Pinky Promise 056

第3章 歯車の狂うお茶会

10.眠り鼠の沈黙 056

 ――彼は、彼女の憧れだった。
『ザーイ、ザーイ……ねぇ、どこに行くの?』
『ムース、ついてきちゃったのか』
 同い年の幼馴染の、十歳年上のお兄さん。ザーイエッツ=マルティウスは、ムース=シュラーフェンの初恋の人である。
 高等部のムースは学院でもしょっちゅうフートとカップル扱いにされているが、恋人として付き合ったことは一度もない。
 彼女が好きなのは、いまだにザーイエッツその人である。十七歳になったフートは失踪直前のザーイエッツの面影そのままで懐かしさを覚えるが、だからと言って弟にそのまま恋をするようなことはない。
 フートが願うのと同じくらいに、ムースはザーイエッツが生きていることを信じている。彼の生死が明らかにならない限り、彼女の初恋も終わらない。
 だから、二年前怪人マッドハッターを継ぐと決めたフートを手伝って、眠り鼠と言うコードネームを持つ共犯者となったのだ。
 幼い頃、ザーイエッツは二人が大人になるまで『不思議の国のアリス』の本を読むことを禁じていた。
『どうして? これ、怖いご本なの?』
『……そうだよ。ムース、フート。この本の中には、恐ろしい秘密が詰まっているんだ』
 ザーイエッツがいる間は、だからフートもムースもそれ以上の疑問を持たなかった。彼がいなくなってからは激変した世界に順応するのに必死で、それどころではなくなった。
 そして数年前、フートが家の中にしまいこんでいたその本を見つけ出し、中に挟まれていたザーイエッツの手紙を読んだことから、二人の“マッドハッター”の物語が動き出す。
 ザーイエッツがフートに宛てて遺した手紙には、彼が背徳神の魂の欠片を求めて怪盗を始めた簡単な経緯と、その途中に睡蓮教団と獲物を巡って争うようになった事情が記されていた。
 それは、フートとムースにとって、まさしく人生を変える切欠だったのだ。
 ザーイエッツの手紙からは、彼が何故背徳神の魂の欠片を集めているかの細かい理由はわからなかった。ただ睡蓮教団と敵対した関係で危険が迫っていることに気づき、念のために遺しておいただけの手紙らしい。
 ザーイエッツは帰って来るつもりだったのだ。あの時も。
 でも、怪盗である以上、いつか永く家を空けなければならない日が来るかもしれないことを予感していたとも。
『……フート』
『ムース、俺、決めたよ』
 そして、 フートは怪盗になり、ムースは共犯者となる。二人で怪人マッドハッターを蘇らせ、そして――睡蓮教団の影を追うことになる。
 教団と毎回戦って勝つ必要はない。二人が欲しいのは、ザーイエッツの消息に関する情報だ。そのために教団を度々挑発しながら逃げ回っているのが、ここ二年の彼らの戦いだった。
 愚かだとはわかっている。もう十年も帰らない人のために何をやっているのかと。
 けれど、止めることができないのだ。ザーイエッツが生きている希望を持つことを。
 他者が見れば呆れることだろう。たった二人、表向きには怪人マッドハッター一人でどうやって裏に巨大な犯罪組織を抱える宗教団体に打ち勝つつもりなのかと。
 それでもフートもムースも、決して諦める気はなかった。
 かつてザーイエッツが集めていた魂の欠片と言う名のパズルのピース。それを揃えれば、ザーイエッツ=マルティウスに繋がる地図が完成するような気がして。
 プリンターから印刷完了の合図が鳴る。
「――フート」
 物思いから思考を引きはがし、ムースは印刷された資料をまとめると、記憶の中のザーイエッツによく似た今現在のフートへと視線を向けた。
「出たわよ。これが資料」
「おー、あんがとさん。……って、少ねぇなこれ……」
「仕方ないじゃない。マメなヴァイス先生ってのも思いつかないし」
「いやー、あの人は案外結構真面目だろう」
 怪盗として行動するためのアジトの一室で二人が見ているのは、ヴァイスの下に預けられた二人の子どものデータだ。
「うむ。見事なまでに不自然な戸籍だな」
「ヴァイス先生の親戚を機械的に全部あたってみたけど、『アリス=アンファントリー』と『シャトン=フェーレース』なんて子どもはいないわよ?」
 ヴァイスとはフートたちがジグラード学院に入ってからの付き合いだ。今更調べるも何もない。そのヴァイスがフートの予測を超えた行動をしたのであれば、その切欠は最近彼が引き取った二人の子どもにあるのではないかとフートは推理した。
「偽装だな」
「そうね。これ犯罪じゃない?」
「俺たちがやってるのも犯罪だけどな」
