Pinky Promise 060

第3章 歯車の狂うお茶会

10.眠り鼠の沈黙 060

 弁当を食べて一休みし、彼らは帰ることになった。
「父さん」
 そこでテラスと数人が、マッドハッター対策で立ち働くモンストルム警部に挨拶に行くことになった。
「テラスか、どうした?」
「僕たち、もう帰るから」
 ヴァイスが再び丁寧に頭を下げ、チケットの礼を述べている。普段とはえらい違う外面だ。
「怪人対策は順調ですか?」
「む」
 しかしマッドハッターの話題になると、モンストルム警部は渋い顔になった。
「警備は万全だ。だが奴はどのように堅牢な檻とて霧のように抜けてしまう怪人。どれほど対策しても、し過ぎることはない」
 いつもマッドハッターにしてやられている警察だ。完璧な対策をしたとも言い切れず、かといってまったくできていないと言う訳にも行かず。大人は大変だなぁと、アリスは適当に考える。
 彼らがそんな会話をしている時だった。
「警部! お電話が……」
「誰だ?」
「それがその……」
 モンストルムに電話を持ってきた警官が何故か言い淀んだ。声を潜めて告げる。
「例の……“ヤツ”です」
「何?!」
 モンストルムが部下の刑事の手から携帯をひったくる。豹変したその様子に、アリスやシャトン、ヴァイスは何事かと驚いた。
 テラスだけは慣れた様子で父親を見つめている。
「私だ。――何の用だ」
 モンストルム警部が電話の相手に集中してしまったので、一行は息を潜めて会話の終わりを待った。
「――どういう意味だ、それは。我々警察は――あ、おい、待て!」
 通話の切れた電話をモンストルムは苦々しげに見下ろす。
「ったく……」
「あの……どうかしましたか」
「なんでもありませんよ、こちらのことです」
 部外者には知られたくないことだったのか、警部はあからさまな誤魔化しに入る。アリスたちの方も怪盗対策について警察内部の踏み込んだ情報が欲しい訳でもなく、さして興味のない振りで流した。
「すみませんが、我々はこれから警備態勢について美術館側と話し合いをしなければなりません」
「あ、いや、我々ももう帰りますので」
「そうですか。それでは息子のことをよろしくお願いします」
「はい、本日はありがとうございました」
 美術館を出て道を歩きながら、彼らは先程の警部の態度の急変の話をした。
 モンストルム警部の息子として度々現場に出入りし、父親の顔色の変化を常日頃から見慣れているというテラスが説明する。
「あれは多分、ジャバウォックからの電話だよ」
「ジャバウォック? ……って、何?」
 初めて聞く名に、アリスは首を傾げる。
「ジャバウォックだと……?」
 一方ヴァイスの表情は険しくなった。
「確か……『不思議の国のアリス』に登場する詩の中に、そんな名前の怪物が出て来るわよね」
 シャトンも確認するように、テラスへと振り返った。
「名前の元はそこなんじゃないかな。でも警察の間で“ジャバウォック”と言えば、“姿なき情報屋”のことを指す」
「姿なき情報屋?」
 アリスはますます怪訝な顔をした。なんだその珍妙な名は。
 何よりシャトンやヴァイスの反応からすると、それは不思議の国の住人の一人だ。睡蓮教団側かどうかはまだともかく、背徳神の魂の欠片に関する秘密を知っている人間ということになるのだろう。
「ジャバウォックはここ数年で帝都に現れた情報屋なんだって。でも、彼の正体を知る者は誰もいない。それが個人なのか、組織なのかすら不明の謎の情報屋だ」
「それで、姿なき情報屋なんて呼ばれているのか」
 裏世界の住人。けれど怪人マッドハッターや怪盗ジャックと違い、一般人の前には姿を現すことのない特殊な存在だ。
 それでも警察や探偵などその筋の人間は度々情報屋の世話になることがあるという。ネットワークが発達してきた最近ではパソコンやケータイでのやりとりを行う情報屋も多いが、ジャバウォックのように誰にも正体を探られていない情報屋は珍しいらしい。
 誰もが彼の正体を知りたがり、そして辿り着けずにいる。
 それどころか、いくら調べてもそれらしき人間の影すら掴めないことから、ジャバウォックとは実在する一個人ではないのではないかと言われている。優秀なハッカー集団が徒党を組んで情報屋を名乗るコードネームがジャバウォックなのではないかと……。
