第5章 パイ泥棒の言い分
20.揃わないピース 116
「……」
フートはぼーっとしていた。
「……ムース、あんたの幼馴染今日おかしくない?」
「……え? なんです?」
「うおお! 駄目だ! こっちもおかしい!」
エラフィは頭を抱える。フートはその叫びを遠く聞いて物思いに沈みこんでいた。
いつもと同じ、ジグラード学院の放課後。
いつも通りでないのは、そこにいるフートやムースたちの様子の方だ。二人してぼんやりと何かを考え込んでいる様子に、周囲でエラフィやレントが心配している。それさえも今の二人は気付いていない。
フートの悩みは、先日の邂逅で怪盗ジャックと料理女の正体を知ってしまったことだった。
小さなアリスがアリストだったというだけで驚きなのに、まさか料理女の正体がギネカで、怪盗ジャックは彼女の幼馴染のネイヴだったなんて。
みんなみんな正体を隠していたのだ。自分を偽って。
教団の犯罪に巻き込まれた形になるアリスはともかく、ギネカはフート側に近い。彼女たちもまた、フートとムースと同じように怪盗とその相棒として夜な夜な盗みを働いていたのだから。
……では、何故。
何故彼女は、アリスに真実を告げることができたのか。
何故自分は、それができなかったのか。
ギネカが意を決してアリスたちに正体を明かした時、フートは何もしなかった。怪人マッドハッターの正体もまた彼らの友人であるフート=マルティウスなのだとは、明かせなかった……。
知られることが怖かったのだ。
自分は友人に自らの罪を知られたくない弱さを、相手を巻き込みたくないという美しい理由にすり替えて逃げていたのだろうか。
幾度気分を切り替えようとしても、煩悶は気付くと心の隙間に忍び寄って繰り返される。
答の出ない問いではない、もう答の出てしまった、そして変えることのできないことばかりを繰り返す。
否。変えることができないと言うのもまた自分の思い込みではないのか。
本当は今からでも間に合うのではないか。
一言お前たちと手を組みたいと言えば、アリスたちは受け入れてくれると。
――駄目だ。
誰かが頭の内側で囁いている。
――駄目だよ。フート。
その誰かの声が、自分を引きとめる。
――だって君は……
そこまで言うなら最後まで言えよ。そう思うのに、声は中途半端なところまでしか教えてくれない。
どうして駄目なんだ。アリストだって、ギネカだって、ネイヴだってみんな裏の顔を持っているじゃないか。
シャトンの元の姿とは面識がなく、ヴァイスは自分が不思議の国の住人であることを隠していない。それでも信じている。
信じているのに、何故。
話せば彼らまでこの闇に引きずり込んでしまう、暗い予感が消えない。
「フート、あんた今日本当に変よ」
「大丈夫か?」
エラフィやレントが語りかけてくる。
「それとも何か落ち込むことでもあったの?」
高等部生たちにつられて子どもたちまで心配してフートを見上げてくる。
「え、兄ちゃん落ち込んでんのか? 俺のプリンやろうか?」
「大丈夫だよ、大丈夫。ありがとう、心配してくれて」
フートが言いかけた時だった。
「俺は大丈夫――」
「ごめん」
突然の謝罪に驚いて振り返ると、隣に座っていたヴェイツェが蒼白な顔で脂汗を浮かべている。
「……僕が駄目みたい」
「――って、ぇえ?! ヴェイツェ?!」
突然のことに、さすがのフートやムースも物思いから現実に引き戻された。 今にも倒れそうなヴェイツェの身体を支えて周囲の状況を確認する。
ここは一階の食堂だ。保健室はすぐそこである。
「ヴェイツェ! あんたまで体調不良?!」
「ほ、保健室! 保健室――!」
◆◆◆◆◆
「ああ、吃驚した。ヴェイツェの奴、何やせ我慢してるのよ。体調が悪いなら早く言えっての!」
突然倒れてしまったヴェイツェに大いに心配させられたエラフィがぷんすか怒りながら、保健室から食堂へ戻る道を歩く。
全員で狭い保健室に押しかけるのも何なので、あの場にいた人間の半分は留守番なのだ。今はギネカとレント、アリスとシャトンが様子を見ている。
残りの面々は交替で見舞いに行く予定だ。
「迂闊だったわ。ヴェイツェの連絡先を誰一人知らないなんて」
あまり具合が悪いようなら家族に迎えに来てもらった方がいいと養護教諭は言ったのだが、肝心のヴェイツェの自宅、アヴァール家の連絡先を友人一同が誰も知らないという事態が発覚。
職員室に連絡したところ、もしも本当に酷いようなら車通勤のヴァイスが送っていくということで決着したらしい。
食堂に戻ったエラフィとフートは、その旨を残った面々に連絡する。
「まぁ、ヴェイツェだって高校生にもなってるんだし、具合悪くして親に迎えに来てもらうなんてよっぽどでなければないだろ?」
「早く良くなるといいね、ヴェイツェお兄さん」
「きっと大丈夫よ」
「うん……」
それからまた雑談して時を過ごす。別に用事らしい用事はないのだが、ヴェイツェが目を覚ますまではなんとなく皆帰る気にはなれなかった。
「どうせなら、ちょっと早いけど夏休みの計画でも立てちゃう?」
「え?」
「これだけの人数がいるんだもん。直前になって色々予約とるの大変よ。だから今のうちにね」
「夏はどこか出かけるの?」
「みんなでか?」
「ええ。きっと楽しいわよ!」
エラフィと子どもたちが率先してあれこれと遊びの計画を立てる。
それも一段落した頃。
「そういえばさ」
エラフィがふと思い出したことを告げる。
「この前、街でフートのドッペルゲンガーを見かけたわよ」
「どっぺるげんがぁ?」
平穏な日常生活に馴染みのない単語に、フートは全部ひらがなで発音した。 自分と同じ顔をしたそれを見ると死ぬとか言うあれか。一体何の話だ。
「うん。まぁただのそっくりさんかもしれないけどね」
詳しく聞けばその時はフートがちょうど怪盗としての仕事の準備をしていた頃だ。その場所は帝国立博物館からは離れているので、フート本人のはずはない。
「エラフィさん……」
「ムース、あれがフートじゃないって言ったのあんたでしょ? 私たちはあれ、てっきりフートだと思って呼びかけたのよ。でも別人だって」
「別人? 俺に似た……」
フートはそこでハッと幼馴染を見る。
「俺に似てるって……まさかそれ、ザーイなんじゃ――!」
「私はそう思ったわ」
ムースの返答に、フートは椅子を蹴倒して立ち上がる。
「ってちょ、フート?!」
「フートお兄さん?!」
急に食堂を飛び出したフートに、友人一同は驚いた。
「どうしたのよあいつ」
嵐のように駆け去って行った後ろ姿を、エラフィたちは呆然と見送るしかできない。
「……」
あれはザーイエッツじゃない。ムースは以前も考えたことを、再び反芻する。
ザーイエッツは今年で二十七歳になるのだ。あんなに若い訳がない。
それにもしも生きていたら、彼はフートの前に現れるはずだ。
兄が戻って来ない限り、フートは怪盗をやめることができない。偽りの仮面を外せない。
ザーイエッツの存在はそれほどまでに深く、フートの心を縛っている。
兄が戻る場所が必要なら、自分は何一つ変わらない弟のままで待っていなければと……。
だから、フートはアリスや怪盗ジャックの手を取る訳にはいかないのだ。パイ泥棒の言い分を聞いて怪盗を行う理由に共感できても、誘いに頷くことができない。
冷静になったフートが戻って来るのを、ムースはただ待つことしかできなかった。