第5章 パイ泥棒の言い分
18.料理女の選択 105
高い位置にある小さな窓から頼りない月の光だけが差し込む薄暗い倉庫の中。
見知った顔の突然の登場にマッドハッターが驚いている間に、怪盗ジャックがアリスと会話を始めていた。
「おや、いらっしゃいましたかアリス」
「俺を呼んだのはお前だろ、怪盗ジャック」
「確かにそうですが、こんなに早く、こんな場所まで来て頂けるとはね。……どうやって突き止めたのです?」
ジャックはアリスがここまでやってきたことにそれ程驚いている様子はない。けれど不思議に思っているのは確かなようで、まずはそれを尋ねる。
「ジャバウォックって奴からのヒントだって」
「“姿なき情報屋”……!」
名の通った不思議の国の住人でありながら、誰もその姿を知らない謎の存在。
年齢も性別もどのような組織に所属しているのかもまったくわからない。マッドハッターやジャックのような仮面を身に着けた姿すら人前には現さない。
実はジャバウォックとは実体を持たないデータ上の存在ではないか、複数人が作り上げたネットワークの名前ではないかとまで疑われる、完全に正体不明の人物。
怪人マッドハッターは、これまで何度もジャバウォックに仕事を邪魔されている。
情報屋がマッドハッターに何の恨みを持つかわからないが、事あるごとに警察にマッドハッターが不利になる情報を流しているのだ。
一方、怪盗ジャックの方は。
「私も彼とは電話越しに幾度か話をしたものですが、あなたはそれ以上に気にいられているようですね」
「ええ?!」
驚くマッドハッターを横目に、ジャックは自分と情報屋の付き合いを簡単に説明する。
同じ怪盗であるにもかかわらず、情報屋ジャバウォックは怪盗ジャックには好意的なのだ。これまでも幾度か有利になる情報を流してもらったのだと言う。
「この差は一体何……?」
「え……ジャバウォックとか言う奴に何かやったの? マッドハッター」
「何もしてないぞ!」
妙な嫌疑をかけられそうになったマッドハッターは、思わずいつものテンションで反論する。
アリスはそれを受けてやはり怪人マッドハッターのこの態度はどこかで覚えがあるような気がすると考えた。
しかし正体を聞いても教えてくれるはずもない。ジャバウォックの話も後回しだ。
「怪盗ジャック、お前が今日俺を呼んだ目的は?」
「昨日お話しした通り、ちょっとした自己紹介ですよ。手を組むにしても、お互いのことを理解するための最低限の段取りは必要でしょう」
アリスがここまで来るとは、怪盗ジャックにとっても予想外だった。野次馬で溢れかえる博物館の外で派手な花火を上げる程度の予定が、どうやら事情が変わったらしい。
情報提供者であるジャバウォックの思惑はともかく、その情報によりここまでやってきたアリスは思った以上に強い関心を怪盗に抱いている。
「あなたは対睡蓮教団の同盟者として彼を選んだ。怪盗と言う立場なら私も彼も同じはず。ならば私にもその資格があると思ってもいいでしょう?」
「うん、まぁ、俺は気にしないんだけど」
アリスは気安く頷いた。自分にとってはそれはまったく問題ない。
ただ、最近は連続殺人の方を追っていて今日もこの場に来れなかったヴェルム辺りが聞けばなんと言うかはわからない。
ヴェルムは怪人マッドハッターには興味はないが、怪盗ジャックとは何度も対決し因縁ができている。
前回エラフィ誘拐事件でジャックの手を借りたことにより、少しでも蟠りが解けていればいいのだが……。
「……その宝石、ちゃんと返すんだよな」
頷きはしたものの一つだけ気になったことを確認する。
いくらこの怪盗二人が犯罪者の割に比較的穏健だとはいえ、誰かの大切な物を盗んで悲しませるのは頂けない。
「もちろん。彼もそうでしょう」
怪盗ジャックの手元で僅かな光をもきらきらと反射する宝石にアリスは目を留める。
後で返すなら持ち出していいと言う訳ではないが、永遠に戻さないよりはマシに思えてしまう。
「私が集めているのは“白い星”、彼が集めているのは“黒い星”」
「星?」
「魂の欠片をそう呼ぶのです。“白い星”は創造の魔術師“辰砂”を。“黒い星”は背徳と快楽の神“グラスヴェリア”を指します」
アリスよりもマッドハッターの方が驚いた様子でジャックを見つめる。
「私にとって、宝石や美術品は星をその中に宿す器に過ぎない。高価で美しい入れ物に用はありません。本当に盗み出しているのは、その中の“星”」
「だからいつも盗んだ品を後で返すのか。返すにも拘らず、“確かに頂戴いたしました”のコメント付きで」
「ふふ。その通り」
