第3章 歯車の狂うお茶会
10.眠り鼠の沈黙 058
今回彼らが向かったのは、ポピー美術館である。
世界の中心に位置する藍の大陸、通称中央大陸。その更に中心部に存在するディアマンディ帝国の首都エメラルド。そこには世界の総てが揃っている。
当然美術館の規模も大きく数が多い。
ポピー美術館は広大な敷地面積を持ち、常設展示と企画展示、両方を行う形式だ。帝都の住民は勿論、観光客の訪れも多く交通の要所の一つとなっている。
美術館の建物自体も有名な建築家の作品であり、壮麗な城のような外観を眺めるだけで観光が済んでしまうとまで言われていた。
さてそんなポピー美術館だが……。
「凄い人込みね」
チケットを使って美術館内に入り、数日前と同じ言葉をギネカは呟く。
「まぁ、これだけ話題性があればね」
「そうそうなんたって今回の見どころは」
「マッドハッター」
レントやエラフィ、ヴェイツェが口ぐちに言う。
現在ポピー美術館に存在するエリスロ=ツィノーバーロートの三部作絵画最後の一枚。
――その絵を、怪人マッドハッターが盗むと予告状を出しているのだ。
「いや、美術品を見ようよ……」
他でもない怪盗その人、フートは苦笑しながら促した。
彼のせいとはいえ、本日の美術展は大盛況だ。主に美術品鑑賞以外の点で。
「でも、今日こそ怪人の告げた予告の日なんですよね」
一行の中では一番マッドハッターに興味があるらしい、小等部のローロが込み合う周囲を見回しながら尋ねる。
「私たち以外の客も、美術品というよりどちらかというと怪人の犯行現場を見に訪れた野次馬のようね」
シャトンはローロに頷き、居並ぶ野次馬たちを呆れた表情で眺めやった。
「芋洗い……」
フォリーがぼそりと呟く。
普通美術館や博物館は静かに見学するべき場所だが、これほど人が多いともはやその常識も通じない。
ざわざわと遠い噂話のような喧噪が館内を包んでいる。
「まぁまぁ、考えを変えようよ。美術品と怪人の犯行現場、両方見れて一石二鳥だって」
「テラス君、わかってて連れてきたんだ?」
「うん。どうせ明日以降だって戻ってきた絵を掲げて『これが怪人マッドハッターに盗まれた絵です!』って喧伝されるんだから、早い方がいいだろ」
「ははは……」
それも一理ある。マッドハッターは一度盗んだ獲物を返すので、戻ってきた品を展示して一儲けしようと考える輩もそれなりにいるのだ。
まぁ、標的の品以外に警備や金庫などに費やして、マッドハッターが与える被害金額を考えたらそれを世知辛いとも言えないのだが。
一行はテラスに案内されて、警備の中心へと向かった。
「あ、父さん」
「あれ、モンストルム警部?」
「へー、本物って初めて見た」
ついに美術品と怪人の予告現場のみならず、そこにいつも警備に来ている名物警部まで展示扱いである。邪気のない子どもたちが、友人の父親を物珍しげな熱い眼差しで見つめる。
「おお、テラス。来ていたのか」
「うん。学院のみんなも一緒だよ」
「こんにちはー!」
カナールたちが先頭に立って元気よく挨拶する。高等部生組は彼らほど騒がしくはせず、軽く頭を下げるに留めた。
「君たちがテラスの言う『お兄さん、お姉さん』たちか。いつもこの子がすまないね」
「いえ、テラス君はとてもしっかりしているので、私たちの方こそどちらが面倒を見られているやら」
「今日も美術館のチケットを頂いてしまって……ありがとうございます」
ギネカとレントが御礼を告げ、ヴァイスやダイナが更にこの一行の保護者として挨拶を続ける。
「あとは先生たちに任せて、僕らは展示を見に行こう」
「え? いいのか?」
「いいのいいの、どうせ向こうも忙しいし」
「……そうだな。邪魔しちゃいけないよな」
