第5章 パイ泥棒の言い分
17.ジャックの予告状 097
先日のエラフィ誘拐事件が解決して平穏を取り戻したある日の夜。
「最近、ダイナお姉さんよく出かけてるね」
ヴァイスとアリス、シャトンの住むルイツァーリ家では、隣人であり夕食を差し入れてくれたダイナ=レーヌを加えて四人で食事をしていた。
「そう? 確かに、ここ最近友人と会う回数が増えたからよく外食してるかも」
「友人?」
「ええ。学生時代からの。久しぶりに会いたくなって」
ダイナは寂しいのだろうか。弟のアリストがいなくなって家に一人きり。こうして隣家を訪れればヴァイスもアリスもシャトンもいるが、彼女にとって家族である「アリスト」と何日も顔を合わせていないこの状況だ。
本来の自分を偽っているアリスは、そんな風に考えて複雑な表情になる。
「あら、アリス君がそんな顔をする必要ないのよ」
「でも」
「私が、アリストがいなくて寂しがってると思ったのね」
「う……いや、その……」
考えていたことをしっかり当てられて、アリスは途端に慌てだす。しかし、次のダイナの台詞は意外なものだった。
「確かにアリストと何日も顔を合わせていないことは寂しいし、心配にもなるわ。でも大丈夫よ。 会いたい気持ちはともかく、アリス君やシャトンさん、ルイツァーリ先生のおかげで寂しくはなっていないから」
「そ、そう?」
ここで全然平気と答えられたらアリストでもある身としては自分がいなくても姉はまったく平気なのかと複雑な気分になるところだったので、そのどちらをも考慮したダイナの絶妙な回答にアリスはほっと息を吐く。
「問題は、友人本人と私の関係そのものになるのよ」
一方、ダイナは溜息を吐いた。まるで困った相手だと言うように。
「なんだ? 何かあるのか?」
「借金とか恋愛問題とか宗教勧誘とか」
「ありません。と言うかシャトンさんはどこでそんな言葉を……」
七歳児とは思えない発言をするシャトンに、ダイナは呆れ半分笑い半分の顔を向けた。
「腐れ縁の古い友人なのよ。お互いの良い所も悪い所もきっと一番よく知ってる。だからこそ、色々と考えてしまうの」
具体的な説明はなかったが、とにかくその友人に何かがあるのは事実らしい。
「その……友人とは、女性……でいいのだよな」
「ええ、そうです」
恐る恐る尋ねるヴァイスの言葉にも、ダイナは平然と頷く。
まさか元彼か何かではないかと勘繰っていたヴァイスは、相手が女性だと聞いて気を取り直したようだ。ダイナがそこまで気を配る相手が弟のアリスト以外にもいるというのは初耳だが、女性ならば構わない。
そんなヴァイスをアリスはアリスで睨み付ける。そもそもダイナの恋人でもないお前の口出す問題じゃないだろーが、と。
水面下でお互いの足を蹴り合う男どもは放っておいて、シャトンは今日の夕食の感想をダイナと話し出す。
その日も、彼らの認識ではまるで何事もなく過ぎていくただの一日でしかなかった。
◆◆◆◆◆
ダイナが帰った後、三人はなんとはなしに居間に集まってテレビを眺めていた。
しかしアリスは視線こそ画面に向いているものの、内容をしっかり見てはいなかった。
先日の事件から、物思いに耽ることが多くなっている。
今日もいつも通りだったダイナの笑顔。けれど先日の事件で彼女はアリスを庇って怪我を負った。
アリスだけではなくエラフィを庇ったのかもしれないが、それだってアリスがまずはエラフィを庇うつもりでそこにいたからだ。だから……結局はアリスのせいなのだ。
自分のせいで姉に怪我をさせてしまったことが、ずっとアリスの心に引っかかっている。
「早く……」
無意識の呟きが唇から漏れる。シャトンとヴァイスは気付いたが、テレビの音量を上げて気付かない振りをする。
早く、元の姿に戻らなければ。
戻りたいではなく、戻らなければいけない。悠長にしている時間はないのだ。
けれど、教団の手がかりは未だ以って増えてはいない。ヴェルムに復讐を果たそうとしたあの男は死んでしまった。
敵とはいえ死者を悼むよりも手がかりが消えてしまったことに苛立つ自分の心の醜さを自覚しながら、それでもこの気持ちを止められない。
早く、一刻も早く。
元の姿に戻らなければ。姉のもとへ。自分の家へ。
物理的にはこの家の隣室。壁一枚の距離が、今はあまりにも遠い。
ぐるぐると堂々巡りの考え事をするアリスの耳に、突然シャトンとヴァイスの驚きの声が突き刺さった。
「あ……!」
「おっ……!」
二人が注目していたのは、先程音量を上げたばかりのテレビの中だ。
「見ろ、アリスト。これだ」
「え?」
どこかで見たような姿の二人。夜を翔けるその存在たちが再び世間を熱狂させるニュースが、映し出されていた。
◆◆◆◆◆