 しかし、それもまた根拠のないただの憶測に過ぎない。
「その情報屋が、何故モンストルム警部に?」
 ヴァイスの問いに帰ってきたのは、あまりにもシンプルな答だった。
「ジャバウォックはマッドハッターが嫌いみたい」
「……嫌い?」
「そう。それでお父さんはじめ捜査三課マッドハッター対策本部に、時々マッドハッター対策に有利な情報を教えるらしいよ」
 あどけないテラスの口から紡がれるので思わず納得してしまいそうになったが、それが情報屋ジャバウォックの行動原理ならば、何とも子どもじみた理由だ。
「あれ? 情報屋ってそんな商売だっけ? 利益は?」
「さぁ」
 謎の情報屋の考えることなんて僕は知らないよ、とテラスはにっこりと笑う。
 テラスがこれだけジャバウォックの情報に詳しいのも、父親がモンストルム警部であるその関係なのだろう。
「利益を求めず客と接触しないのなら、確かに正体を隠すこともできるかもしれない……か?」
 だがそれならば、ジャバウォックは何のために情報屋などしているのだろう……。
 テラスの話に寄れば、ジャバウォックはマッドハッター関連以外にもたびたび警察に情報を寄せることがあるらしい。
 警察としてはソースのわからない情報を信じたくはないが、彼の持ってくる情報が間違っていることもないので対応に戸惑っているというわけだ。
「いや待て、そう言えばマッドハッターの方も盗んだ獲物を数日もすれば返却するのだから、利益は上がらない。ある意味似た者同士……なのか?」
 ヴァイスも半信半疑の様子だ。別にテラスの発言を疑っているわけではなく。情報屋がそんなことをする意味が何かあるのかと考えている。
「でも、利益を度外視しているのなら逆に、ジャバウォックもまた、マッドハッターと世界を同じくしていると推測できるわね」
 シャトンが言う。
 彼女は裏の世界にいた時に、ジャバウォックの噂でも聞いたことがあるのだろうか。
 アリスは口を開こうとした。が――。
「世界って何?」
 テラスの無邪気な質問に、アリスたちは我に返った。
 しまった。いくら子どもの前とはいえ、内々の話をし過ぎてしまったようだ。油断しすぎた。これではいけない。
「なんでもないわ。あるイベントサークルの価値観の話よ。利益より自分の目的を追求するという、ね」
「そう」
 シャトンが無理矢理に誤魔化す。テラスは不自然さに気づいているのかいないのか、表面上はいつもと変わらない様子で頷いた。
 テラスの家は警部である父親だけで、母親がいないのだという。
 警察官は言うまでもなく家を空けがちだ。テラスが年齢よりも遥かにしっかりしているように見えるのはそういった環境からかもしれない。
「そろそろ駅に着くわね」
 美術館傍の駅では、先に向かった高等部と小等部の生徒たちが彼らを待っているはずだ。
 モンストルム警部への挨拶に十人以上でぞろぞろ押しかける訳にもいかないからと、彼らは後から駅に向かうことになったのだ。
「ヴァイス先生、ダイナ先生、お疲れさまでーす」
「テラス君も、今日は本当にありがとう」
 無事に合流を果たした一行だったが、そこでヴァイスが離脱を申し出た。
「すまんダイナ。我々は用事がある」
「え? そうなんですか」
「お前たちは先に帰ってくれ」
 今日はまだ日も明るいし、最寄駅は皆一緒なのだから引率もダイナ一人で十分だろう。
 ヴァイスとアリス、シャトンの三人の目的は元々「こちら」が本命だった。
「では、我々はこれで」
「アリスちゃん、シャトンちゃん、バイバーイ」
「みんな、バイバイ」
 他意のない挨拶を交わす面々に交じってさりげなく、ギネカがアリスに近づいて囁いた。
「……気を付けてね」
「ああ」
 ――さて、本番は今日の夜。
 彼らの目的は、魂の欠片を集め、睡蓮教団へも何らかの関わりがあるのではないかと目される怪人マッドハッターへの接触だ。

 ◆◆◆◆◆

 時計台の鐘の音が鳴り響き夜の帳が降りる。
 間もなく予告時間がやってきて、舞台の幕が開かれるだろう。
「さぁ、勝負の始まりだ」
 怪人がマントを翻した。