ジャックやマッドハッターが品物を返却する行動に関して、盗み自体をゲームとして楽しんでいるだのなんだの世間はあれこれ噂しているが、真相はそういうことだったらしい。
「あれ? でも……」
アリスはジャックの説明に疑問を感じ、問いを重ねる。
「マッドハッターが背徳神の魂を集めてるって言うのは、同じ目的の睡蓮教団に対抗するためだよな」
「……そうだな。大きな目的としてはそういうことになる」
自分より以前から呪われた品々を集めていた兄のことも思い浮かべつつ、マッドハッターは一応頷いた。
今のマッドハッター……フートが背徳神の魂の欠片を集めるのは、睡蓮教団に対抗する力を得るためで間違いない。しかし十年前、兄が実際どういうつもりで怪盗として活動していたのかは、本人でなければわからない。
「ジャックはなんで背徳神じゃなく、辰砂の魂を集めているんだ?」
「背徳神の力に対抗するには、辰砂の力を使うのが一番確実だからです。『黒い流れ星の神話』は御存知で?」
「うん、聞いた」
アリスはゲルトナーが教えてくれた話を思い出す。そう言えば確かに、この神話のタイトルも無数に散らばった背徳神の魂の欠片を“黒い”流れ“星”と言い表しているのだということに今更気づく。
「かつて背徳神の魂を己の魂ごと砕いたのは、人類最強の魔術師であった辰砂。他のどんな神々よりも、この辰砂が背徳神を倒すための鍵を握っている」
「背徳神を倒す……」
ジャックの言葉に違和感を覚えるが、咄嗟にそれを表現する言葉がうまく浮かばない。
そもそも倒すと言っても、睡蓮教団が復活させようとしているぐらいだからその神様はまだこの世界に存在していないと言えるのではないか?
しかしアリスの疑問をジャックは最初から予測していたようで、更に詳しい説明を加える。
「睡蓮教団との戦いと言うのは、要は背徳神の魂の欠片を持つ者との闘争なのですよ」
「魂の欠片を持つ者?」
アリスの周囲にもそういった者たちは多い。ヴァイスが睡蓮教団と敵対したのも元はそれが理由だ。
「ええ。教団があらゆる犯罪に手を染めながらも魂の欠片を集めているのは、所属する彼らの多くが魂の欠片を持つ人間だからです」
魂の欠片は、無機物だけではなく動植物や人間にも宿ることがあるのだ。そして背徳神や辰砂の魂の欠片を持つ人間は、普通の人間よりも優れた魔術の適性や高い身体能力を得る。
代わりに彼らは、魂の欠片が人格に影響するという代償を払わねばならない。
「ツィノーバーロート兄弟の作品のように、魂の欠片を宿す品々が持ち主を不幸にするのもそのためです。魂の欠片がそこにある以上、辰砂や背徳神の支配下から逃れられない」
自らを浸食し、やがては支配する邪神の記憶、想い、衝動。
「特に背徳神は、辰砂に魂を砕かれる直前に世界を滅ぼす邪神となったので、そのことが宿主に強く影響する。背徳神の欠片を持つ者は他の欠片に引かれる。そして元の一つの神に戻りたがる」
「戻りたがるって……」
「欠片同士が引き合うのですよ。自らの意志を強く持っていれば呑みこまれることはありませんがね」
それでも元の一つの形に戻りたがる黒い星は、宿主に様々な不幸をもたらし、狂気を植え付ける。
「睡蓮教団は、背徳神を崇める。彼らは魂の欠片を得ることをむしろ幸運と喜び、喪われた邪神を取り戻すために魂の欠片を集めるのです。彼らが魂の欠片を集め続けるのであれば、こちらも彼らに対抗するためには欠片を持つ人間が必要になる」
「辰砂の魂でもいいの?」
「ええ。背徳神と同じ力にせよ、創造の魔術師辰砂の力にせよ、欠片に対抗する強大な力であることは変わりませんから」
怪盗たちの盗みの理由。
帝都の夜に人知れず繰り広げられる戦い。
人を傷つけてでも己の願いを叶えようと、狂った信仰を掲げる宗教団体。
色々な事情を説明されてそのいくつかには納得し、それでもまだアリスにはわからないことばかりだった。
「睡蓮教団は、どうしてそこまでして背徳神を取り戻したがるんだ? 世界を壊そうとした邪神なんだろ?」
「それは……」
『ジャック!』
通信機器から漏れた女の声が、アリスやマッドハッターの耳にさえ飛び込んで来た。
ジャックに“料理女”からの通信が入ったのとほとんど同じタイミングで、マッドハッターにも相棒の“眠り鼠”が警告をとばしてくる。
「隠れて!」
怪盗ジャックは咄嗟にアリスを物陰の方へと押し遣る。
「理由なんかないね」
それが間に合ったかどうかのタイミングで、男の声が倉庫の入り口からかけられた。
「我らが神を崇めるのに、理由なんてないさ」
睡蓮教団の人間が、姿を現す――。