第4章 いつか蝶になる夢
16.さなぎの見る夢 094
腕を撃たれたダイナは、病院で治療を受け、念のため一晩泊まることになった。
「ごめんなさい。俺のせいで」
しょげ返るアリスに彼女は言う。
「いいのよ。アリス君はまだ子どもだもの」
慰めの言葉は、アリスの胸に突き刺さった。
隣にいるシャトンが気遣わしげに視線を向けてくる。
「自分にできることをする姿勢は大事だけれど、それでも無理はしないでね。あなたぐらいの年頃なら、まだまだ大人に守られていていいのよ」
ダイナにとっては労わる台詞でも、本来は七歳の子どもではないアリスにとっては辛い。
これが現実なのだ。これが今の自分なのだ。無力な子どもでしかない。ただ大人に守られることしかできない。
それでも十七歳のアリストとしての知識があれば、普通の子どもよりは役に立てると思っていた。
だが結果はどうだ。最後に帝都に仕掛けられた三つの爆弾を止めたのはエラフィたち。テラスとシャトンはそれを手伝いに行き、カナールたちは怪我をしたダイナの様子を見るために残った。けれどアリスは……。
アリスは、あの時動けなかった。
ダイナが自分を庇って怪我をしたことに動揺し、咄嗟に的確な行動がとれるような状態ではなかったのだ。
そして自分が呆然としている間に、仲間たちは全てを終えていた。
あの時、一番役に立たない「子ども」は他でもない自分だったのだ。
ダイナの病室を辞して歩き出したところで、シャトンが尋ねてくる。
「アリス……大丈夫?」
「平気……」
口ではそう告げ、確かに健康状態としては異常なかったものの、精神的にはとても元気だとは言い難い。
しょぼんとしながら病院の廊下を歩いていると、角の向こうから、見知った顔が現れた。
「あ、あなたたちまだいてくれたんだ」
「エラフィお姉さん」
エラフィはエラフィでほとんどの時間眠らされていたとは言うものの、ほぼ丸一日監禁されていて実は衰弱が激しかったらしい。植物園の爆弾を止めるために彼女得意の精密狙撃の腕を見せたものの、そこで限界だった。ダイナと同じく今日は一晩入院するとのことだ。
本人は元気だと言うものの、誘拐事件の被害者の容体を確認するのは当然のこと。被害者だったのだ、そう言えば。
睡蓮教団の下っ端である黒服の男たちは警察が引きずって行ったものの、肝心の今回の主犯は捕まらなかったそうだ。
今はヴェルムが事件について関係者――参考人として事情聴取を受けているところだ。彼もエラフィの次に疲れているだろうが、さすがに探偵としてそこをおざなりにするわけには行かないと言う。ヴァイスもそれに同伴していた。
他の生徒たちの事情聴取はちょうど土曜日で休日の明日になる。アリスたちも明日、警視庁に呼ばれている。
けれど今はその前に。
「ねぇ、ちょっと私と話さない?」
◆◆◆◆◆
病院内の談話室で、三人は飲み物片手に向かい合った。時間が時間なので、事実上の貸切状態だ。
すれ違う看護師には良い顔をされなかったものの、事件の関係者だと言うことで一応は納得された。ここはつまり帝都の中でもそういう病院だということらしい。
アリスとシャトンはエラフィのおごりである缶ジュースに口をつける。
「今日は本当にありがとうね、二人共。疲れてない?」
「疲れてるけど、ある意味観光名所めぐりで意味のある疲労だから良かったわよ。思いがけず帝都の名物を堪能したわ」
「遺跡探索の時は、ほぼ強盗団との緊迫の追いかけっこに費やされたからな。自分たちの懐にお宝が入るわけでもないから、服を汚して帰っただけだし」
「あははははは。そっかそっか」
シャトンが正直な感想を口にし、アリスも一緒に頷くとエラフィは笑った。
単純な疲労度では、車移動のアリスたちよりもエラフィを救出するために電車と徒歩で帝都中駆けずり回った他の面々の方が大きいだろう。
「そうなの? 道理であのフートやギネカまで全員死にそうな顔してたワケだわ。うわぁ、みんなにも今度何か御礼しなきゃ」
「エラフィお姉さんは被害者なんだから、あまり気にしない方がいいよ」
「気にしないわよ、もちろん。御礼と言っても、金はヴェルムから出させるつもりだし」
ふふん、とピースを突きだすエラフィの不敵な笑みに、アリスとシャトンは危うくその場でひっくり返りそうになった。しかしその印象も、次の台詞で変わる。
「ま、そのくらいやった方が、ヴェルムも気が楽でしょうしね」
二人は思わずエラフィの横顔を見つめた。
「あいつみたいに貸しだの借りだのうるさい奴には、そのぐらいはっきり取りたててやった方が本人の気が軽くなるのよ」
「エラフィ――」
「私たち、ダイナ先生に怪我させちゃったしね。あなたも気にしてるんでしょ?」
エラフィはシャトンではなく、アリスに視線を向けた。
「私のせいにしていいんだよ。私にもっと、自分の身を自分で守れるだけの力があれば――」
「違う!」
エラフィの言葉を、アリスは中途で遮った。
「俺が、俺が悪かったんだ! 俺が力不足だったんだよ! もっと大人なら、みんな守り切って、傷つけさせたりしないで――」
「アリス」
「そんなの無理よ」
それを止めようとしたシャトンの台詞を、今度はエラフィが遮る形となった。
子ども姿の二人が唖然とした顔で彼女を見つめる。
おいおい、さっきと言ってること違くない?
