第3章 歯車の狂うお茶会
9.帽子屋の仮面 054
建物の影を使い密やかに闇に紛れる。パトカーのサイレンは明後日な方向に消え、彼は花で飾られたシルクハットのつばを指で支えながらほっと息をついた。
黄金の炎の中に消えるトリックは上手く行った。眼下の大衆は満足の声を上げていた。
これも全ては日頃の練習と、優秀な相棒のサポートの賜物である。
それはいいのだが。
「今日も無事ね。“帽子屋”」
ようやく一息つけるアジトに戻って開口一番、マッドハッターは相棒の名を強く呼んだ。
「……“眠り鼠”!」
「どうしたの? そんな鬼気迫ったような声して。警察も上手く撒けたし、教団の連中は仕掛けて来ない。平和な夜じゃない」
マッドハッターは白い仮面で顔を隠している。だから彼の感情を、怪盗稼業前から付き合いの長い相棒は顔と言うよりも声で判断した。
世間には怪人マッドハッターは一匹狼の怪盗だと思われているが、実は相棒が一人いる。
“眠り鼠”はマッドハッターの仕事をそのトリックの準備から逃走の手助けまで、なんでもサポートする。
彼女の存在を隠しておくのは、いずれ行われる荒事に巻き込まないための用心でもあり、逆にマッドハッター一人の行動だと思わせて共犯者の存在を嗅ぎ取られないようにするための切り札でもある。
「平和過ぎるわ! お前、観客の中に知った顔を見なかったか?!」
いつになく焦った表情のマッドハッターに、さすがに眠り鼠もこれは尋常ではないと顔つきを神妙にしながら首を横に振る。
「いいえ。……何? 誰を見つけたの?」
怪盗の共犯者とはバレぬよう、大衆に紛れて一応現場にはいた眠り鼠だが心当たりはない。怪訝な顔をしながら問い返すと、思いがけない答が返ってきた。
「ヴァイス先生だよ! あとマギラス! 先生のとこにいるおチビちゃん二人も来てた!」
「……はぁ?!」
素っ頓狂な声に、帝都を騒がせる怪盗とその共犯者の仮面は一瞬にして崩れ落ちた。
同時にマッドハッターは物理的に顔を隠している方の白い仮面を取り払い、そこには怪盗ではない、素顔の高校生――フート=マルティウスが現れる。
眠り鼠ことムース=シュラーフェンもまた、一幼馴染の立場に戻ってフートに詳細を確認した。
「ヴァイス先生って……確かなの?」
「俺が見間違える訳ないだろーが!」
「それってただの見物人? 魔導殺人みたいに、警察に手を貸してる節はなかったけれど」
「今日はただの観客みたいだったぜ。子ども連れだったし。――でもなんでマギラスまでいたんだ?」
いつものように生徒幾人かを集めてたまたま見物に来ていたのなら学院で気づいたはずだ。そうではない、ギネカ個人とのやりとりならフートたちが知るはずもない。
ヴァイスが個人的にギネカを誘って怪盗見物に行く理由――駄目だ、想像がつかない。
隣人で教え子の一人であるアリストが一緒にいればまだその友人がいるのもわかるが、今はアリストもいない。
「ギネカさんまで……? 何かの間違いじゃないの?」
「いや、魔導で探られる気配を感じた。子どもたちの方は自信ないけど、あの場にヴァイス先生とマギラスがいたのは間違いない」
「……ええー」
ムースが困惑の表情を浮かべる。
確かに意味がわからない。
フートに魔導を教えているのはヴァイスだ。ばれればひとたまりもない。
フートは確かに天才だが、自分がどんな人間より優れているなどと過信したことはない。
何よりもともと、怪盗として動くのは兄の後を継いでのことだ。フートは彼以上の人間には、あらゆる意味でなれない。
「たまたま今日来ていただけ、ならいいのだけど」
「わからないな。ヴァイス先生だからな」
「今度聞いてみましょうか。あの時先生いました? って」
「危険じゃないか?」
「私が民衆の中にいたのは事実だし」
面識のない人間の目をごまかすのと、面識のある人間に正体を悟られないようにするのでは難易度が異なる。
「ようやく怪盗生活にも慣れてきて、ジャバウォックの追撃も躱せるようになってきたっていうのに、とんだ伏兵じゃないか……」
怪盗は頭を抱える。世間を騒がせ帝都警察の頭を悩ませる怪盗自身も、彼を目の敵にする“姿なき情報屋”や睡蓮教団と言った敵の存在に常に悩まされているものだ。
「しばらく仕事を控える?」
「そういう訳にもいかないだろう。それに、三部作最後の絵がまだ残っている。あれは早いうちに回収しなくちゃ」
「予告状の取り消しは怪盗の名折れ……」
「兄貴がよくそう言ってたよ」
そして二人は過去に思いを馳せる。
彼らが怪盗となった理由、かつて本物の“マッドハッター”であった、フートの兄のことに。
◆◆◆◆◆
ザーイエッツ=マルティウスは、フートより十歳年上の兄だ。
生きていれば今年で二十七歳になるはずである。
――彼は、十年前から行方不明となっている。
十年前、今のフートと同じように十七歳で怪人マッドハッターとして活動していたザーイエッツは、ある晩、ついに帰って来なかった。
……行方不明なんて、この帝都ではそう珍しい話ではない。
それが、両親もおらず苦労して育った十七歳の少年なら尚更だ。今の生活が辛くなって、弟を捨てて逃げ出したのだと思われても仕方ない。
幸か不幸か、死体などが見つかることもなく事件になることはなかった。
だからこそ彼を真剣に探す人も、唯一の肉親であるフート以外にはいなかった。
フート、そして幼馴染のムースはザーイエッツについて、一つだけ警察にも話していないことがあった。
それはザーイエッツが、怪人マッドハッターであるということ。これがあるから何日も帰って来なくても強く捜索を願いづらいという事情もあった。
だが兄が帰らないまま三日が過ぎ、一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎ、半年が過ぎ――。
何年が過ぎても、ザーイエッツは帰って来ない。
帰って来ないから……フートは自分自身で、兄を探すことにしたのだ。
兄と同じ怪盗となることで。
フートは今のジグラード学院でこそ天才などと呼ばれるが、自分自身では普通の人間だと思っている。身体能力や計算能力など、多少は恵まれているかもしれないが、本物の天才には敵わない。
兄のザーイエッツは、本物の天才だった。だがその才能を、怪盗の業として利用するために、巧みに周囲に隠していた。
兄が何を思いそんなことをしていたのか、いまだにフート自身はよくわかっていない。
だからこそフート=マルティウスは、ザーイエッツ=マルティウスを探すために二代目の怪人マッドハッターとなったのだ。
兄の影を追うことで、少しでも兄に追いつくように。
古びた写真の中に追う面影、十七歳当時の兄の姿は今、十七歳になったフートと双子のようにそっくりだった。
だがこれからもフートが兄そっくりに成長するとは限らない。子どもの時間にしがみついていられるのはいつまでだろう。
これからの生き方こそが、己の成長となって容姿に現れるのだろうから。
今の兄は、どんな姿をしているのだろう?