第3章 歯車の狂うお茶会
11.三月兎の足跡 064
「ちっ……」
どうやらアリスの方にも回り込んでいた敵がいたらしいことは、マッドハッターも確認した。
だが、向こうは魔導士が一人。こちらは十人以上の敵を相手にせねばならない以上気が抜けない。アリスのことに関しては、保護者であるヴァイスが何らかのフォローを入れると信じよう。
いくら魔導の才能で上回ろうと、銃で撃たれたら死ぬ生き物なのだ。人間は。
どれほどの力を身に着けてもそこが変わることはない。魔導は魂という、肉体や物理法則とは違う次元の話だ。だからこそ大きな力であり、だからこそ何より無力な時もある。
『マッドハッター、大丈夫?!』
「大丈夫だ。出てくるなよ」
『パターンBに車を回しておくわ』
無線の向こうの眠り鼠に囁きかける。遠くでカメラ越しにこの状況を確認している彼女は、敵に気づかれないギリギリの距離に逃走手段を用意してくれるという。
そこに行くためにもこの場をなんとか凌がねばならない。
ティードルディーが口を開く。
「そろそろ終わりにしようぜ、マッドハッター。お前とは随分長い付き合いだ」
「……」
前々からやはりと思っていたのだが、この男は兄を――十年前にマッドハッターとして活動していたザーイエッツを知っている。
ティードルディーから話を聞きだせば、兄に辿り着く手がかりを得られるかもしれない。
「間抜けな王様がお前を殺し損ねたせいで、俺たちがこんなことまでする羽目になっちまった」
“王様”。
それも恐らくコードネームの一つなのだろう。『不思議の国のアリス』にはハートの王、『鏡の国のアリス』には白と赤のチェス駒の王様が登場するが、さてティードルディーの言う“王”は一体誰のことなのか。
アリスという闖入者のおかげかどうか、今日のティードルディーはやたらと饒舌である。陽気を装うのはいつものことだが、普段はこれ程喋る男ではない。
アリス……。
あの子どもははっきりと言った。
コードネーム“アリス”だと。フートは学院内での付き合いから彼の名がアリス=アンファントリーであることを知っているが、ティードルディーに名乗ったのはそう言う意味ではないだろう。
“アリス”のコードネームは、不思議の国の住人にとって特別なもの。悪夢の物語を終わらせるために兎穴に落ちてきた、待ち焦がれし主人公。
彼は、この呪われた物語を終わらせることができるのか?
「間抜けなあなた方如きに、私が殺されるはずないでしょう」
意識を今目の前にいる敵に移し、マッドハッターは相手の言葉を流用した挑発を返す。
ティードルディーの眉がぴくりと動いた。
豪放磊落を装って意外に神経質な性格のようだ。まぁ、そうでもなければ繊細な制御の魔導など使えないだろう。
これまでマッドハッターは、この男たちとの正面切っての戦闘から逃げ切ってきた。だが。
「私の方もあなたの顔は見飽きました。ここで終わりにしましょう」
物語を終わらせるための主人公が現れたならば、いくら狂った帽子屋でも動かざるを得ないのだ。
◆◆◆◆◆
魔導の練度は上げたものの、やはりこの小さな体では苦戦する。
『アリス! 無事?!』
「今のところは、な」
すぐ近くの建物に隠形の術を使って隠れているはずのシャトンに、まだ出て来るなよとアリスは指示する。
彼らは本来、不思議の国の住人のコードネームを持つとはいえ恐らく教団側ではないマッドハッターと接触するだけのつもりだった。なので、ここまで本格的な戦闘は予期していなかったのだ。
ヴァイスは少し離れたホテルの一室で通信やカメラなどの機器を操っているが、シャトンは何かあった際に逃走手段と経路の確保のために近くにいる。
いざとなればまたマンホールの中でもなんでも通るつもりだったが、目の前の相手をどうにかしないことにはその方法も使えない。
「これはこれは。その歳にしては素晴らしい使い手だ」
ティードルダムはアリスの放つ魔導を見てそう評価する。
――白兎と赤騎士がアリスの事を報告していなければ、彼にとってアリスは見た目そのままの七歳の子どもに過ぎない。
だがその小さな姿は、ティードルダムにとっては別の存在を想起させるものだったようだ。
「昔のチェシャ猫を思い出しますね」
「……」
『……』
通信機の向こうで会話を聞いているシャトンも黙り込む。
ティードルディー、ティードルダムのコンビは、シャトンとは古い知り合いらしい。
「だがもはや教団の魔導士として最高峰の地位は彼女ではなく私のもの。ティードルディーと共同研究だというのがムカつきますが――」
もはやアリスに向けた言葉ではないのだろう、眉を歪めながら話すティードルダムの言葉に一応耳を傾けながら、アリスは先程シャトンから聞いた言葉を思い出す。
『ティードルディーは、ティードルダムと言うもう一人の魔導士と一緒に術を使うの。性格は正反対と言えるけれど、同じ師について魔導を習った彼らの連携は強力よ』
二人揃わなければ実力を発揮できない魔導士。それが彼らの強味であり、弱味でもある。
「この禁呪に勝てる者はいない」
ティードルダムが術を放つ。
気持ちの悪い耳鳴りが続く中で、アリスはその術に翻弄される。
結界だ。自分は何かの結界の中に閉じ込められている。だが魔導は使える。術を封じられたわけではない。
ならば、この結界の意味はなんだ?
