きればいいと勧めるアリスと、いつまでも自分を責め続けるシャトンと。
「心配し過ぎだって!」
重い空気ごとその危惧を断ち切りたくて、アリスはわざと明るい声を出す。
「今の俺たち、子どもの姿なんだぜ。簡単には見つからないよ」
「でも」
「それでももし、教団に見つかるようなことがあったら」
同じ高さの相手の目を見つめ、アリスは威勢よく言い切った。
「チャンスじゃないか。俺たちに近づいてきた奴を逆にとっ捕まえて、お前が知らない分の情報吐かせて本拠地に乗り込もうぜ!」
あまりに楽観的で恐れを知らないその言葉に、シャトンは感心すると共に呆れ返る。
「アリス……あなた、幸せな性格ね」
「おう、よく言われるぜ」
にっこり、しかし癖のある笑みを返すアリスは、更に念押しとばかりに釘を刺した。
「それに今お前に見捨てられちゃ困る。姉さんを誤魔化すためにも、一時的にでも元の姿に戻る術をなんとか開発してくれねーと」
笑顔に応えて、シャトンもようやく笑った。
「はいはい、わかってるわよこの病的シスコン野郎」
「純粋な姉弟愛だ!」
「ふふ」
「……シャトン?」
全力でからかう素振りだったシャトンの雰囲気が、ふいに優しげで――どこか寂しげなものへと変わる。
「羨ましいわ。そんなに大切にできる人がいて」
「……なぁ、お前の家族って」
これまでに聞いたシャトンの身の上話に関して、アリスは突っ込んで聞きたくても聞けない部分がいくつかあった。彼女の方から話題に出してきた今ならそれを聞けるかもしれない。
シャトンの説明だと子どもの頃に教団にスカウトされたということだったが、ならば“チェシャ猫”というコードネームしか与えられていなかったというのはおかしく感じる。彼女の口ぶりではまるで、生まれた時からずっと教団内にいたようだ。
「両親は教団の人間だった。けれど、私が生まれて数年は教団を抜けていたのよ。彼らが死んで私は改めて教団に入れられた」
あまりに幼かったためシャトン自身は教団内でチェシャ猫として過ごした記憶しかないが、記録上彼女は途中から教団に入った人間、ということになるらしい。
「私には両親の記憶がほとんどない。しばらくはそのことに何も感じなかった」
しかし、後に“公爵夫人”ことジェナー=ヘルツォークと出会い、シャトンの考えは少しずつ変わって行った。
姉のように優しく接するジェナーのおかげで人間らしい心を育み、自分の両親のことに関しても気にかかるようになっていった。
幸か不幸か、そのことが彼女を突き動かし、今の事態を招いたとも言う。
「過去を」
記憶に存在しない日々を。あるかどうかもわからなかった優しい時間を。
「取り戻したかった」
だから作り上げたのだ。“時を戻す”禁呪を――。
春宵の花のように淡い笑みを浮かべたままのシャトンの瞳の縁に、零れる場所を知らぬ涙が溜まる。
「そのせいで、こんなことになるなんて」
気づいた時にはもう遅い。それこそどんな魔法でも取り返しのつかない事態になっていた。
禁呪は人知を超えた現象を引き起す魔導。作ってはいけなかったのだ、人の手に負えない魔法など。
「そうだな」
シャトンの自責を、アリスは否定しなかった。彼は間違いなく彼女の被害者で、彼女がいなければこの状況には陥っていない。
アリスはくるりと踵を返すと、そのまま帰り道を歩き出す。
「お前の作った術のせいで、今まで何人が命を失ったり、不幸になったか知れないな」
――けれど。
「これから先、お前がいることで救われる人間だっているだろう。……元に戻る禁呪を開発して、俺を助けてくれるんだろ?」
数歩歩いた先で足を止めると、アリスは驚いた顔のシャトンを振り返りながら笑った。
少し距離のできた位置に立つ彼女に向けて利き手を真っ直ぐに差し出した。
――彼を地獄に叩き落したのは彼女かもしれない。
しかし彼を救うのもまた、彼女しかいないのだ。
誰にも代わることのできないその役目。
だから。
「ここにいてくれ」
シャトンが涙の溜まった目を見開く。
「そのために、俺だってお前がここにいられるよう努力する」
言い終えたアリスはそのまま、差し伸べた手をシャトンが掴むのを待った。花の香りを運ぶ春の風の音だけが二人の間であまりにも鮮やかだ。
永遠にも思える一瞬の後、数歩の距離をゆっくりと埋めたシャトンが手を伸ばす。
二人の手のひらが重なる瞬間、アリスはそれまで穏やかだった笑みを不敵なものに変えて口を開いた。
「約束する。俺はお前がいられる場所を守る」
「――私は、あなたを必ず元の姿に戻す」
シャトンはシャトンで表情を引き締めると、厳粛な誓いのようにそう言い切った。
いつか姉としたように、小指を絡めて誓い合う。
「約束だ」
――どうか、導いてくれ。