第3章 歯車の狂うお茶会
10.眠り鼠の沈黙 059
子どもたちがツィノーバーロートの話をしているのを聞いて、フートは束の間、兄のことに関し思いを馳せる。隣にいるムースも似たような面持ちだ。
何故彼はエリスロの絵ばかり集めていたのだろうか。それを調べるうちに、どうやらエリスロの絵は特別らしいとフートたちも気が付いた。
ザーイエッツはエリスロ=ツィノーバーロートの絵に宿る背徳神の魂の欠片を集めるために、怪人となったのだ。
だけどまだわからない。
何故ザーイエッツ=マルティウスは、背徳神の魂の欠片など探さねばならなかったのだろう。
そんなものが本当に彼に必要だったのだろうか。
「全員揃ったか?」
「ヴァイス先生」
そろそろ集合時間近くだ。ヴァイスとダイナも中央展示場までやってきた。
「子どもたちは?」
「怪人の獲物になってるあの絵をあちこちから見てますよ」
「人々の脚の間からですけどね」
確かにフートの言うとおり、小さな子どもたちの姿が絵画を鑑賞する人々の脚の間や前面にちょこちょこ覗いている。
「ま、わかりやすくていいことだ」
「……先生」
フートは学院でいつも魔導を習っている相手に、先程の質問を飛ばしてみる。
多少は人より才能があったかもしれないが、フートとムースの二人はここまでかなり無理をして怪盗を続けてきた。
ザーイエッツの遺したアジトに隠されていた資料を読み漁り、それでもまだ、全てのことに関して知識が足りない。
特に魔導と言う分野は、その道の専門家でなければ何がお伽噺で何が事実なのかもわからない有様だ。
「何故、怪人マッドハッターは、エリスロ=ツィノーバーロートの絵を狙うんでしょうね」
「何故?」
「さっき子どもたちが、魂の欠片がどうのとか言ってましたけど。あれ、ヴァイス先生の受け売りじゃないんですか?」
そう、元より大人びたあの二人の会話だったので余計な口は挟まなかったが、こっそり聞こえてしまったアリスとシャトンの会話はフートたちにも興味深かった。
「……シャトンか、アリスか」
人に聞こえるところでなんて会話をしているんだと、ヴァイスが呆れた様子でぶつぶつと呟く。
だが彼は誤魔化すことなく、フートの疑問に答えてくれた。その説明は事情を一切知らない者向けの簡易なものであったが、フートが理解するには十分だ。
「昔々、邪神がいて、一人の魔術師に倒され無数の欠片となって世界中に飛び散った。この欠片を、魂の欠片と呼んでいる」
黒い流れ星の神話として伝えられるお伽噺だ。この流れ星を身に受けた者たちが、後の魔王乱立時代を生み出した魔獣、魔物、魔王と呼ばれる存在である。
お伽噺とは言うが、それはこの世界の確かな歴史でもある。戦乱の際に多くの資料が失われたが、実際に大陸や一部地域で魔王を名乗る強力な化け物が人々に危害を加える時代があったらしい。
その時代を生み出した存在こそが、悪名高き創造の魔術師・辰砂。
彼は強大な力を振るう邪神を倒すために、神と自らに呪いをかけたのだという。
自らの魂ごと、相手の魂を砕く邪法、呪い。
緋色の大陸に伝わる文化でわかりやすく言えば、「呪いの藁人形」のようなものだという。呪う媒体を用意して攻撃を加えることで、相手にもダメージを反映させることができる。
けれど辰砂と神の間に何があったのかを知る者はもはやほとんどいない。
魔導でさえ細々と消えようとしているこの時代では、魔王の脅威も黒い流れ星の神話も創造の魔術師の存在も、全てが御伽噺となってしまった。
「魂……魔導を使うのに不可欠な要素ですね」
「そうだ。我々は魂を通じて魔導を使う。魂のない者に魔導は使えない」
魂のない生き物はいない。だが、魂を二つ持つような生き物もいない。いるとしたらそれは――。
「世界中に飛び散った魂の欠片はあらゆるものに宿り、外へと影響を与え続けた。人間の魂に働きかけ狂気や破滅をもたらす」
「……」
それについては知っていた。
兄の遺した手記の文章を脳裏で密やかに反芻するのに、現実のヴァイスの声が重なる。
「マルティウス、お前にはわかるだろう。お前も少量とはいえ、魂の欠片の持ち主なのだから」
そうだ。そして多分――兄のザーイエッツも、フートと同じく魂の欠片を宿して生まれてきた人物だったのだろう。
魔導が失われようとしているこの時代にさえ、辰砂の脅威は残っている。邪神や創造の魔術師の魂の欠片は、世界のあちこちに今も息づいている。
それは時に物に宿り、時に人に宿って生まれてくる。
