第3章 歯車の狂うお茶会
9.帽子屋の仮面 053
「まぁ、ダメでもともと、本人に接触して聞いてみればいいんじゃない?」
「聞いてみればって……相手怪盗なんですけど」
怪人マッドハッター。その存在は、アリスたちが追う犯罪組織「睡蓮教団」についての情報を持っている可能性が高い。
しかしそのマッドハッター自身が、世間的に有名な怪盗だ。会いたいと言って会えるような相手ではない。まだ芸能人目当てにテレビ局に押しかける方が容易い。
「でも彼が――マッドハッターが本当に睡蓮教団の敵対者なら、私たちの味方になってくれるかもしれないわね。そうでなく実は教団の一員で何かの思惑があって窃盗を行っているのなら……まぁ、そのまま捕まえればいいわ」
シャトンといいギネカといい、豪胆を絵に描いたような少女たちは帝都を騒がす怪盗相手にもまるで臆した……どころか、容赦する様子すらない。
「そんな簡単そうに言うけどさぁ」
現実主義者のアリスは一々二人の発言に突っ込みを入れたくてたまらないが、ついには仮の保護者であるヴァイスまでもが二人の言い分に折れてしまった。
「……まぁ、一理はある。マッドハッターの立場がどちらにせよ、怪人の一人や二人捕まえられずに、睡蓮教団を壊滅させるなど不可能だからな」
けれど十七歳の若者組のどこか軽い会話を、ヴァイスの真に迫った声が引き締める。
十年前、睡蓮教団と敵対し彼らをあと一歩で壊滅させるところまで追いつめた時のヴァイスも十七歳だった。
だが今とあの頃では、教団の規模そのものが大きく違うのだとヴァイスは言う。
「マッドハッター……コードネーム“帽子屋”か……」
シャトンもその名に何事か思う様子だ。
「とはいえ今すぐに怪盗のアジトに乗り込んでどうこうせよという話でもあるまい。標的が明確なんだから、地道に情報収集すればいい」
「情報収集?」
ヴァイスはギネカの携帯のニュース画面を指で叩く。
「マッドハッターの犯行を、現場で実際に見に行くのはどうだ?」
◆◆◆◆◆
――そして、犯行当日。
「凄い人込みね……」
「下手な俳優より人気の怪盗だからな。盗んだ獲物を返すことも人気に一役買っている」
アリス、シャトン、ギネカ、ヴァイスの四人は、怪盗が予告状を出した美術館の前にいた。
周囲は怪盗を一目見ようと押しかけた野次馬でいっぱいだ。
「あれ? 姉さんは一緒じゃないの?」
「誘ったんだがな。ダイナは今日は友人と予定があるそうだ」
「振られたな」
「うるさい」
ダイナに誘いをかけたが断られたというヴァイスに、アリスはいい気味だと笑って見せる。
男たちの様子を呆れた眼差しで眺める少女二人は、怪盗に関する話を続けていた。
「その返却もこれまでせいぜい人気取り程度にしか考えてなかったけれど、欠片を集めているとなると説明がつくわね」
犯行風景を見る前に一応の下調べを済ませた彼らは、初めに立てた推測をやはり裏付けられることとなった。
これまでマッドハッターが盗んだ獲物の来歴や噂について集め、その前後の持ち主の評判まで含めて精査する。
マッドハッターが集める絵の多くは曰くつきの画家、エリスロ=ツィノーバーロートが描いたもの。
そしてそれ以外の美術品や宝石に関しても、怪人に盗まれる以前から、邪神の魂の欠片の影響と目される怪しい噂が絶えない曰くつきの品ばかりだったのだ。
「怪盗の獲物についての情報集めも、ギネカはやけに手際良かったよな。おかげで助かったよ」
「そ、そう? こんなの、いつも書いてるレポートの要領と同じでしょ!」
アリスの何気ない言葉に何故か少し声を上擦らせて、ギネカは無理矢理笑顔を作る。
欠片。――背徳神の、辰砂の、魂の欠片。
かつて地上を呪った神と、その神を自らごと無数の欠片に砕いた最強の魔術師の――。
「なぁ、魂の欠片って、判別はつくのか?」
「判別がつくのだとしたら、マッドハッターの集めている欠片は『どちら』のものなのかしらね」
睡蓮教団の目的に関しては、すでにギネカも聞いている。宗教団体を装った犯罪組織の真の目的が、古の邪神の復活などという途方もないものであることも。
「判別ができる奴はいるが、それは魂の欠片を持っている人間に限る。つまり――」
「ヴァイスにはわかるのか? 背徳神の魂の欠片が」
「ああ」
かつて魔王と呼ばれた者の生まれ変わりであるヴァイスは、自分と同じく背徳神の魂の欠片を持つ者や物を判別できるという。
「それってどうやるんだ?」
「やるというより、わかる。いちいち風を感じるのに何故わかるなどと思わないだろう。だが本物だとしたらそれはそれで厄介だ」
「なんで?」
「それが本物の魂の欠片なら、私は触れられない。魂の欠片はより大きな欠片に惹かれる性質をもつんだ」
「惹かれる……?」
