第3章 歯車の狂うお茶会
10.眠り鼠の沈黙 055
「――あれは、恐ろしい男だ」
五十を過ぎてなお若々しい男が、その見た目に似合わぬ嗄れ声で言った。
「当時わずか十代の少年が、この儂の作り上げた組織を壊滅寸前まで追い込んだのだからな……“白の騎士”、恐ろしい男よ」
「へぇ……」
レジーナはまたいつもの話が始まったと、父の昔語りに気のない相槌を打つ。
父の書斎は絵に描いたような成金の部屋だった。“赤の王”の威光を他者に知らしめる、ただそれだけの装いだ。
形を取り繕うことも威厳のためには必要だと教えられている。だがどうしてもこの部屋の華美さは、レジーナにとっては無駄なものにしか思えなかった。
貴族を模した豪奢ながら古臭い部屋で、古い話が紡がれる。
「それで、お父様はその“白騎士”とやらを今も警戒しておられるわけですか」
「ああ、そうだ。儂らの教団ももう今は昔のように小さな組織ではない。だが、白騎士を侮ることはできない。かつて教団が今よりも小さかったように、かつての白騎士は若造だった。今は奴も腕を上げ、いざとなれば本格的に我らに牙を剥くやもしれぬ」
「それならば、手出しをせねばよいのでは?」
たった一人の男を、犯罪組織がいつまでも恐れるのは滑稽だとレジーナは言う。相手が常に教団の取り潰しを狙っている公僕ならばまだしも、白騎士は表向きにはただの高校教師である。必要もない限り教団に関わることはしないだろう。
それよりも今はやることがある。
「厄介な敵は警戒しておくに越したことはない。お前も油断するな、レジーナ」
「私は仲間に恵まれておりますので」
「お前の部下たちはよくやっている。だが、慢心が破滅を招くのだ。……儂が一番よく知っておる」
「……そうですか。それでは私も肝に銘じておきましょう」
レジーナは退出する。その足で自分の部下兼同僚の詰める部屋へと向かった。
「やぁ、みんな」
「セールツェ様。今日は遅いですね」
「お父様の薫陶を拝聴していたのでね」
くすりと赤い唇に嘲りの笑みを佩いて、レジーナは自らの席に座る。彼女以外の顔触れはすでに揃っていた。
「待たせてすまなかった。さぁ、始めようか。マッドハッター対策会議をね」
“ハートの女王”――レジーナは短い黒髪をさらりと揺らし、紅い瞳に悪戯で残酷な光を宿し口を開く。
もともと目障りな相手だったが、ここ最近の怪人マッドハッターは更に彼らにとって邪魔な相手となった。
何せ教団が集める魂の欠片を横から掻っ攫われるのでたまらない。しかも向こうは予告状を届けて警察を出動させる、厄介な泥棒だ。マッドハッターの犯行現場は警察の数が多すぎて、彼らでもできる限り近づきたくはない。
「“ハートの王”、“グリフォン”、“ニセウミガメ”、“ティードルディー”、“ティードルダム”」
「その順番でわたくしを呼ぶのはやめてくださいよ、ハートの女王陛下。まるで私がティードルディーとセットの上、私の方が序列が下みたいではないですか」
と、ティードルダムから文句が上がった。
ティードルダムは薄い灰色の髪に黒い瞳を持つ、細身の男だ。鼠顔に片眼鏡を嵌め、陰気な顔でこちらを見ている。
「おやおや、それは申し訳ない、ティードルダム。だが僕の口も一つしかないもので、同格の二人であっても呼ぶときには一応の順序を決めねばならないのさ。勘弁しておくれよ」
「構わんぞ女王様! 俺の方がこいつより優れているのだ! 先に名を呼ばれるのは当然のことだからな!」
「なんだとティードルディー、貴様――」
「いい加減にしろ。見苦しいぞ、二人とも」
ニセウミガメが端正な顔立ちを顰めて吐き捨てる。
「まぁまぁ、順番なんかどっちでもいいじゃん、呼びやすければさぁ」
乾いた血のような赤毛の男、グリフォンがのんびりとそう言った。