考えている間にも、ティードルダムの攻撃が迫る。
アリスは間一髪で躱しきることができたが、夜空を静かに切り裂く鎌鼬のような斬撃の威力に戦慄した。
ティードルダムの様子に変わったところはほとんどないのに、いきなり術の威力も精度もこれまでより増している。
「これだけの術を、予備動作もなしに?!」
『解析をかけるわ!』
シャトンは相手に見つからないよう気をつけながら、徐々にこちらに近づいてきている。魔導の解析は彼女に任せることにして、アリスはしばらく防御に専念することにした。
回避や魔導防壁による盾を駆使し、直撃を喰らわないよう逃げ回る。その合間に様子見の攻撃を放つが、こちらはやはり軽々と防がれてしまった。
「くっ」
「なかなかしぶといですねぇ……」
アリスの放った攻撃は相殺され、一方的な攻撃に晒される。このままではまずい。
「だが無駄な足掻きですよ。この結界の中では、私は無敵だ」
「無敵……?」
結界と、後に続いた現状の鍵になりそうな言葉に反応し、思わずアリスは鸚鵡返しにティードルダムの言葉を呟いた。
「世界は悪い夢の中にいるのですよ。だからどんな悪夢も、我ら不思議の国の住人の思い通り」
「……夢の中……?」
ティードルダムの台詞は額面通りに受け取れば意味不明だが、アリスはそれが魔導士特有の言い回しだと気づいた。
張られた用途不明の結界。
外界から遮断された檻の感覚。
結界を張る意図はいくつとなくあるが、この結界は彼の言い様からして、術者の力を高めるはずのものなのだろう。
同じ結界の中にいればその効果はアリスにも作用するはずだ。自分が弱体化した覚えがないのだから相手が強化されていると見るべきである。
『解析完了』
シャトンの報告とほぼ同時に、ティードルダムは自らの術を解説し始める。
その油断が命取りになることを、彼は知らない。
『この術は、結界内の人間の想像力の具現化を補助するものよ。勿論魔導構成の製作も捗る』
「この術は、私の力を際限なく引き出してくれるのですよ。想像の翼が現実にあと一歩届かないとして、やむなく廃棄となった数々の魔導構成を復活させてやれる」
『一種の自己暗示力強化とも言えるけれど、元々己の魂の中から力を取り出す魔導士にとっては、絶大な威力を発揮するわ』
「外の世界では危険すぎると発動を制限された禁呪も、己の力では使いこなせないと断言された高度な術の利用も思うままだ」
代わる代わる耳に届く声が、アリスに一つの可能性を思い起こさせた。
ティードルダムが歌うように呟く。
「ここは夢の世界。だからなんでも思い通り」
「……ここが夢の世界なら、想像力の豊かな子どもの方が有利じゃない?」
膝にぐっと力を入れて立ったアリスはそう尋ねる。
「残念ですが、それは外れだ。子どもの思考力にはね、成長段階というものがあるのですよ。荒唐無稽な思い付きと、段階をきちんとイメージした想像力とは違うのです」
それはアリスも知っている。確か保健体育の授業だったかそれとも家庭科か。子どもの思考力の発達について習ったことがある。立体を描く能力には段階的なものがあるという話だったか。
知らないものは信じられない。
知っているものしか信じない。
「諦めなさい。夜は大人の時間。子どもは大人に敵わない」
「それはどうかな?」
ティードルダムが一つ知らないことがある。アリスは本当の子どもではない。
ここが夢の中だと言うのなら。
想像を現実に創造すると言うのなら。
アリスには何よりも確かな「事実」でありながら、今は「現実」になっていない想像がある。
壊れた時の鏡の向こうを思い起こす。
考えるより先に、アリスはそれを知っている。
「思い願った通りになるのなら……俺が、思い願った姿になれるというなら……!」
その術は、魔導の効果は結界内に存在する全ての魔導士に反映されるのだ。
「……何? なんだ、貴様、その姿は……ッ!?」
腕が脚が身長が、見る間に伸びていく。骨格、筋肉、それを動かす神経も全て、己の意志に従って姿を変えよとアリスは魂に命じる。
落ちた月光の作る影が、急に大きくなった。そこにいるのはもはや、小さな子どもではない。
「さぁ、第二ラウンドを始めようぜ!」
十七歳のアリスト=レーヌが言った。