第6章 真理の剣
23.割れた卵 134
――彼を助けて。――魂を救って。
――それがわかった時は、もう全てが動き出している。
約束を、守らないと。
◆◆◆◆◆
“帽子屋”フートは“ハンプティ・ダンプティ”ヴェイツェを追いかける。
“アリス”はその二人を追いかける。
テラスの遺体をシャトンに任せ、アリスはどんどん暗くなる空の下を走り続けた。
暗雲が広がり、空気は雨の気配を含む。
ヴァイスと、一緒にいたヴェルムもシャトンから連絡を受けてこちらに向かっているらしい。
ギネカは怪盗ジャックであるネイヴと共に誘拐事件の解決に手一杯ですぐにこちらには来れない。
レント、エラフィ、ムース、友人たちの顔を次々に思い浮かべるが、どう連絡していいかはわからない。
テラスが自分を選んだ訳もわかると言うものだ。ヴェイツェとフート、両方の事情を理解して止めることのできる人材は限られている。
友人なのに。友人だからこそ。
言えなかったのだろう。
フートは、自分が怪人マッドハッターだとは。
ヴェイツェは、自分がハンプティ・ダンプティだとは。
言える訳がない。
自分自身がそうだったではないか。アリスト=レーヌであると、アリスはずっと言えなかったではないか。
それでもアリストが幸運だったのは、友人であるギネカが本気で彼を心配し、その真実に辿り着いてくれたことだ。
ギネカはアリストを心配して探し出して、そして信じて自分の秘密も打ち明けてくれた。
彼女が自分にしてくれたように、ヴェイツェの、フートの、そしてテラスの友人である自分自身こそが、この混乱に立ち向かわなければいけないのだ。
アリスは身体強化で必死に二人を追う。しかし、子どもの体では高等部生の二人にすぐには追いつけない。体力だってアリスの方が先に尽きる。シャトンの魔導具である時計によって一時的にアリストの姿に戻っても、短時間しか維持できないなら魔力の無駄だ。
「まっすぐ追うだけじゃ駄目だ、目的を掴んで先回りしなきゃ……!」
ヴェイツェが逃げていて、フートはそれを追っている。ならば考えるべきはヴェイツェの目的。
そもそも二人とも今は何をどうするつもりなのだろう。ヴェイツェがテラスを殺したという誤解により怒り心頭のはずのフートは、ヴェイツェに何をするつもりなのか。
ヴェイツェはフートが自分を追ってくる理由をどう考えているのか。
「ヴェイツェとしては、ここで捕まる訳にはいかないはずだ」
フートが怒りによってヴェイツェを捕らえて警察に突き出すつもりなのか、それとも実は殺す気でかかっているのか?
アリスにはわからない。そこまでフートが過激なことを考えているとも思いたくない。
けれどどちらにしろヴェイツェはここでフートに捕まりたくはないはずだ。
逃げたということは、彼にはまだ果たすべき目的が残っているということ。
折よく携帯のコールが鳴る。
『アリス、そっちはどうなってる?!』
「ヴェルム、今大変なんだ」
『ハンプティ・ダンプティのことなら、こっちにもチェシャ猫から連絡が来た。ヴェイツェ=アヴァールのことなら、彼がまだ復讐すべき相手は残っているらしい』
シャトンとフォリーが詳しく事情を説明してくれたのか、ヴェルムのもたらした情報はまるでアリスの心の中を読んだかのように的確だった。
彼は彼で、探偵としてある程度ハンプティ・ダンプティの正体にあたりをつけていたのだと言う……。
そのヴェルム自身が集めた情報の中にあった、復讐対象の推測もあった。
『かつてヴェイツェ=アヴァールが両親を失った事故。これは恐らく睡蓮教団が引き起こしたものだ』
ハンプティ・ダンプティの殺害動機は強い恨みによるもの。
被害者、すなわち標的は教団の構成員。
『その“事件”の関係者――睡蓮教団の人間と思われる人間があと三人、残っている』
フートに追われているヴェイツェは、警察や怪人に捕まる前に復讐を遂げるはずだ。
「その三人の現在地を教えてくれ!」
職場でも家でも、今いるところを。
たまたま出会っただけのティードルダムとティードルディーを見間違えることなく殺したハンプティ・ダンプティは、その居場所まで全て記憶に叩き込んでいるはずだ。
◆◆◆◆◆
復讐相手はすでに残り三人にまで減っている。
ヴェイツェが廃ビルでニセウミガメとグリフォンを殺さなかったのは、彼らは睡蓮教団ではあるが、あの「事故」とは無関係な人間だったからだ。
それならば警察に任せればいい。
ヴェイツェが殺したいのは、自分と両親と「事故」に巻き込まれた人々の命を奪った人間だけだった。
あと三人。三人ならば、なりふり構わなければ今からでも殺せる。
ヴェイツェはもはや魔導までも使い、ビルの七階に飛び込む。
ガシャン!!
「きゃああ!」
「うわ、なんだぁ?!」
何も事情を知らぬ人々が驚く中、標的である男の前に、自らも硝子を突き破った血に濡れた体で立つ。
「なんだお前は?!」
吹き込む雨風に吹かれながら、目の前の男だけに聞こえるよう囁いた。
「十年前のビスク地域爆発事故」
「――!」
ヴェイツェがその名を口にした途端、男の表情が凍りつく。
標的は一見したところ、何の変哲もない普通の男だった。恰幅の良い中年で、皺だらけの顔も温厚そうに見えるだろう。けれど。
「忘れたとは言わせない。お前の罪を」
「専務!」
ヴェイツェはいつものように、削り取った自らの魂を媒体として呪詛をかける。
男は自分自身の腕で、自らの首を骨が折れる程に締めて絶命した。
悲鳴が響き渡る。緩やかに広がる血だまりに周囲は阿鼻叫喚となった。
男の死に様を見届けると、彼を取り押さえようと周囲の人間が動く前にまたヴェイツェは窓から飛び降りる。
「ヴェイツェ!」
後を追ってきたフートに見つかったようだ。呼び声に姿を確認しようと振り返るが、視界を埋め尽くしたのは黒いマントだった。
「!? ……マッドハッター!」
叩き込まれようとした鋭い蹴りを間一髪で躱す。
白い仮面の下で睨む目は確かに友人の金色だ。
「そうか……そういうことか……!」
フートもまた自分の正体を隠していたのか。気づかなかった。教団の敵対者である怪盗二人に関しては注意して見ていたつもりだったが、自分もまだまだだと言うことだ。
真実なんてそう簡単には手に入らない。
「よくも……よくも彼を……!」
フートはテラスが好きだったのだ。
テラスこそが、怪人マッドハッターの犯行の情報を度々警察に流して邪魔していたジャバウォックの正体だと言うのは皮肉かも知れないが。
ああこれは殺されるな、とヴェイツェは思った。
彼の大切な人を殺したと誤解されている。
……否、テラスがヴェイツェを助けようとして行動したのだから、間違いなくテラスはヴェイツェのせいで死んだのだ。
それなら、フートに憎まれて殺されても仕方ない。
けれど。
「今ここで殺される訳にはいかない……!」
「てめぇ……!」
鋭い攻防を繰り返す二人の様相に周囲が騒ぐのも気に留めず、ヴェイツェとフート――怪人マッドハッターは魔導を用いた格闘戦を繰り広げる。
「僕が君に殺されてやるのは――」
せめてあと二人、仇を殺してから。
ヴェイツェはフートの攻撃に反撃して一度距離をとると、またしても彼を撒くために走り出した。