魂は廻る。黒い流れ星の神話が生まれたその時に存在していた人間、その時に流れ星を――魂の欠片を身に宿した人間は生まれ変わっても自らの魂にそれを宿したままなのだと。
ザーイエッツの手記にはそう書かれていた。
「先生にはなんでわかるんです?」
「私もそうだからだ。背徳神は無数の欠片に分かれたため、この世には少なからずその魂の欠片を身に宿して生まれてくる人間がいる。お前は特にわかりやすい。魂の欠片を得て生まれてきた人間は特筆すべき頭脳や身体能力を持っていることが多い」
知っている。わかっている。
自分の能力は、才能は、天から与えられたもの。それ頼りで生きている自分は、本当は一から努力してきたアリストやギネカに敵わないのかもしれない。
「もちろんお前自身の努力もある。だが、魂の欠片の影響もある。人として生まれ落ちた時点で、魂のどこまでが邪神のものであり自分のものであるなど、考えるだけで無駄だ」
静かに諭すのは、ヴァイス自身がそうだったからだという。
「魂の欠片はな、惹かれあうんだ。特に物質に宿った欠片は、元の動く肉体を備えた自分へと還りたがる」
「還りたがる?」
「そうだ。魂の欠片を持つ人間が欠片を持つ物質に触れると、魂の欠片を人間の中に統合することができるんだ。物に宿るよりも、元の魂に融合する方が欠片も安定するからな」
「統合……」
そうだ。フートもそうやって、これまで魂の欠片を宿した物質に目星をつけて盗み出し、魂の欠片を回収してきた。
「マッドハッターが獲物を返すくせに盗みは完了したとわざわざ宣言するのはそのためだろう。魂の欠片を盗むということに関しては、彼は成功しているんだ。絵画も宝石も美術品も本来は入れ物に過ぎない」
「入れ物でも、何故わざわざ盗むんでしょう。そして盗んだものを返すんでしょう? 自分の懐に入れちゃえばいいのに」
馬鹿な話をしている、とフートは思った。
今の怪人マッドハッターは自分なのに。他でもない、獲物を盗んでは返す泥棒は自分なのに。
何故そんなことを、わざわざ他人であるヴァイス=ルイツァーリに聞いているのだろう。
けれどフートは知りたかった。
獲物を返すというどこか偽善的な行動に、何の意味があるのか?
兄さん、何故あなたはそんなことを……。
「さぁな。だが……」
物思いに耽りかけた思考を、再びヴァイスの声が引き戻す。
「魂の欠片はな、そのままにしておくと悪いことが起きるんだ」
「悪い事?」
「あれは一つに――神に戻りたがっている。だからこそ欠片同士は引き合う。その上、背徳神の狂気を内包している」
「……」
「欠片を持たぬ人間でも僅かに影響を受けるんだ。エリスロ=ツィノーバーロートの絵画だけでなく、呪われた宝石や美術品などもな。放置しておくと災いを生み出す」
ヴァイスは何を言おうとしているのか? フートは彼の方に向き直りその一言一句に集中して聞き入った。
「十年前にこの帝都に現れたマッドハッター最初の獲物も持ち主を殺す呪われた宝石だっただろう?」
マッドハッター最初の獲物は、不幸を呼ぶ宝石。それを意図せず受け継ぐことになってしまった少女から盗み出し、もうこの宝石が悪さをすることはありませんと添え書きと共に送り返した。
「案外あれは、マッドハッターなりの善行なのかもな」
「……」
脳裏で色々な点が繋がり、フートは言葉を失う。
兄は何故盗みなどしていたのか? 何故自分たちから離れてまで犯罪者になったのか? 幾度も疑問に感じてはいたが、そんな風に考えたことは一度もない。
「しかし、気をつけろよマルティウス」
「え?」
「お前もわずかながら魂の欠片を宿している。あの絵に近づきすぎると影響を受けるぞ。下手すると狂い死にだ」
「え、いや、いくら魂の欠片ってもそんなまさか」
「確かに欠片の一つや二つを回収したところでいきなり狂い出すわけではない。そんな簡単に集められたら怪盗だろうが睡蓮教団だろうが苦労はしないだろう。しかし、良い影響を与えないのも確かだ。怪しい美術品なんかにはできるだけ触れないようにしろ」
「わかりました。来年の進路調査に学芸員と書くのだけはやめておきますよ」
「そうしておけ」
忠告の言葉が受け入れられたのを理解して、更に隣からダイナに何か話しかけられたらしいヴァイスが彼女と共に去っていく。
話を聞いておいて良かった。隣から気遣わしげな声をかけてくる幼馴染に頷いて見せる。
「フート」
「行こう、ムース」
これで今夜も戦える。