第5章 パイ泥棒の言い分
18.料理女の選択 107
咄嗟に元の姿に戻って倉庫を飛び出したはいいものの、この後が続かない。
まだ距離はあるものの、背後から追手の気配がアリストに迫ってくる。
どこまでも似たような景色が続く夜の倉庫街。手近な隠れ場所は、どうせ向こうからも見つけやすい。
「こっちよ!」
次の行動をどうすべきか迷ったところで、女の声に呼ばれた。
「誰だ!」
「私は“料理女”、“パイ泥棒のジャック”の相棒よ」
振り返った先で、手近な倉庫の上から一人の女が身軽く飛び降りてくる。
この夜目にも目立つ料理人風の白い衣装で、ジャックと同じように仮面で顔を隠していた。女と言うよりも、まだ十代の少女と言った方が正しい体つきと雰囲気。
そう言えば先程ジャックに入った通信で聞いた声のような気がする。
……というより、この声はまさか――。
「その姿でいるにも、もう時間がないでしょう? 事情は後で説明するわ!」
「……わかった!」
料理女の先導で、アリストは走る。その方角にあるものを頭の中に広げた地図で確認し、彼女が何処に向かおうとしているかわかった。
逃げる訳ではない。行く手に選んでいるのは、もっと戦いやすい地形だ。
「あいつらを倒すんでしょ?」
アリストの考えなどお見通しと言わんばかりの料理女に、力強く頷いて見せた。
「当然!」
あと数分で魔導の効果が切れる。
アリストは小さなアリスに戻ってしまう。
だからと言って、怪盗二人を殺すつもりの教団を野放しにしておくわけには行かない……!
『アリス』
「シャトン、お前は来るな!」
前回ティードルダムとティードルディーに顔を見られたシャトンは、今回は最初から姿を見せない予定だった。けれどアリスが身に着けた通信機から、現場の音は全て聞いている。
『白騎士と今そっちに向かってるわ。いつでも退避できる手段は確保しておくから、存分にやって!』
「助かる!」
子どものアリスの力では、周囲のサポートがなければ睡蓮教団に立ち向かうのは無茶だ。今日は相手が怪盗たちであったのでシャトンやヴァイスは裏方に回っていたが、連携は密にとっていた。
無事に目的地に辿り着いた途端、魔導の効果が切れる。
「これを」
十七歳のアリストから七歳の子どもの姿に戻ってしまったアリスに、料理女が一枚の仮面を差し出した。
怪盗ジャックやマッドハッターが身に着ける白い仮面とは違い、その仮面は黒に金色の模様が描かれ、青い石が収まっている。
アリスの瞳のように青い宝石は、目元から流れる涙のような形をしていた。
「いくらなんでも顔を晒すわけにはいかないでしょう。ティードルダムたちの時のように、いつも情報を守れるとは限らない」
「気休め程度だろうけどな」
犯罪的宗教団体と対決するような七歳が何人もいるとは思えない。
この姿を目撃されてしまえば、睡蓮教団は早々にアリスを見つけることだろう。
しかし料理女はそれも大丈夫だと言った。
「いいえ。この仮面は特別なの。つければ今のあなたを大人の姿に見せてくれるわ」
「……それってどういう――」
「いたぞ!」
詳しい話を聞きたかったが、教団が追い付くのが早かった。
「さて、まずはここを切り抜けないとね。こんな相手にも勝てないようじゃ、睡蓮教団を倒すなんて無理だもの」
「……ああ」
色々と思うところはあるものの、アリスは料理女の言葉に頷いて魔導攻撃の構えをとった。
◆◆◆◆◆
「さっきの奴は何者だ?!」
「さあね! お前らの知ったことじゃないさ!」
倉庫の中では、怪盗ジャックと怪人マッドハッターがハートの王と交戦開始していた。
アリスのフォローには料理女が行った。そちらは相棒に任せ、ジャックはハートの王の相手に専念する。
周囲では怪人マッドハッターが他の睡蓮教団員を一人ずつ倒していた。こちらも任せても大丈夫だろう。
ハートの王以外は有象無象。簡単に決着がつくかと思ったが――。
「げっ!」
それまで危なげなく黒服の男たちを伸していたマッドハッターが声を上げる。
一人、レベルの違う相手がいるようだ。
「……お美しいご婦人。ひょっとしてあなたは教団の中でも幹部クラスなのではありませんか?」
「よくわかったな」
淡い金髪に青い瞳の、ハッとするほどに美しい女。だが彼女の美貌に見惚れる暇などありはしない。
女の得物は銃ではなくナイフだった。油断すればすぐに喉首を掻き切られる。
「私は“ニセウミガメ”」
「やはりコードネーム持ちでしたか。ですが私に教えてしまっていいのですか?」
「問題はないだろう。お前をここで殺せば済むことだ。それでここ十年、お前に邪魔され続けた団員の無念も晴れる」
ニセウミガメと名乗った女は、冷たさを感じる程に青い瞳でマッドハッターを睨み付けた。
「死んでもらうぞ、“帽子屋”」
宣告するなり、斬りかかってくる。その身体能力は普通の人間とは比べ物にならなかった。ジャックやマッドハッターにも匹敵する程だ。つまり。
「黒い星――」
「教団に集う者にも、相応の理由があるということだ」
さすがに幹部クラスにもなると、ジャックやマッドハッターのように魂の欠片を宿す者が多い。
「お前はティードルディーとティードルダムの仇だ」
「私が殺したわけじゃありませんって!」
不本意な仇認定にマッドハッターはほとんど素で叫ぶ。
彼らを殺したのは、連続殺人鬼ハンプティ・ダンプティだ。
他の敵対者たちと共闘するでもなく、睡蓮教団の人間をただ残虐に殺し続ける正体不明の殺人犯。
「同じことよ。教団の敵対者。お前たちが我々を殺す気で来るなら、我々もお前たちを殺さなければならない」
「仲間想いは結構ですが、先に仕掛けて来たのはあなた方であることをお忘れなく!」
マッドハッターは確かにティードルダムとティードルディーの二人に命を狙われたが、大事には至らなかった。彼らの様子からすると、兄のザーイエッツについてもほとんど何も知らないようだった。
だから本当はマッドハッターにしても、あの二人を恨む理由などない。
それでも彼がティードルダムとティードルディー、ハートの王やニセウミガメという睡蓮教団の人間を全員同じだと見るように、教団の方は教団の方で、ジャックもマッドハッターもハンプティ・ダンプティもジャバウォックも、皆同じだと考えているようだ。
そして誰かが傷つけられると、集団そのものに憎しみを向けてまた別の人間を傷つける。
終わることのない争いの連鎖。
では個人に憎しみを向ければいいのかと言えば、それはそれで違うと思う。
「くそっ……!」
ここにいるものは皆犯罪者で、同じ穴の貉だとハートの王は言った。
けれど、少なくともマッドハッターは憎い相手を全て殺すような、そんな終わり方は望んではいない。
怪盗を始めたのは、あくまで兄を取り戻したいからだ。
死による解決などまっぴらだ。
「!」
ニセウミガメのナイフを鞭で弾き飛ばそうとするが上手く行かない。小回りが利く得物の分、機動力は彼女の方がマッドハッターより高い。
「帽子屋!」
ニセウミガメの鋭い攻撃に追い詰められたところを、怪盗ジャックに救われる。
逆にその隙を狙って追撃をかけてきたハートの王の銃撃からは、マッドハッターがジャックを庇った。お互いの死角をカバーするよう背中合わせの形になる。
「無事か」
「そっちこそ」
一触即発の緊張は、まだ続くようだった。