口調こそのんびりとしているが、彼の目は獰猛な獣のように眇められていた。このまま争いを続ければすかさず喉首を食い千切るとでも言いたげに。
二人はすごすごと引き下がった。
しかしティードルダムはやはり、控えめながらも自分の要求をしっかり口にするのは忘れない。
「次は私の名から先でお願いしますよ」
「はいはい、わかったよティードルダム」
ハートの女王は鷹揚に頷く。
今日の彼女は比較的機嫌が良い。昼間何か良い事でもあったのだろうか。
「それで、マッドハッター対策だろ? 何をするんですか?」
ハートの王が、出だしから逸れた話題を元のラインに戻す。
「そうそう、そのマッドハッター対策だ。ぶっちゃけみんな、どうしたい?」
「もう殺しちゃいましょうよ」
グリフォンがさらりと言った。
「いきなり物騒だな」
ニセウミガメがその過激さに溜息をつく。
「だってそれが一番手っ取り早いだろ? あの野郎、まさか生きていたとはな。十年前に死んだとばかり思っていたのに」
「希代の怪盗の名は伊達ではないな……と、言いたいところだが、そもそもあの男は本当に十年前のマッドハッターと同一人物なのか? 誰もマッドハッターの素顔を知らない以上、別人が犯行を再開してもわからんぞ」
ハートの王の疑問には、ハートの女王が答えた。
「それはまぁいいんじゃない? マッドハッターの熱烈な『追っかけ』こと帝都警察が同一犯認定しているのだから、今のマッドハッターは十年前と同一人物か、もしくはマッドハッターの内情を知る関係者の二択でしかない」
「なるほどねぇ」
グリフォンが感心するように頷いた。
「あれ? ところで白兎と赤騎士はどうした? 暗殺はあいつらの仕事じゃなかったっけ?」
ここにいないコードネーム持ち二人の名を出して、グリフォンがわざとらしく周囲を見渡す。
「白兎は名目上、特殊工作部門の一員だがマッドハッターは担当ではない。赤騎士に関してはそもそも粛清暗殺部門だ」
「あらら。あいつらに頼めば早そうなのにな」
「……私は、奴らを軽率に動かすことには反対だ。あの二人は組織に従順ではあるが、忠誠は薄い。万が一マッドハッター絡みの案件で表沙汰になれば厄介だ」
ニセウミガメは溜息を吐く。彼女は組織に対する忠誠こそ厚いが、殺人部門において殺人を嫌う変わり者でもある。
「それもそうか。……ってことは」
グリフォンはぺろりと下唇を舐めた。
「俺たちの取り分が増えるってことだな」
より多くを自分が殺せるのだと、戦闘狂は歓喜する。元よりニセウミガメが人死にを少なくしようと立てた計画を壊し、被害者の数を引き上げるのが大好きな男だ。
しかし、グリフォンの喜びに水を差したのは他でもないハートの女王だった。
「マッドハッターは殺そうと思ってるけど、やるのは君じゃないよ、グリフォン」
「あらら? どして?」
「ティードルダム、ティードルディー」
女王は話を、コードネームの対になる二人へと振った。
話の内容に察しがついた二人は、問われるより先に答を差し出す。
「新しい禁呪の開発が進みました」
「女王陛下、これの試験をする機会を下さると?」
「ああ、そのつもりだ。皆、マッドハッター殺しには異論ないね」
女王はぐるりと周囲を見回して仲間たちの意志を問う。
「ありません」
ハートの王が即答し、
「ございません」
ニセウミガメが神妙に頷き、
「あるわけないない」
グリフォンが笑いながら手を振った。
「……この通りだ。気兼ねなく殺してきなよ、ティードルディー、ティードルダム」
「「御意」」
同じ師についたため、仲が悪くとも二人揃って動くのが最も効率良いという皮肉な関係の男たちは頷く。
「期待しているよ、ティードルダム、ティードルディー」
最後まで名を呼ぶ順番に気を使う、律儀なハートの女王であった。