モンストルム警部は仕事中であることだし、この大所帯で一人一人自己紹介する暇もない。
テラスに促されアリスたちは美術館を見て回ることにした。
「はぐれたらお昼に中央展示場集合ね」
「「「はーい」」」
何しろ人数が多い上にこの人込みなので、はぐれることも考えておかねばならない。子どもたちも高等部生組も、何人かごとにまとまって展示を鑑賞することにした。
「ねぇ、アリスちゃん。あの絵、なんだかおかしいの」
「どれどれ? ああ、あれか。あれはな、騙し絵と言って」
カナールが一枚の絵を見上げながら、隣にいたアリスの袖を引っ張る。
「絵は何とか見えますけど、この人の多さじゃ解説の書かれたプレートまでは読めませんね……」
「私で良かったら、簡単に解説するわよ。ローロ君」
「本当ですか?! 凄いですシャトンさん!」
ローロとシャトンは二人並んで、パンフレットにも書かれていないような本格的な絵画の講義のような話をしていた。
「ここの廊下の像はなんでみんな同じ顔してんだ?」
「ここは神話の彫像コーナー。並んでいるのは、みんな同じ昔の神様の像なんだよ」
「でも髪型が違うぞ」
「作られた年代ごとに神話の文化が変化して、長髪が威厳の象徴だったり短髪が男らしいとされたり、美に対する理想も変わって行ったんだよ」
ネスルの疑問に、テラスが答える。子どもだからこそ気づくような些細な違いも、当時の価値観や情勢に左右されているのだと、なかなか難しい話を噛み砕いて説明していた。
「……なんというか、遺跡の時も思ったけどこの子たちと一緒にいると俺たちいらないよな」
手を引いて歩くどころか引率までこなしそうな子どもたち相手に、レントが頬をかいて感心する。
「解説いらずねぇ」
一行とほぼ初顔合わせのエラフィも、美術品よりこちらの方が面白いと言わんばかりの観察ようだ。
そんな中、毛色の違う感想を思わず口にした者が約一名。
「テラス君格好いい」
「「「……」」」
フートの口から零れた感嘆の溜息に、高等部の面々は何とも言えない顔をする。
「……フート」
ムースは、幼馴染の耳を強く引っ張りその傍で厳しく囁いた。
「何普通に美術鑑賞してるのよ。ここに来た目的忘れたの」
「いや、下見はこの前終わらせたし、普通にテラス君とデートができるかと」
今日の夜にこの美術館に盗みに入る怪盗の台詞とは思えない言葉に、ムースはもう一度フートの鳩尾に肘を入れる。
そんなこんなしているうちに、一行はついに中央展示場と呼ばれる場所に辿り着いた。
他でもないこの部屋こそが、本日マッドハッターの獲物であるエリスロ=ツィノーバーロートの絵画が展示されている場所だ。
そして一行は息を飲む。
「綺麗……」
「でも、ちょっと……」
「怖い」
簡略化された線で描かれた無数の蝶が花を包み込んでいる。ただそれだけの絵なのに、何故か酷く恐ろしい。
「これが、狂気の天才画家、エリスロ=ツィノーバーロートの絵……」
「シャトンって、ツィノーバーロートに詳しいのか?」
「まぁ、それなりに。だって彼は――」
身の内に背徳神の魂の欠片を宿し、そのために狂っていった人物なのだから。
シャノンの言葉に、アリスもハッと息を呑む。
エリスロ=ツィノーバーロートは、自らが夢の中で見た風景、光景、人物を描き続けたという。
彼の兄はベルメリオン=ツィノーバーロートと言い、有数の宝石細工職人であった。その兄の作品もまた歴史的に有名である。
しかしこの芸術家兄弟には不穏な逸話も多く、兄弟の周囲には不可思議な事件が生涯絶えなかったとも言われる。
「今思うと彼は、狂気に呑みこまれまいと絵を描き続けたのね。だからこそ彼の絵には、背徳神の魂の欠片が分散して宿ってしまった」
それが、エリスロの絵画の多くがマッドハッターに狙われる理由である。