Pinky Promise 062

第3章 歯車の狂うお茶会

11.三月兎の足跡 062

 星々の見守る中で、小さな影と怪人の影が対峙する。
「……坊や、こんな時間に子どもが一人で出歩いていてはいけませんよ」
「こんな時間に窃盗なんて悪さをしている人に言われたくないなぁ」
 あからさまに子どもを諭す口調のマッドハッターに対し、無邪気な子どもを装って、アリスは言い返した。
 マッドハッターの台詞こそ子ども扱いではあるものの、彼はアリスの姿を見た途端、一度は緩めたはずの気を入れ直した。
 油断をしてくれないところが油断ならない。
「私のことを御存知のようですが、君は一体何者だ?」
「初めまして。俺はアリス=アンファントリー。あなたを知ってることは別に珍しくもなんともないだろう。怪人マッドハッターは、帝都で一、二を争う有名人じゃないか」
 一、二を争っている相手は暗にもう一人の怪盗であることを示しながら、アリスはマッドハッターの反応を待つ。
 間近で見た怪盗は、どうにも当初の想定より随分若いようだ。
 仮面に隠されていない整った頤の輪郭など、まるで十代の少年のようである。
 闇に溶け込みながら浮き上がる黒いマント。手足はすらりと長く、立ち姿は自然と人目に美しく映る角度を普段から心がけているようだ。
 ――一体、どんな人物だったら、帝都の夜を翔ける怪盗になろうなどと思えるのだろう。
 今でこそ数奇な身の上に置かれてはいるものの、本来は極一般的な家庭の子どもでしかないアリスには想像がつかない。
「こんなところで待ち伏せしているなんて、ただのお子様じゃありませんよね?」
「残念ながら、今はただの子どもだよ。ここがわかったのは、警察に入れ知恵しているジャバウォックとかいう情報屋のおかげだ」
「ジャバウォック……なるほど……」
 ジャバウォックはいつもいつも、怪人マッドハッターの犯行を邪魔するように警察に情報を流しているらしい。
 一方的に敵視されているマッドハッターが姿なき情報屋に対して何を思うのかは、アリスにも予想しにくいところだ。
 本気で怪人を警察に捕まえさせる気なら、今日もアリスではなく警察にマッドハッターが立ち寄るこの場所のことを教えれば良かっただけ。
 けれど情報屋ジャバウォックは、決してそこまではしないらしい。
「私も姿なき情報屋の正体は知りませんが、彼がここに君を寄越したということならば、どうやら何か意味があるらしい」
 ――マッドハッターとジャバウォックの間には、何か無言の理解や暗黙の了解でもあるのだろうか。
「寄越した? いや、俺は情報屋が警察に流したらしい情報とやらを又聞きで聞いて……」
 アリスが直接その情報屋と会話をした訳ではない。
 この情報をくれたテラスだとてそうだ。たまたま警察の話を聞いてしまっただけだと言っていた。
「ジャバウォックは狡猾なる情報の支配者、それも恐らく計算のうちですよ」
「……へぇ」
 マッドハッターはそれを、作為的なものだと否定する。
 しかし真剣な雰囲気が続いたのは、そこまでのことだった。
 アリスの態度から警察の手先や自分に害をなす相手ではないと薄々理解したのか、マッドハッターはアリスと真正面から会話をするより軽くあしらうことを決めたようだった。
「とはいえ夜ももう遅い」
「いや、予告時間決めたのお前だろ」
「良い子は寝る時間ですよ」
「大人のモンストルム警部たちもちゃんと寝かせてやれよ」
「私も早く帰って寝ないと美容に悪いので」
「女子か! そしてそんな仮面で顔隠した奴の言うことか!」
 自分たちで繰り広げておきながら、アリスはこのノリ何か覚えがあるなぁと思う。
 まるで教室でいつもの友人――テラスたち小等部の子どもたちではなく、十七歳本来のアリストの友人たちと、他愛ないやりとりを繰り広げている時のような。
 アリスをあしらったマッドハッターは、優雅に歩いてビルの屋上の端へと向かう。そこから飛び降りて姿を消す気だろう。
 だが、アリスは驚かなかった。この高さの屋上からなら、手段さえきちんと用意しておけば「アリスト」だって飛び降りることができる。
「そろそろお暇させていただきますよ」
「待てよ――さっきと同じように、また蝶と映写機のイリュージョンでも使って消える気か? サービス精神旺盛な怪人さん」
 マッドハッターの脚がぴたりと止まる。
 ――怪人マッドハッターを捕まえたいなら、待ち伏せするといい。場所はジャバウォックが教えてくれる。
 ――でもマッドハッターの犯行の一部くらいは君自身で解明しないと、たぶん同じ舞台の上にすら立てないよ。
 それがジャバウォックの台詞だ。だから頑張ってね。と。
 本来警察に伝わるべき情報なのに、まるでアリス個人に語りかけているかのようなテラスの言葉を思い出しながら、アリスは口を開いた。

