第5章 パイ泥棒の言い分
18.料理女の選択 103
日曜の夜、ニュースではハンプティ・ダンプティによる新たな殺人事件の報道がされている。
しかし本日の多くの帝都民の興味は殺人犯よりも、怪盗二人の競演にあった。
民衆は熱狂する。
その熱狂の裏側で流される、どこかの誰かの血と涙には気付かないまま。
◆◆◆◆◆
怪盗ジャックは律儀に予告時間を先に出された怪人マッドハッターの都合に合わせたので、その日帝国立博物館には同じ時間に二人の怪盗が姿を現すことになった。
これまでも帝都の二大怪盗として名を挙げられていた二人だが、実際にこうして同じ場所に並ぶのは初めてだ。
駅の時計台の針が午後十時を打ち鳴らすと同時に、二人は帝国立博物館の屋上へと姿を現した。
示し合わせたように屋上の二カ所で小さな爆発が上がり、その煙の中から黒いマントにシルクハットの怪人と、白い騎士服の怪盗が登場する。
そして次の瞬間、空に派手な花火が次々と打ち上がった。
「……なぁ、シャトン。これどっちだと思う?」
「ジャックでしょう。あの人、怪人マッドハッターを使って何かするつもりらしいし」
アリスとシャトン、そしてヴァイスの三人はいつの間にかマンションに届けられていた怪盗ジャックの手紙により、今日の彼らの犯行を見に来ていた。
藍色の夜空に色とりどりの光の花が咲き、人々の目を惹く。
屋上では二人の怪盗が睨み合っている。どちらも余裕の態度は崩しはしない。
今回の盗みは怪盗ジャックから怪人マッドハッターへの挑戦状だと言われている。
果たしてどちらの怪盗が勝つのか。民衆の興味はそこに向けられていた。
◆◆◆◆◆
突然の花火に度肝を抜かれたのは、観衆だけでなくマッドハッターも同じだった。
自分が博物館の屋上に出現したのと同時刻、怪盗ジャックもまた姿を現す。その瞬間、色とりどりの花火が一斉に打ち上がったのだ。
人々の目は全て、夜空に浮かぶ鮮やかな火の芸術に釘づけになっている。
展示場の中では警部たちが苦虫を噛み潰したような顔をして怪盗を捕らえようと動き出しているに違いない。
「御機嫌よう“帽子屋”殿」
「……“パイ泥棒のジャック”」
まったくご機嫌よろしくないマッドハッターは、仮面の下で頬を引きつらせる。
二人は怪盗としての通称ではなく、不思議の国の住人としてのコードネームで呼び合った。
「お前の目的は一体なんだ? わざわざ人の仕事に横槍入れてきやがって、俺に何の用がある」
観衆や警察の前でならともかく、同じ穴の貉の前でまで怪盗としての態度を取り繕う必要性は感じない。マッドハッターはほとんど素の口調に戻って問いかけた。
彼は前回のエラフィ誘拐事件の時、ヴェルムやアリスたちを手助けしてくれたと言う。
恐らく自分と同じように、睡蓮教団の敵対者として理由あって怪盗をしている人間だ。本物の悪人ではないだろうと思うのだが……。
「君を交えてぜひとも話をしたい相手がいましてね。同盟の提案をされたでしょう?」
「……コードネーム“アリス”」
「そう。我らが待ち望みし女王が、ついに現れた」
前回の事件で顔を合わせたと聞いた。
――それはつまり、アリスの事情がジャックにバレているということだったのか。
複雑な心境になりながら、マッドハッターは決めていた通りの言葉を返した。
「俺は他の誰かと手を組む気はない」
アリスたちにそう言ったように、“帽子屋”は再び申し出を拒絶する。
「自分の目的は自分で果たす」
誰の力も借りない。巻き込めない。そんなことができるはずがない。
「そうか。だが……」
「マッドハッター!」
給水タンクの下から呼ばれ、怪人は馴染みの警部を振り返った。
「貴様の悪事もこれまでだ! 怪盗ジャック共々、今日こそお縄にしてやる!」
怪人マッドハッター専任、コルウス=モンストルム警部だ。彼とその部下だけがこの屋上にやって来たと言うことは、恐らく怪盗ジャック専任のマレク警部は展示場だろう。
「おや、警察の皆様が御到着だ」
「無駄話をしている時間はないようだな」
怪盗が二人して盗みを放り出し話し込んでいるのも不自然だ。舞台も整ったことだし、と、ジャックとマッドハッターはついに動き出した。
◆◆◆◆◆
「しかし、今回は何故こんな時間なのだろうな」
帝都警察の捜査一課は、再び引き起こされたハンプティ・ダンプティの殺人事件の捜査に追われていた。
先週に一度犯行が途切れたのはなんだったのか。今週は週頭の日曜から犠牲者が出てしまった。
だが、不思議なのは検死により判明した被害者の死亡時刻だった。
ハンプティ・ダンプティの犯行はこれまでずっと真夜中に行われていたのに、今回は真昼間だ。
目撃者や犯人の手掛かりがないこと、現場にマザーグースの記されたカードが置かれていることは同じだが。
「と言っても、やっこさんには毎回律儀に形式を揃えて殺人をする目的なんかないんじゃないか? 以前はほら、一度に二人が殺されたし」
一晩に二人の死体、犯行が止んだ謎の数日、これまでと異なる犯行時刻。
ハンプティ・ダンプティはどういった思惑で動いているのか?
