第5章 パイ泥棒の言い分
18.料理女の選択 106
暗い倉庫の中。黒服を率いる先頭の男は、一人だけ格好が違った。この男がこの集団のボスなのだろう。
年齢は三十手前と言ったところで、薄い紫の髪に紅い瞳の一見優男。しかし彼の瞳は、穏やかな表情とは裏腹に酷く酷薄だ。
「やぁ、怪盗諸君。今日は良い夜だね」
「……睡蓮教団幹部の一人、“ハートの王”」
怪盗ジャックの言葉に、物陰に隠れたアリスの背に緊張が走る。
ハートの王はジャックにとって因縁の相手だ。
「今日は怪人マッドハッターと一緒かい? 世間では怪盗のライバルなんて呼ばれているのに、手を組もうとするとは意外だな」
ジャックが咄嗟に物陰に押し込んだのが功を奏したらしく、彼らはアリスの存在には気づいていないようだ。
「世間の評価は存じませんが、少なくとも私にとっての敵は彼ではない」
怪盗ジャックは仮面の下でもわかる強い眼光でもって、ハートの王を睨み付けた。
「お前たちの方だ」
「奇遇だね。私たちにとっても、お前たち二人のどちらもが忌々しい敵さ」
睡蓮教団に対抗するため辰砂の魂の欠片を集める怪盗ジャックも、睡蓮教団が求める背徳神の魂の欠片を横取りする怪人マッドハッターも。
「怪人マッドハッター。そろそろ教団もお前の存在を捨て置けなくなってきたんだ」
「……それで先日は“ティードルダム”と“ティードルディー”の二人を送り込んできたのだと?」
マッドハッターは、前回の襲撃者について口にする。
この二人は彼らと対峙したその後、ハンプティ・ダンプティに殺されている。そのために様々なことが有耶無耶になった。
「ああ、そうだ。何せお前ときたら、私たちが可能な限り穏便に手に入れようとした絵画や美術品を、片っ端から予告状を出して盗んでしまう。わざわざ業界に手下を潜り込ませて買収しようとした我らの努力をいくつもふいにしてくれた」
「……」
「随分楽をしているな、犯罪者。目的のものを手に入れるのに盗みという手段を選ぶなどと。正義面しておきながら、お前たちと我々は何も変わらない」
ハートの王の言葉が、フートがいつも抱え込んでいる罪悪感を刺激する。しかし。
「穏便? 笑わせるな」
黙り込むマッドハッターに代わり口を挟んだのは、横で会話を聞いていた怪盗ジャックだった。
「十年前、怪人マッドハッターが品物を盗まなければ、お前たちは“黒い星”の器の持ち主を何人殺していた?」
「!」
その言葉を聞いて、マッドハッター……フートの背に電流が走った。
「今では大物ぶっているお前たち睡蓮教団も、十年前は“白の騎士”によって壊滅寸前に追い込まれるような小集団に過ぎなかった。星を手に入れるための強硬策として強盗も殺人も辞さなかったお前たちの脅威から器の持ち主を守るために、怪人マッドハッターは生まれたんだろう」
まるで事実のように語る怪盗ジャックの様子に、ハートの王が警戒を露わにする。
「貴様……十年前には活動していなかった怪盗が、何故そんなことを知っている?」
「私が十歳に見えるのかい? 怪盗として活動していなくても、この世に存在しているからには情報収集の一つくらいするものさ」
十年前に一度世間に姿を現したという意味では怪人マッドハッターの方が古株だが、この五年間ずっと帝都で活動を続けていたという意味では怪盗ジャックの方が年季が入っている。
「情報……そうか、貴様は確か“姿なき情報屋ジャバウォック”と繋がりがあるんだったな」
「さてね」
その通りジャバウォックからの情報提供でマッドハッターの事情を聞いていた怪盗ジャックは、口元に不敵な笑みを湛えたままお茶を濁す。
ハートの王は察しが良過ぎる。
ジャバウォックには悪いが、ここでジャバウォック以外のルートを探られると他の人間に危険が迫るかもしれないのが悩ましいところだ。
「……今日は本当にいい夜だ。殺したい相手が二人、丁度揃っているなんて」
くくっと笑いながら、ハートの王は言った。
「怪盗ジャック、怪人マッドハッター。お前たち二人とも、我ら睡蓮教団の悲願のためには邪魔な存在だ」
「俺にとっては、教団の存在が人生においての邪魔だ」
怪盗ジャックが言い返す。
隣に立つ怪人マッドハッターも、物陰で息を殺して会話を聞いているアリスも、その声音と口調に怪盗ジャックが教団へ激しい憎しみを抱いていることを感じた。
怪盗ジャックは五年前から帝都を騒がせる怪盗。夜目に鮮やかな白い騎士装束と“パイ泥棒”という茶目っ気のある名乗り、派手な演出。
泥棒と言うよりエンターテイナーのように親しまれている存在。
けれど彼はその陽気な役者の仮面の下に、教団への憎悪と彼らを倒す意志を秘めていたのだ。もう何年も。
アリスにはアリスの事情がある。怪人マッドハッターも複雑な理由があって盗みを働いていたことが、先程のジャックの話でわかった。
そして怪盗ジャックは、本気で睡蓮教団の敵対者として行動しようとしている。
だからアリスは――懐に隠していた魔道具の懐中時計に触れた。
「今日こそ決着をつけようか。怪盗ジャック! マッドハッター!」
ハートの王が銃を取り出す。ティードルダムとティードルディーたちのように、怪盗二人を殺すつもりなのだ。
次の瞬間、アリス――否、アリストはこれまで隠れていた物陰に詰まれていた箱の山を、思い切り蹴り倒す。
「なんだ?!」
教団員たちに一瞬の混乱が起こった。けれど二人の怪盗にとっては、その一瞬だけで十分なのだ。
彼らは教団員たちの手元の銃を、それぞれの得物で次々と弾き飛ばす。怪人マッドハッターは先程も使用していた鞭、ジャックはサーカス団員が見世物に使う投げナイフだ。
そして、シャトンとヴァイスが用意した、数分だけ元の姿に戻れる時計の力を使って十七歳の姿に戻ったアリストは、巻き起こった砂埃が煙幕となっている中、あえて人影を見せるように倉庫から脱出した。
「くそ! まだ仲間がいたのか?! C班はあいつを追え!」
「ア――」
咄嗟にアリスの名を呼びかけた怪人マッドハッターが慌てて口を噤む。彼の素性を睡蓮教団に知られてはならない。
「やれやれ。早速貸しを返されましたか」
男たちの一部がアリストを追って行ったことで、怪盗たちの方の敵が減った。エラフィ誘拐事件で作った貸しを返された形になるジャックが溜息をつく。
「言ってる場合か! どうすんだよ、あいつの方が――」
「彼なら大丈夫」
アリストの身を案じて慌てだすマッドハッターに、ジャックは確信を持つ口調で告げる。
「私の相棒がすでに動いている」