 窃盗はもちろん、こうして本来一般市民が目にすることのないデータをネットワーク上から勝手に抜き出す行為も勿論犯罪だ。
 ムースは身体能力や魔導の才能こそフートや友人のアリスト、ギネカに劣るものの、電子機器の操作に異様に強いという特技がある。
 ヴァイスと仲がいいのも、彼の発明という趣味とムースの特技が一致するからという理由があった。
「向こうも色々あるってことか? この資料だけじゃ、なんで先生たちがあの夜、あそこにいたのか結局わからないな」
 先日のマッドハッターの犯行の際、見物人の中に見知った教師とその預かり子と友人の姿を目撃したことから、フートたちはヴァイスが今どのような事情を抱えているのかをこうしてこそこそ調べ回っていた。
 勘が良く一流の魔導士としてフートたちの師であるヴァイスに正面から仕掛けるのは無謀なので、普通の人間でも可能な範囲の調査しかできないのがもどかしい。
「先生たちもそうだけど、ギネカさんも」
「んー、マギラスは家が近所だろ? せっかく子どもがいるからみんなで見物ってだけの可能性もあるしなぁ」
「でも、魔導探査されたんでしょう?」
「……そうだった」
 昨夜の盗みの際にフートは別段魔導は使っていなかった。だからヴァイスにもギネカにも気づかれなかった。けれど実際に魔導を使っている際に探知を受ければ、微妙な反応からでも正体がバレる恐れがある。
「危ない危ない。今回はできる限り魔導は使わないって方針で正解だったな」
「そうね。ジグラード学院の生徒が魔導犯罪を犯していたなんて知れたら、マッドハッターの正体以上に世界中で大ニュースよ」
「あとヴァイス先生に殺される。先生が魔導犯罪に関して警察に協力してるのって、結局そういうのを防ぎたいからだろうしなぁ」
「そうね」
 フートとムースはヴァイスのかつての経歴までは知らないが、彼が探偵と面識を持ち魔導を用いた犯罪の解決に力を貸していることは、ジグラード学院では周知の事実である。
「次の仕事にも、来るかな」
「どうかしら。前回は見かけなかったなら三部作に興味があるわけでもなさそうだし。マッドハッター自体が目的なら、次と言わずこれからも来るでしょうね」
 実に厄介なことになった。
 ヴァイス一人でも大変だが、その交友関係には帝都の切り札とまで呼ばれる探偵がいる。
 そしてマッドハッターに関しては、睡蓮教団と、それ以外にもう一人厄介な敵がいる。
「例の奴と手を結ばれたらヤバいよなぁ」
「“姿なき情報屋ジャバウォック”ね。モンストルム警部は半信半疑でしか行動しないけれど、使えるものはなんでも使う主義のヴァイス先生なら……」
「勘弁してくれ……」
 誰もその正体を知らない謎の情報屋にして、帝都一の情報通であるジャバウォック。彼は何故かマッドハッターの犯行の際に警察へ余計な助言を与え、何度もマッドハッターを苦しめている。
 帝都にはもう一人、怪盗ジャックと呼ばれる怪盗“パイ泥棒のジャック”がいるのだが、そちらにはジャバウォックは何も手出しをしてこないらしい。
 何故ジャバウォックがこうもマッドハッターばかりを目の敵にするのかはフートにもわからない。二人の怪盗の捜査現場であえて違いを挙げるとするならば、ジャックの方にはそれこそエールーカ探偵が何度かお宝の防衛に力を貸しているからだろうか。
 考えたところで答は出ない。今彼らの手元にある情報で判断できる内容は全て憶測混じりである。
 ある程度悩んだところでその話題はもう切り上げだと、狭い室内で伸びをしたフートは不意に話題を変える。
「それにしてもテラス君が、あのモンストルム警部の息子だとはな」
「……」
 ムースは押し黙った。
「顔も性格も似てないのに」
「……フート」
 最近は学院内でも仲良くしている小等部の少年の名を挙げる幼馴染に、ムースは凍土の如く冷たい目を向けた。
 そうだった。最近の不安材料は姿なき情報屋や顔馴染みの教師だけではなく、フート自身の不穏な恋愛模様もあったのだ。
 怪盗の共犯者となった以上、ムースは最悪の場合、幼馴染と自分がいつか怪盗として捕まり、衆目に晒される覚悟はしている。
 だがしかし……いくら彼女でも、幼馴染がショタコンとして一線を越えてしまい社会的に抹殺される覚悟まではできていない。
「現場でテラス君の話なんか出すんじゃないわよ。即刻正体バレるから」
「そんなことしません!」
「あとできるだけ、『テラス君のお父さん』としてのモンストルム警部と素顔で接触することも避けないと」
「わかってるよ! 父親に挨拶なんてまだ早すぎる!」
「わかってないじゃない!」
 あらゆる不安要素を抱えながらも、フートとムースの二人は怪盗としての、次の仕事の手順を手際よく決めていった。