「無理でしょ? 一人で何もかも出来る訳ない。名探偵なんて持て囃されるヴェルムにだってできないのよ? 例えあんたがあと十年歳とって、世界で一番有能な魔法使いだったとしても、あの場面ではできることが限られているわ」
例えアリス=アンファントリーではなく、アリスト=レーヌの姿だったとしても。
「ヴェルムを助けてくれてありがとう。あんたはあいつを支えてくれた。あいつにできないことをしてくれた。その代わり、あんたも自分にできないことは、他の誰かにしてもらえばいいじゃない。世界ってそう言うものじゃないの?」
「……もしかしてさっきも、最初からそれ言いかけた?」
「あんたがもっと単純な子だったら、私のせいにしとけ! 私もヴェルムのせいにしとくから! で済ませるところだったんだけどね」
見くびっていたわけではないが、予想外だったとエラフィは告げる。
だから、「本当の」本音を吐露することにしたのだと。
嘘をついているわけではない。でも皆何かを隠している。それを止めて晒して見る。一切の気遣いも理性的な判断も剥ぎ取った、純粋な本心を。
「私は昔、ヴェルムにそれを言いたかったけれど、上手く伝えられなかった。そして、もう決して届かない」
「そんなことは――」
「あるのよ。あんただって今、あたしの口から聞いたから半分受け入れたけど、ダイナ先生から同じこと言われたらどうする?」
「っ……!」
「ほらね。口では良い子のフリで頷いても、心の中では自分自身を責め続けるでしょ? それじゃ意味がないよ」
守り守られるなんて言葉は、自分と相手が対等でなければ成り立たない。
相手が自分を一方的に守らなければならないなどと考えているなら、それはただのお荷物だ。
エラフィはヴェルムにとって、これからもただのお荷物にしかなれないのだろうか。
「ただの幼馴染の私の言葉じゃヴェルムを一々納得させるのは難しいけれど、あんたたちの言葉はあいつの中にしっかり届くみたい」
ならば、もっとヴェルムに対等な目線で力を貸すことのできる――本当の友人は一体誰なんだろう。
「だからさ……あいつのこと、よろしく。ギネカたちが言ってた通り、二人共本当に頼りになるんだもの。あいつの周りに今、そういう人間がいてくれて、良かった」
その答は、今目の前にいる、この小さな子どもたちなのかしれない。エラフィにはようやくそう思えた。
「エラフィお姉さんは、ずっとヴェルムのこと心配してたんだね」
「そりゃまー、あいつがただのちょっと頭いいガキだった頃から知ってるんだもんよ。なまじ私の周囲には今もフートや、あー、帝都にはいないらしいけどアリストみたいな奴がいるし」
自分の名前を出されて一瞬どきりとするが、すぐに平静になる。
「私からしてみれば、フートやアリストとヴェルムは何ら変わらないただの男子高生。なのにヴェルムはそういう青春全部棒に振って、危険な探偵業に生きるために、昔の友達とみんな縁切っちゃった。一生を復讐に捧げるつもりでもないだろうに、終わった時どうするつもりなのかしら」
「終わった時……」
「あいつ、帰る家がないのよ。正確には、家はあるけど家族がいないのよ。復讐が終わったら、本当にやることも迎えてくれる人も……って、あ」
幼馴染の事情を滔々と話し続けていたエラフィは、伝え聞いたアリスたちの事情を思い出してしまったという顔になる。
「ごめん、あなたたちも今、事情があってヴァイス先生のところに預けられてるって」
「いや、いるよ」
アリスは今度はエラフィを安心させる意味で、見当違いの気遣いの言葉を遮った。
「今は事情があって離れて暮らしてるんだけど、俺には姉さんが一人いる」
帰る場所ならある。ちゃんとある。
「全部終わったら、俺も家に帰って姉さんと暮らせるようになるんだ」
「……そっか。じゃあ、早くその事情が良くなるといいね」
「あ、でもシャトンは――」
「私にもいるわよ、姉さん」
「え、いるの?!」
「正確には血の繋がった実の姉じゃないけどね……前に言ったわよ」
「そ、そうだっけ」
「なんだ、二人共ちゃんと、帰る場所があるんだね。安心したわ」
エラフィのほっとした顔を見て、ふとアリスはあることを思い出した。
「そう言えば、ヴェルムって恋人いるんじゃないの?」
「何?! あ、いや待てよ! そう言えば私もこの前、あいつのマンションの下で物静かそうな美人を見たんだった! この話まだヴェルムに聞いてない!」
今度絶対追求しなきゃ、とエラフィが目を輝かせる。
そうして真面目な話に一区切りがついたところで、ちょうど携帯に連絡が入った。
「あ、ヴァイスからだ」
警察での事情聴取を簡単に終えて、アリスたちを迎えに来たのだ。
「もうそんな時間? 長々と引き留めてごめんね」
「ううん。俺たちもヴァイスが迎えに来るまで暇だったから」
「じゃあ、私も病室に戻るわ。またね。どうせ明日……っていうかもう今日だけど、警察の方で会うだろうし」
エラフィは病院の玄関口まで二人を送ってから、ヴァイスの車が来たところで中へ戻っていく。
「なぁ、シャトン。……ドロシーは家に帰れたんだよな」
ヴァイスのマンションへと戻る車の中。今日一日彼らを振り回した暗号のちなんだ物語。その主人公の名前を口にして、アリスはなんとなくシャトンに尋ねてみる。
「そうよ。南の良い魔女グリンダのおかげでね」
「俺たちも帰れるかな」
シャトンは一瞬だけ考え、こう口にした。
「……『不思議の国のアリス』のアリスは夢から覚めて姉のもとに、『オズの魔法使い』のドロシーは彼女自身の足下にあった銀の靴の力を使ってカンザスに、それぞれ帰ったわ。だから私たちもきっと……」
二人は車の中から、窓の外を行き過ぎる明け始めの空の星を見上げた。