とある隠れ家の一室で、フートは実に中途半端な格好で床に座り込み呟いた。
「やっぱりあいつ、アリストなんだよな……」
今の彼は黒いタキシードにマント、しかしシルクハットと仮面は外しているので、フート=マルティウスとも怪人マッドハッターとも言い難い様子である。
ポピー美術館の一件で、アリス=アンファントリーを名乗っているあの子どもが、実は自分の友人であるアリスト=レーヌが睡蓮教団の手によって禁呪をかけられ、時を盗まれた姿だと判明した。
そして彼が、世間を騒がす怪人マッドハッターの正体がフート=マルティウスと知らずに打倒教団のための同盟を持ちかけてきたことにより、ここしばらくフートは自分の立場に悩み続けていた。
アリスは怪人マッドハッターに自分の正体――アリスト=レーヌであることを明かした。
だが怪人マッドハッターがその正体を――フート=マルティウスであることを明かすことはできない。
「駄目よ、フート。怪人マッドハッターの正体は明かせない」
幼馴染にして怪人マッドハッターの共犯者、ムース=シュラーフェンは悲しそうに諭す。
「私たち……犯罪者なのよ」
「ああ、そうだ」
同じように姿を偽っていても、フートとアリストの立場は同じではない。
アリスト=レーヌは完全なる被害者だ。時を盗まれた姿で名を偽り生活しているのは、そうするより他に方法がないから。しかしフートは違う。
フート=マルティウスは、自ら望んで怪人マッドハッターとなった。行方不明の兄ザーイエッツを探すために、望んで窃盗犯となる道を選んだのだ。
誰が友人に告げられるのだろう。――自分は犯罪者なのだと。
肉体的に誰かを傷つけたことはない。人を手にかけたり血を流させたりはしていない。
それでも“魂の欠片”を集めるために多くの品を盗み、誰かの心を傷つけてきた。
「でも……あれはアリストなんだ」
「そのようね」
先日のエラフィ誘拐事件を小等部の面々と共に解決したことにより、フートの中では今までよりその実感が強くなってきた。
姿が変わっても、あれはアリストだ。時を盗まれて子どもの姿になったことは、アリストの本質を変えるものではなかった。
周囲の子どもたちも勇敢なので森に木の葉を隠すように紛れてはいるが、それでもアリストを知っている人間にはわかる。
「嬉しいのに哀しいな。俺は友人に、本当のことを言えない」
「……わかっていたはずでしょう。アリスト君だけじゃないわ。私たちはレント君にもエラフィさんにもヴェイツェ君にもギネカさんにも……ヴァイス先生にもダイナ先生にも、本当のことは言えない」
怪人が帝都の闇から姿を消すその日まで、お互い以外には一生誰にも言えない秘密。
「でも……俺はこの姿でなら、アリストを助けることができるかもしれない」
「フート」
「どうせ敵は同じ、睡蓮教団なんだ。正体を明かさないという条件付きでなら、手を組んでみてもいいかもな」
ムースが困った顔になる。
「私は……反対だわ」
俯いて遠慮がちに、けれど正直な気持ちを彼女は告白した。
「アリストは今、子どもの体なのよ。私たちがいつもと同じような感覚で動いたら、逆に危険な目に遭わせることになりそうで」
フートはハッとする。確かに、前回の誘拐事件の時も、子どものアリスは最終的に自分の身を守りきれずにダイナに庇われていた。
「それに……接触を持てば持つほど、正体に気づかれる可能性も高まる。ここでバレたら……ザーイを探すことができなくなるわ」
「ムース」
「実際にマッドハッターとして動いているのはあなたなのだから、最終的にはフートの決定に従うけれど」
「……」
「――ごめんなさい。それより次の仕事の話よね」
「そうだな。レントのおかげでせっかく正々堂々と正面から宝石展に行ける機会があるんだから……」
先日、誘拐事件の報が飛び込んでくる前にしていた話だ。友人でどうやら親が富豪らしいレント=ターイルの好意により、フートたちを含む高等部と小等部の生徒たちに宝石展のチケットを渡してくれたのだ。
言いながらフートは口ごもる。
自分は今だってこうして友人を利用している。
そんな人間が、本当に誰かを救うことなんてできるのだろうか。
アリストの力になってやりたいのは確かだ。だが自分にそれができるのだろうか。
迷いは晴れない。道は拓けない。
怪盗が正しい道を探すこと自体が間違いであると言われたら、フートには反論できない。
けれど――。
「え? えええええ?!」
突然ムースの驚愕の叫びが耳に刺さり、フートは怪訝な顔で振り返った。
「なんだよいきなり」
「驚きもするわよ! これ見て!」
そして彼女はニュース画面にフートの顔を押し付け、内容を理解したフートも次の瞬間同じように叫ぶことになったのだった。