Pinky Promise 061

第3章 歯車の狂うお茶会

11.三月兎の足跡 061

 美術館鑑賞の折にふと、二人きりになった時のことだ。
 小さなテラスが、アリスに不意に問いかけてきた。
「アリス、何を考えているの?」
「え、いや、別に何も」
 嘘だ。アリスはこの時、今夜の計画について脳裏で反芻していた。
 この後アリスとシャトン、ヴァイスの三人は、美術館近辺に残って、真夜中のマッドハッターの犯行まで備えるつもりだった。
 帽子屋のコードネームを持つ怪人には睡蓮教団との関係など、色々聞きたいことがある。
 なんとか接触を試みるのが、今回のアリスたちの作戦だった。
 だが、警察などに邪魔されずマッドハッターと顔を合わせるには、怪人が警察を振り切って一人になったところを狙わねばならない。
 それには当然、マッドハッターの行動を知ることが必要である。
 マッドハッター自身はこれまでも警察に捕まることがなかったのだ。今日もどうせやる気に満ち溢れたモンストルム警部たちを鮮やかに振り切り帝都の夜闇に姿を消すことだろう。
 アリスたちは警察とは別のルートで、マッドハッターとどうにか話ができるだけの場所へ辿り着くのだ。もちろん、警察が近くにいたりしては怪人と落ち着いて話ができないだろうから、マッドハッター独自の逃走経路を読み解く必要がある。
 しかし、これが難題だった。
 警察がここ一年近く追い続けている怪人を、アリスたち素人三人で一体どうやって捕まえるのか。アリスはもちろんヴァイスもシャトンも、窃盗犯を捕まえる技術など持ち合わせていない。
 こんな時こそ探偵のヴェルムがいてくれれば心強いのだが、彼は今日不在だ。
 ちなみに今回はギネカも不参加である。いくら拳銃を持った銀行強盗とも戦える女子高生とはいえ、夜遅くに怪人と鉢合わせなどという危険なことをやらせるのは忍びない。
 そんなことに頭を巡らせていたアリスの顔を見つめ、テラスは笑みを浮かべる。
「ふふ。嘘だね」
「え……ッ!」
 アリスの誤魔化しをテラスは軽々と見抜く。まるで心を見透かされているようだ。 こんなことは初めてではないが、毎回アリスはどきりとしてしまう。
 テラスは一体何を知っているのだろう?
「マッドハッターのことを考えていたんだろう。今日美術館を回っている人間の大抵の興味はそこだよ。別に何も不思議に思うことじゃない」
「あ、ああ……そうだな」
 続く言葉に、どうやら自分の勘違いだったようだと理解してアリスはこっそり息を吐く。
「ねぇ、いいことを教えてあげようか」
「?」
「さっき父さんの近くにいたら、警察の人がやりとりしているのを聞いちゃったんだ」
「ええ?! そんな大事なこと、俺に話していいのかよ!」
 大人たちの話の内容をしっかり聞き取り覚えているのも驚くが、それをアリスに教えようと言うのも驚きだ。
 いや、子どもとは知ったばかりのことを何でもかんでも人に教えたがると言えばそうなのかもしれないが。
「さあね。僕らが何をやったって……それは子どもの他愛もない悪戯だろう」
「……」
 テラスの言い様に、アリスはまたもどくんと心臓を高鳴らせる。
 アリスは本物の子どもではない。だがこの外見ですることは例えどんな悪さだろうと、子どもの悪戯で済まされる。
 それはとても恐ろしい事のはずなのに、何処か胸が痛む。
 本当の自分は、この世界の今どこにいるのだろう……?
 しかしそんな感傷も、再びテラスの言葉で遥か彼方に吹っ飛ばされた。
「姿なき情報屋“ジャバウォック”からの助言だよ」
 小さな子どもは無邪気な顔で、怪人を追う全ての人間が喉から手が出る程欲しがる重要事項を告げてくる。
「怪人マッドハッターを捕まえたいなら――」

 ◆◆◆◆◆

 ――予告状が告げる真夜中がやってきた。
 ポピー美術館中央展示場には、警官が四方と入り口を固めるようにして集結している。
 真夜中でも時計台の鐘は鳴る。
 リンゴンと荘厳な鐘の音が藍色の夜に響き渡り、怪人の訪れを知らせる。
「時間だ」
 モンストルム警部の呟きに合わせるかのように、展示場の中に小さくコミカルな爆発音がした。
 淡く色づいた煙が晴れると、絵画を飾った壁横の階段に世を騒がせる怪人マッドハッターの姿が現れる。
 花で飾られたシルクハット。素顔を隠す白い仮面。彼のお辞儀に合わせて黒いマントが軽やかに翻る。
 投光器の光は、まるで舞台のスポットライトのように怪人の姿を闇の中、鮮やかに浮かび上がらせた。
「マッドハッター」
「御機嫌よう、モンストルム警部」
「貴様のせいでまったくご機嫌よくないわ! 今日こそ観念してお縄につけ!」
 いつも威勢のいい警部の変わらないやりとりに、怪人は仮面の下でくすくすと笑う。
「残念ながら、私は私の目的を果たすまで怪盗を辞めるつもりはありませんよ」
 マッドハッターを捕まえようと駆け寄ってくる警官の前で、怪人はぱちんと指を弾く。
「『花の終焉』は頂いてまいります」
 その言葉と共に、壁にかけられた絵が急にばらばらと、パズルかモザイクのように剥がれ落ちて浮き上がり――その破片が、一斉に外に向かって飛んでいく。
「ほら、絵の方もこんな場所に閉じ込められることを嫌って逃げ出してしまいましたよ?」
「なんだと?!」
 幾つもの欠片となって窓の外に飛び立つように消え去ってしまった絵を、モンストルム警部たちは呆然と眺める。
 まるで魔法、いや、悪夢のようだ。元の絵は無事なのか?!
「一体どうなっとるんだ! なんだありゃ! 何故絵が急に……!」
「それでは皆様、御機嫌よう」
 マッドハッターは人知れず部屋の中に潜入した時と同じ言葉で、今度は別れの挨拶を告げる。
「待て! マッドハッター!!」
 そしてまさしく神出鬼没の名を欲しいようにする怪人は、再び小さな爆発をその場で起こすと、影も形もなく消えたのだった。

 ◆◆◆◆◆

「待てー!! マッドハッター!!」
 美術館から抜け出すルートは限られているはずだと、とにかく飛び出してパトカーを走らせる警部たちをマッドハッター――フート=マルティウスは笑顔で見送る。
「待てと言われて待つ奴はいませんよ、警部。まったく毎回毎回、よくやるよなぁ」
 マッドハッターが警察をやり過ごした手口は極めて単純なものだ。
 爆発と共に背後の窓から外に出て、警備の目の死角になるような場所で窓枠などの僅かな出っ張りの上に立ち、美術館の外壁に貼り付いていただけである。
 建物の三階相当の高さの壁に貼り付いていたのだから確かに高い身体能力を要されるが、言ってしまえばそれだけである。
「そうだな。蓋を開けてみれば意外と単純な手口だったな」
 不意に背後からかけられた声に驚いて、マッドハッターはぎょっとした顔で振り返る。
 月明かりがそこに落とす影は酷く小さい。
 当然だ。その影の持ち主自体が小さいのだから。
「待っていたよ、怪人マッドハッター。いや……コードネーム・帽子屋さん?」
 アリス=アンファントリーと名乗る子どもがそこにいた。