第5章 パイ泥棒の言い分
20.揃わないピース 118
――ある日のこと。研究室に教材を届けに行って、ダイナとたまたま二人きりになる機会のあったギネカは、思い切って彼女に尋ねてみた。
「あの……ダイナ先生」
「何? どうしたのマギラスさん」
「先生は……アリストを探しに行かないんですか?」
ギネカはどうしても、このことをダイナ本人に聞きたくて仕方がなかった。
アリス側の事情は理解している。姉が現在の自分の状況に興味を持たない方がアリスの本意だろう。
けれどギネカは、ダイナには常に、弟であるアリストを気にかけていて欲しかった。アリストにとって誰より大切な姉にとっても、弟を一番に思っていて欲しかった。
勝手な話だが……。
「あの子が……何か厄介事に巻き込まれているらしいこと?」
ダイナは美しい顔から表情を消して、静かに問い返す。
「!」
ギネカは目を瞠った。
「アリストからはメールが来るし、エールーカ探偵は近況を報告してくれる。でもどちらも、私に話せないことがあると隠しているのも感じ取れるわ」
「じゃあどうして……!」
自分は矛盾していると感じながら、ギネカは問わずにはいられない。
アリストが姉を巻き込みたくなくて隠していることを考えれば、ダイナには何も知らずに日常を過ごしてもらった方がいいのだ。間違ってもアリストを追うなんて考えさせてはいけない。
それなのに、アリストがあれだけ心を砕くたった一人の姉が、アリストのことを一番に考えて行動していないように見える現状に不満があるなんて。
「迎えに行くのも考えたけれど、あの子が自分で対処できることの内は、アリストを信じてみようと思うの。それがまず一つ」
「一つ?」
では他にも理由があると言うのか。弟の一大事にも動かない理由が。
「……もう一つは、あくまでも私自身の問題よ。私は今、この帝都でやらなければならないことがあるの」
「やらなければいけないこと?」
ダイナの身辺に、そのような問題があるのだろうか。学院で教師として見せる顔以外に彼女のことを知らないギネカには、まるで想像がつかない。
それが、アリストのことよりも優先させなければいけない問題だと言うのなら尚更だ。
「ええ。詳しくは話せないのだけれど……」
「そう……ですか……」
誰にだって事情はある。それはダイナも同じと言うことなのか。
……恐らくダイナも、本当はできることなら、すぐにでもアリストを探しに行きたいのだろう。
接触感応で心を読まなくても、それぐらいわかる。
それでも彼女は、自分にはやらなければいけないことがあると、帝都に残る道を選んだ。
それは同時に、彼女自身の問題にもアリストを付き合わせる気はないと言うことだ。
姉と弟はあくまで別々に戦うつもりなのだと。
「私がやらなければ、始めたのは私なのだから」
ダイナの表情は、これまで見たこともないくらい真剣なものだ。
――理由がある。
アリストが家に帰れない理由。ネイヴとギネカが怪盗をしている理由。ヴェルムが探偵として犯罪者を追う理由。
そしてダイナにも、今はこの街にいなければならない理由があると言う。
誰もがそれを持っている。
そう、自分たちとは相容れない生き方を選んだ者たちでさえ。
◆◆◆◆◆
帝都に数多い喫茶店の一つ。彼女たちが昔から馴染んでいる店『ワンダーランド』。
ダイナとレジーナは、そこで今日も話をしていた。
「それで、そのアリス君て子はどうなの?」
にこにこと尋ねてくるレジーナに、ダイナは言う。
「随分アリスと言う“名”に拘るのね。レジーナ」
「……おや、そんな風に聞こえたかい?」
「ええ」
「君が言うならそうなんだろう。やはり僕たちにとって、“アリス”は特別なコードネームだからね」
レジーナの言葉を聞いて、ダイナは途端に顔を曇らせた。
懐かしい少女時代を思い出し、目の前の友人が、今もそこから抜け出せていないことを確信する。
「レジーナ、あなたまだ……」
ダイナが今こうしていられるのは、弟であるアリストのおかげだ。
両親の再婚も直後の事故死も衝撃だったが、その後の慌ただしい日々を、義理の弟になった少年と共にいたからこそ乗り越えることができた。
波風立たぬ日々ではなかったが、少なくとも投げ出したいほど不幸でもない。
誰でも少しずつ形を変えて経験する不幸、そして幸福。
それを得られなかったのであろう、目の前の友人。
「お?」
ダイナがついにその話を切り出そうとしたタイミングで、窓の外を眺めていたレジーナが声を上げる。
「噂をすれば……あれ、アリス君だろ?」
「え? ……あら、本当」
向こうも何気なくこちらを見遣って、ダイナたちに気づいたようだ。いつもの三人で出かけていたらしい。アリスが駆け寄って、シャトンとヴァイスがゆっくりと追ってくる。
「ダイナお姉さん、それに……ええと、レジーナさんもこんにちは」
「こんにちは」
礼儀正しく挨拶をしてくる小等部の生徒にレジーナはにっこりと笑顔を向ける。
そうしていれば彼女は、多少個性的なだけのただの女にしか見えない。
「また会うとは奇遇だな」
「ええ。今日は三人ですか」
「ただの買い物だからな」
「この時間に?」
夕暮れ時だが、ここからマンションまでの距離を考えれば夕飯の買い出しには少し変わった場所だ。
「ええと……ちょっと昼間色々あって」
ヴェイツェが倒れて、ヴァイスが車で送るかどうかとなった日の夜である。
結局ヴェイツェは一時間程休んですぐに回復したので、ヴァイスが送る必要はなかった。ただそれに合わせてアリスやシャトンが帰る時間もおそくなったので、どうせならと三人で買い物に出かけただけである。
「今ちょうど君たちのことを話していたんだよ」
「え?」
突然のレジーナの言葉に、真正面にいたアリスが面食らう。
「ダイナは寂しい子だからね。君たちの存在に随分助けられているみたいだよ」
「もう、レジーナったら」
ダイナが友人の肩を叩く。彼女にしては珍しい仕草に、アリスやヴァイスは密かに驚いた。
「誰が寂しい子ですって? こんな年齢になってまで、あなたにそんなこと言われる筋合いないわよ?」
いつも隣人や生徒たちに優しい大人の女性として接しているダイナも、気の置けない友人に対しては随分砕けた態度をとるようだ。
「それにアリス君たちは、いずれ元のお家に帰るのよ。心配させるようなことを言ったら悪いじゃない」
「あー、うん」
仲の良い友人同士のやりとりにこの姿でどう口を挟んだものか、戸惑って返答が少しぎこちなくなるアリスに対し、レジーナはどこか意味深な言葉を向ける。
「へぇ……それはそれは。無事に帰れるといいね」
「……」
アリスはレジーナの笑顔に、底知れず不穏なものを感じた。
けれどそれを問い詰める暇もなければ、そのやり方もこの場面ではわからない。相手はアリスにとってほとんど面識のない人物だ。あくまでも今は他人として接しているダイナの友人という、遠い間柄だ。
ダイナとヴァイスの方でついでと済ませた学院関係のやりとりが終わったところで、もう帰るぞと声をかけられた。
「私たちはこれで失礼する」
「あ、ごめんなさい引き留めてしまって」
踵を返す一行を、レジーナは再び綺麗に作り上げた笑顔で見送る。
その姿が見えなくなった辺りで、アリスは躊躇いながらも口を開いた。開こうとした。
「なぁ、あの人……」
「ちょっと変わった人ね」
「そうじゃなくて……」
けれど自分の感じているものを、この時のアリスはどうにもうまく言い表せなかった。