Pinky Promise 063

第3章 歯車の狂うお茶会

11.三月兎の足跡 063

 マッドハッターは仮面の下で眉間にしわを寄せる。
 まずい。まさか今日に限って、ばっちり睡蓮教団と鉢合わせるなど――。
 教団の情報が欲しい自分としては、この接触は待ち焦がれていたものだ。だがここにいる子どもを巻き込むわけにはいかない。
 アリスの目的が何なのかは、マッドハッターにだってまだわからないくらいだ。この子どもの正体も思惑も、何一つ掴めていない。敵か味方もわからない。
 しかし彼らがマッドハッターの近くにいた子どもをあっさり諦めてくれるはずもなく、これまでにも何度か顔を見た事のある教団員の一人がアリスに話しかける。
 マッドハッターは敵でも無関係な他人でも、誰かを傷つけたくはない。けれど睡蓮教団がそのような意を汲んでくれるとは思えない。
「やぁ、坊主。お前さんは見ない顔だが、マッドハッターの仲間か?」
「……おじさんこそ何者なの? 銃を持ってるけど、警察の人たちには見えないよ」
 手下の強面を何人も従えて拳銃を見せびらかしている男相手にそれを聞くとは、アリスも大概良い度胸だ。
「マッドハッター専任はモンストルム警部でしょ? おじさんは何なの?」
 明るい茶髪に灰蒼の瞳をした大男は、一人だけ衣装も違う。睡蓮教団の幹部の一人だ。
「おじさんか? おじさんは睡蓮教団のティードルディーと言う者だ」
 真っ正直に尋ねる子どもに対し、あっさり過ぎる程にあっさりと、男は自らのコードネームを暴露した。
 まずい、とマッドハッターは思った。
 子どもとは言え通りがかりにこんなことを教えるとは、恐らくこの男にはアリスを生かして帰す気がないのだ。
 だが、少年の次の言葉は、そんな男の意図よりも余程マッドハッターを驚かせた。
「……コードネーム“ティードルディー”か。睡蓮教信者の上に不思議の国の住人とは……おじさんは悪い人なんだね」
「お?」
 ティードルディーも顔色を変える。
 この子は睡蓮教団と、それに関わる者たちのコードネームとその法則を知っている?
「ただの子どもじゃないようだな。マッドハッターには手下がいるらしいと聞いていたが、お前だったのか」
「残念だが俺は今日初めてマッドハッターに会った人間だよ。聞きたいことがあったんだけど、相手はあんたらでも良さそうだな」
 アリスは首筋、襟の内側にそっと手を触れながら口を開く。その仕草が意味をするものはよくわからないが、何か仕込んでいるのは確実なようだ。
「マッドハッターとあんたたちの関係はなんだ? まさか仲間割れじゃねーよな」
「坊主……お前、本当に何者だ?」
 質問に質問で返すと言うよりは、単に答えるのを忘れて先を知りたがった様子でティードルディーが問う。
「“アリス”」
 子どもはニッと唇を歪め、背後に夜と月を従えて宣言した。ティードルディーたち教団員は眉間にしわを作り、マッドハッターは仮面の下で目を瞠る。
「コードネーム“アリス”だ! 睡蓮教団、てめーらをぶっ潰してやるぜ!」