それとも世間が連続殺人鬼の犯行形式に推理小説のような演出や美学を求めているだけで、殺人鬼本人にはそのような思惑は一切ないのか?
これらの事情に関しては、帝都で名探偵と謳われるヴェルムを交えてさえ、いまだ答の出ない問いだった。
「エールーカ探偵、どう思う?」
「……今日、帝都では何がありましたっけ?」
「何、とは」
ヴェルムの曖昧な問いに、イスプラクトル警部は意図を計りかねる。
「今日と言えばあれですね、確か怪人マッドハッターと怪盗ジャックの対決があります」
若い刑事の一人が、警部と探偵の会話に口を挟んだ。ヴェルムはその答を待っていたと頷く。
「ハンプティ・ダンプティが何を優先し、どんな意図でこの連続殺人を引き起こしているのか、その思惑はまだわかりません。けれど彼の犯行の大部分にはこれまでも一定の法則性が見られる。ならばそれが崩れる時は、その法則性より更に優先される要因が潜んでいると考えられます」
「優先?」
「ええ」
「つまり今日は、怪盗二人の犯行があるからハンプティ・ダンプティの犯行時刻がずれたと?」
「その可能性はあります」
口にした若い刑事も周囲で聞いていた者たちも、呆気にとられた顔になる。
「でも、何故怪盗が盗みを働くと殺人の時間がずれこむのですか? まさかハンプティ・ダンプティもマッドハッターとジャックの犯行を野次馬に行きたかったとか?」
「それに関しては……まだ俺も根拠と言えるだけのものを固めていないので詳しくは話せません」
「そんな……ここまで来たらちょっとしたヒントだけでもー」
「やめろ」
若い刑事が食い下がるのを、イスプラクトル警部が止めた。
「どこでマスコミが嗅ぎつけてくるかもわからん。確実なことがわかるまで下手なことは言うな。俺たちもだ」
「わ、わかりました」
本日こそ怪盗の犯行が目晦ましになっているが、世間は一向に解決の様子を見せない連続殺人事件にぴりぴりしているのだ。現場には一刻も早い解決が求められている。
指揮を執るイスプラクトル警部の姿を眺めながら、ヴェルムはあることを考えていた。
ハンプティ・ダンプティはその名の通り不思議の国の住人。ならば先程の若い刑事が冗談として口にした通り、今日の犯行時刻がいつもと違ったのは、怪盗二人が顔を合わせるその時をハンプティ・ダンプティも待っていたからなのかも知れない。
怪盗に探偵、そして殺人鬼。自分たちは立場こそまるで違うものの、睡蓮教団の敵対者という大枠の括りは同じだ。
ハンプティ・ダンプティの目的が睡蓮教団への復讐ならば、教団や不思議の国の住人に関することがあればそちらを優先してもおかしくはない。
以前二人同時に死体が上がった時。殺された二人は怪人マッドハッターと因縁のある睡蓮教団員だと、直接彼らと対峙したアリスたちが教えてくれた。
そして犯行のなかった先週。
先週あった睡蓮教団絡みの出来事――それは、他でもないヴェルム自身が周囲を巻き込んだ、エラフィ誘拐事件。
「まさか」
ヴェルムは小さく呟く。不安を体の外側に吐きだしたい。けれど口にした言葉は、その想いとは裏腹にヴェルム自身をも刺すような痛みを伴った。
「まさか――」
ハンプティ・ダンプティの正体は――……。