初めて聞く話に、アリスはヴァイスの様子に注目した。周囲の野次馬たちの喧騒も遠ざかる。
「あるいは呼ばれると言った方が正しいか。欠片が欠片を持つ者を呼ぶ。基本的に物に宿るような魂の欠片はほんの小さなものだ。だがそれは人に働きかけ、邪心を引き起こす」
「邪心って……もしかして、マッドハッターがこれまで集めてきた絵画や宝石にまつわる噂は」
「そういうことだろう」
マッドハッターの獲物は呪われた絵画や宝石が多い。
「欠片を持つ人間が呪われた絵に触れれば、絵の中に宿った欠片を吸収できる。だがそうして邪神の欠片を取り込むということは、自らの魂を徐々に邪神に浸食されるということだ」
「それってまずいじゃない!」
ギネカが言うが、ヴァイスは平然としている。彼はマッドハッターの行為の危険性に気づいている。
だが、危険性に気づいたからといって、ヴァイスがそれを止められるわけではない。
「ああ。まずいさ。だからまさかそんなことをしているとは思わなかった」
「ヴァイス先生……それって、辰砂の欠片も同じですか?」
「……いや、魂を浸食して狂気に走らせるのは背徳神の欠片だけだ」
「なんだ、それなら――」
「ただし」
「精神の浸食自体は辰砂の魂の欠片でも引き起こされる。辰砂はただの人間なので悪意はないが、それでも欠片の主は他者の記憶を引き受けるわけだからな。精神的に負担がかかり、結果、狂いやすくなる」
「……過程や理由は多少変化しても、至る結末はほとんど変わらないんですね」
浸食される魂によって壊れた精神が凶行を引き起こすのか。
邪神を受け入れるから魂が狂気に満ちて人格が壊れるのか。
「ああ。そうだ。まあ、辰砂の欠片に関しては本人の精神力が勝てばいくらでも乗り越えられる範囲ではあるのだが」
――精神の浸食に打ち勝ち、辰砂の記憶を手に入れる。
それは途方もない話だ。
どちらにせよそれができるのならば、皮肉なことにその人物はただの人間を超えた創造の魔術師・辰砂そのものと言えるのかもしれない。
「でも辰砂の記憶なんか手に入れてどうすんの?」
「……さぁな。今は最強の魔術師になりたいという時代でもないからなぁ」
怪盗たちの目的は、まだ謎に包まれていた。
「――そろそろ予告の時間よ」
美術館の敷地内に存在する、時計台の鐘が鳴り響く。
◆◆◆◆◆
マッドハッターの今宵の獲物はまたしてもツィノーバーロートの絵画だ。三部作のうちの二作目。一作目は先日の獲物であり、三作目はまた数日後に予告状を出している。
「今宵も我が舞台にお集まりいただき、まことにありがとうございます……!」
「待て! マッドハッター! 今日こそお縄につきやがれー!!」
美術館の屋上でマントを翻しながら礼をするマッドハッターに、追いかけて来たモンストルム警部が叫ぶ。
「あれが……」
「テラスのお父さん……?」
容姿はともかく、性格はまるで似ていない親子だ。七歳の子どもとしては不自然に落ち着きすぎているテラスの父親は、絵に描いたような熱血警部だった。
今日も警備網を突破され、マッドハッターに屋上への逃走を許してしまった。 怪盗の舞台はさてここからが本番である。
三部作の一枚目の作品は、月明かりが影の中に消える絵。
本日の獲物である二作目は、海が炎に燃える絵。
そしてまた後日展示される予定だった三作目は、花が蝶に呑まれる絵だ。
「今宵の獲物、確かに頂きました」
「待たんか貴様! その絵を返して、とっととお縄につかんか!」
「残念ながら警部、私が殺風景な牢獄の住人になってしまうと、悲しまれる方が大勢いるようなので」
「戯けたことを! ――かかれ!」
懲りずに大人数で突撃した警察諸氏は、マッドハッターに躱されると同時に、頭上から降ってきた大きな網に捕まった。
「なんだこれは!」
騒ぐ警部を差し置いて、マッドハッターはビルの下に集う観客たちにお辞儀をして見せる。
「それでは皆様、また数日後、三部作最後の一枚の下でお会いしましょう」
今夜マッドハッターが手にしているのはかなり小さな額縁だ。
小脇にそれを抱えたまま、マッドハッターの姿が金色の炎に包まれる。あたかも絵の中に描かれた光景を再現するかのように。
「!」
「どういうトリックなのかしら」
アリスは息を呑み、ギネカは冷静に見上げる。シャトンとヴァイスがこっそりと魔導の気配を探っていた。
「白だな。魔導は使っていない」
「じゃあ」
「何か仕掛けがあるんでしょう」
火の粉が次第に花弁に代わり、頭上から降り注ぐ。
「あらあらもったいないことね。この花、全部で一体いくらするのかしら」
「気にするのはそこなのか?」
盗みで利益を上げていないのだから、怪盗の資金源がどこなのかも気になる。
「面白いじゃないか……」
アリスは怪人の消えた空を睨み付けた。