 ◆◆◆◆◆

 マッドハッター……フート=マルティウスは足を止めた。
 この子どもは一体何者だ?
 こうして対峙していても、睡蓮教団関係者のように異様な威圧感は感じない。見た目は完全にただの子どもだ。
 けれど今日この時間にこの場所で待ち構えていたこと、そしてヴァイスのところにいる時点で只者ではない。
 調べても資料が異様に少ないなど謎が多かったが、今本当にわからなくなっている。
「怪人マッドハッター、お前が警察の前で絵画を消したトリックは、『蝶』を使ったものだろう?」
「……犯行を見ていたんですか? 失礼ですがあなたは警察には見えませんがね」
 あの場にいたのは怪人マッドハッターとそれを捕まえようとする警察の連中のみだ。
「そこはほら、双眼鏡という文明の利器が」
「音声は」
「盗聴器と言う文明の利器が」
「何私みたいなことしてるんですか」
 さらりと口にされたが、一般人の会話には間違っても盗聴器なんて出てこない。
ヴァイス先生何やってんの? 子どもに何やらせてんの? という内心は仮面の下に押し隠し、マッドハッターはアリスの言葉に耳を傾ける。
 目の前の少年はどう見てもただの七歳にしか見えないのに、その口ぶりからまるで自分と同じくらいの年齢を相手にしているように錯覚する。
「マッドハッター、お前はあらかじめ美術館に侵入して絵に細工を施し、キャンバスから外して仮留めしておいたんだ。その上に白いスクリーンをかけ、魔導で眠らせた蝶を並べて置く……どうでもいいけど、すげー魔導の無駄遣いだな」
「ほっとけ」
「さらにもう一枚のスクリーンをかけ、そこに『絵画の絵』を映写しておく」
 中央展示場のかなり高い位置に、観覧客が触れられないように距離をとって飾られていた絵だ。魔力で多少の補正はしているが、至近距離で見なければ気づかれない。
 魔導の知識がない者には考えもつかないだろうが、アリスたちは別だった。アリスはまるで自分で気づいたかのように語ってみせるが、ぶっちゃけこの仕掛けの半分以上はヴァイスが気づいたものである。
「予告時間になると、お前は警察の前で一枚目のスクリーンを外し、蝶の大軍を目覚めさせまるで絵具が羽ばたいてキャンバスから消え失せたかのように演出したんだ。自分も一度姿を消して外へ逃げたように見せかけ捜査員を追い払い、すぐに現場へと戻る。そして絵画に仕掛けたスクリーン諸々と共に、標的の絵を回収する……」
 色々と突っ込みどころの多いトリックだが、その不可能を可能にしているのが、魔導の才だ。
 万が一にでも現場に証拠として残るものには魔導を使わず、あくまでも蝶を眠らせて都合の良い演出を生み出すためだけに魔導の補助を使った。
「で、これが証拠の蝶ね。……お前、こんだけ無駄な才能があればもっとマシなことに使えないの?」
「余計なお世話ですよ」
 広げた翅に鮮やかな色を塗られた蝶を何匹か捕まえて入れた虫籠を、アリスは背中から取り出した。
「ちなみにこの絵具、落としてやれねーの? なんか可哀想なんだけど」
「特別製のインクなので、数日もすれば自然と剥がれますよ。無理にこすり落とそうとしないでくださいね。それこそ彼らの翅を痛めてしまいますから」
「そっか。それならいいんだけど」
 そう言うとアリスは虫籠から蝶たちを解放する。
 マッドハッターは驚いて問いかけた。
「何故……それを警察に持っていけば、君は怪人マッドハッターを追い詰めた子どもとして一躍有名人ですよ」
「そんなこと別に望んでいない」
 マッドハッターはまだアリスの思惑に辿り着けてはいなかった。人より相当勘の鋭い子どもが、情報屋ジャバウォックの力を借りて怪人を捕まえるためにここに来ただけだと思っていたのだ。
 もちろんアリスの目的は違う。
「マッドハッター、俺が知りたいのは、お前が――」
 しかしそれを、すんなり怪人に伝えることは叶わなかった。
「おや、今日は余計な顔がいるようだ」
 重たい金属の扉を開けて入ってくる音に続く台詞。闖入者の登場に、二人はハッと屋上の入り口を振り返った。

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