 ◆◆◆◆◆

 アリスは一対多数の状況でも、まったく恐れを抱いていなかった。
 常識的に考えれば、七歳児の体で大の男を十人近く相手にして敵うはずがない。前回の強盗騒ぎの時だとてそれで苦労したのだ。
 だが今夜は、妙な高揚が脳髄を支配している。
 この場にいるのはほぼ犯罪者――アリスが何をしようとも、一般人や警察に見咎められるようなことはない。
 相手はマッドハッターを入れても十二人――ただし、アリスの方にもヴァイスとシャトンのバックアップがついている。
 そして何より――今この空間には、かつて戦った白兎や赤騎士程の実力者はいない!
 負ければ殺されるとわかってはいるが、そもそもこのまま安全なところで守られていたら、いつまで経っても元の十七歳のアリストに戻ることなんてできないのだ。
 逆にここでこの男、ティードルディーと名乗る教団関係者を捕まえることができるのであれば、一気に教団の核心へ近づくこともできるはず。
 多少の危険な賭けぐらい、いくらだって乗ってやる!
『ちょっとアリス! 何相手を挑発してんのよ!』
 襟元に仕込んだ通信機からシャトンの声が流れてくる。
 先日遺跡内で活躍した魔導通信機はヴァイスが襟元につけられるサイズのピンバッジへと加工しなおしてくれた。今日のような時のために、ボタンを押していなくても双方向に声が流れるように改良もしている。
「仕方ないだろ。鉢合わせしちまったもんは。顔を見られたら困るのはこっちだって同じだ。延々ストーカーされることに怯えるぐらいなら、今、きっちり片を付けてやろうぜ!」
『――もう!』
 シャトンの苛立った声。しかし彼女もいい加減アリスの性格に慣れたのか、すぐに気持ちを切り替えてティードルディーに関する情報を流してくる。
『ティードルディーは欠片回収部門の一員よ。今思えば、対マッドハッター専任だったのでしょうね。そして見た目に似合わぬ魔導士でもある』
「魔導士? そんな感じじゃね―けど」
『彼の術形式は特殊で――』
 アリスが声を潜めてこっそりシャトンと通信している間に、マッドハッターもティードルディーと会話を交わしていた。
「その絵を渡せ、マッドハッター」
「お断りですよ。それに、もう」
 マッドハッターが盗んだ画布を広げながら手をかざすと、淡い光が絵の中から浮き出て彼の手のひらに吸い込まれていく。
 ツィノーバーロートの絵画に宿っていた魂の欠片を回収したのだ。
「手遅れではないんですか? まぁ、あなた方がこの美しい名画を飾って眺めたいと言うのであれば別でしょうが」
「……やれやれ。いつもながらやってくれるぜ」
 ティードルディーの瞳に剣呑な光が宿る。
「ではお前がこれまで集めた魂の欠片は、お前を殺し、お前の魂ごと回収させてもらおうか」
「……」
 魂の欠片は物にも宿るが、それ以上に人間へと定着しやすい。意志のない無機物ではなく、かつての神の姿に近い人間へと宿って元通り一つの魂へと戻りたがっているのだ。
「いやー、ここ数週間大変だったんぜ、俺たちも。お前のような人間から魂の欠片だけを分離して回収する禁呪の開発に忙しくてなぁ」
 チェシャ猫の奴がいればもっと楽だったろうに、と男は肩を竦める。
「へぇ。それはそれは。無駄な努力御苦労さまですねぇ」
 私は捕まりませんよと、シルクハットのツバを引き下げながら笑う。
 そしてマッドハッターはアリスに告げた。
「逃げな、おチビちゃん」
「え?」
「君がどういう理由で教団の内情を知ったのかはともかく、ここにいたら危険だ。君の保護者は教団の元天敵だ。どうせ近くで待機しているんだろう? 彼に助けてもらえ」
「お前、どこまで俺の事情を知っているんだ?」
 アリスがここに来ることなど全く予想していなかったはずなのに、ヴァイスのことをどうやら知っているらしい。アリスの中でマッドハッターに対する謎が増えた。
「細かいことを気にするのは生き延びてからの話だろう。俺が奴らの目を一瞬誤魔化す間に――行け!」
 マッドハッターが閃光弾を地面に放つ。アリスは同時に駆けだした。
 屋上の端から飛び降りる。
 てっきり屋上の扉を目指すものだと考えて拳銃を取り出しかけていたマッドハッターが仮面の下で鈍く笑う。それでいいと言うように。
 知りもしない仮面の下の顔で浮かべている表情が、アリスにはわかるような気がした。
 屋上から飛び降りたアリスは魔導で衝撃を和らげ着地する。
 白兎と赤騎士に手も足も出なかったあの頃より、魔導の練度を上げるように努めたのだ。
 しかし。
「……まぁ、やっぱりそう来るよな」
 完全に窮地を脱した訳ではないことはわかっている。
 目の前には先程の男と似たような格好をした男。ただし人相は大分違う。
 薄い灰色の髪に黒い瞳。快活そうな先程の男とは違い、どこか神経質そうな印象を与える細身の男だ。
「やれやれ、しっかりしてくださいよティードルディー。私も働かねばならないじゃありませんか」
 アリスの退路を断つように立っていた男、ティードルダムとの戦闘が始まる。