第6章 真理の剣
23.割れた卵 138
アリスはこの姿になってから様々な経験をした。
ギネカに接触感応能力を明かされた。更に彼女の相棒ネイヴが、怪盗ジャックとして活動していたことまで知らされた。
飄々と生きているように見えるエラフィが、実はずっと幼馴染である探偵ヴェルムに心から伝えたい言葉を秘めて戦っていたことを知った。
“アリスト”ではなく“アリス”になったからこそ、よく知っていたはずの友人たちの、これまでと違った顔を見ることができた。
しかしそれで彼らも自分も変わった訳ではないのだ。
新たな一面を知ったからと言って、それまで築き上げた関係や感情が損なわれる訳ではない。
積み重ねられてより深くその人を知り、また自分に向けて問い直す。
自分の、相手の――真実とは一体何なのだろう?
盗まれた時間が鏡に映る姿を変え、名を偽り、事情を隠し、全てを欺いて。
では自分の中にあるこの感情までも嘘なのかと。
――違うはずだ。
「今俺が見てるヴェイツェ=アヴァールの姿は、これまでと何も変わってなんかない!」
「アリスト……」
驚かされ悲しんで、色々複雑な気持ちも湧き上がったけれど、だからと言ってこれまで友人であった日々が消えた訳ではないのだ。決して。
「例え俺の姿が変わろうと、お前が自分を隠していようと、そんなのは関係ない。お前が自分自身をどれだけ責めていようと、テラスは他でもないお前を救いたいと願ったんだ」
その罪も悲しみも、全てを知っていてテラスはヴェイツェは救おうとした。
「それともお前は、俺の姿が変わったら責めるか? 自分に嘘をついていたから憎むって言うのか?」
「……!」
「お前が俺を変わらず思ってくれているように、俺だって、お前が変わったなんて、救われる資格がないなんて思わない!」
だって、友人なのだ。
「一緒に行こう、ヴェイツェ。一人で……自分だけで戦おうとなんてするな」
一人では何もできないとエラフィは言った。
ギネカはアリスなら信じてくれると思ったと言った。
アリスはこの姿になって自身の無力さを思い知った。
それでも自らの望みを捨てたくないと思うなら、誰かの協力が必要だった。
見た目にわかりやすいアリストからアリスへの変化がもたらした問題にはヴァイスやシャトン、ギネカにヴェルムと言った周囲の人々が手を貸してくれた。
では、見た目でわからないハンプティ・ダンプティ――ヴェイツェの傷は?
それにただ一人気づいていた姿なき情報屋ジャバウォック――テラスの想いは?
ヴェイツェのしたことは赦されない。償わなければいけない罪はあるだろう。
けれど償いを考えるには、まず彼自身が本当の意味で救われなければならない。
このまま復讐を遂げても虚しい心のままで死なせてはならない。
ヴェイツェさえアリスたちの手を取ってくれれば、その生命を救う方法も罪を償う方法も、いくらだって一緒に考えてみせる。
手を差し伸べるアリスと差しのべられたヴェイツェ。それを見守るフート。
「アリス――」
かつて、姿なき情報屋ジャバウォック――テラスは、ハンプティ・ダンプティ――ヴェイツェに言った。
――“アリス”が君を救ってくれる。
ヴェイツェの胸が、身体の限界とは別の意味で苦しくなる。
自身はテラスを助けることすらできず死なせてしまったのに、ここでアリスの手を取っていいのかと。
けれど全てを知られて、それを受け入れられているのに意地を張ったところでどうなると言う?
復讐は終わった。終わってしまったのに。
ヴェイツェが一歩を踏み出そうとした、その時だった。
「復讐が一つ終わると言うのはだな」
唐突に降ってきた聞き覚えのある声にアリスの表情がぎくりと凍りついた。これまで健康的にふっくらとしていた頬からざっと一気に血の気が引く。
降りしきる雨の中、閃光のような紅が降ってくる。それはアリスにとって永遠の悪夢。
「殺された相手の陣営でも、反撃を開始するってことだ」
咄嗟に叫んでいた。
「やめろ! 赤騎士!」
その声は届かない。否、届いても何の意味もないのだ。
赤の騎士はアリスを襲撃する者であって、その命令に従うはずもない。
ずば抜けた身体能力には、マッドハッターたるフートすら敵わない。
アリスのように赤騎士と面識のないフートには、それこそ紅い軌跡が飛び込んで来たようにしか見えなかった。
雨に打たれた紅い服と白刃の軌跡は、新たに流れた朱の軌跡と混じり合い悲劇を描く。
「ヴェイツェ!」
病院の屋上に少年の体が倒れ、水たまりを濁った色に染めていく。
赤だ。暗い空の下でも鮮やかな程に絶望的なその赤。
「“ハートの女王”よ、こちら“赤騎士”。――命令通り、復讐鬼“ハンプティ・ダンプティ”の始末を完了した」
◆◆◆◆◆
「赤騎士!」
「よぉ、“アリス”。元気そうで何よりだ」
胸を長剣で貫かれ地に倒れ伏したヴェイツェの傍らに駆け寄ったアリスは、“赤騎士”ルーベル=リッターを睨み上げる。
「私は今日はこれで失礼する。これ以上濡れたくないものでな」
「てめぇ……!」
「仕方がないだろう。こっちも仕事だ。――ハンプティ・ダンプティは、あまりにも教団の人間を殺し過ぎた。ハートの女王の怒りに触れたんだ」
ハンプティ・ダンプティだけでも厄介なところに、今は怪人マッドハッターが傍にいる。この二人を相手にするのは並の人間にはきついと見て、ついにハートの女王は白兎と赤騎士を投入してきたのだ。
フートのすぐ傍にも、いつの間にか白兎、アルブス=ハーゼが立っている。
そのフートは自分の動きを抑えるように現れた白兎よりも、赤騎士の方に釘づけになっていた。
「お前……ランシェット……?」
髪の色こそ違うが、赤騎士の顔が編入生と同じだとすぐに気づいたのだ。
赤騎士は微笑んで白兎と共に隣のビルに飛び移る。
「私たちが憎いなら、その手で殺しに来い」
それだけをアリスに言い置いて、彼らは素早く去って行った。
「ヴェイツェ! ヴェイツェ……!」
アリスは必死に呼びかけながら治癒の術を施すが、まったくと言っていい程効果がない。
何か仕掛けがあったのか? あったとしてもそれを見抜いてこの僅かな時間で術を解除することは、アリスやフート程度の魔導士にはもはや不可能だった。
「いいんだ……」
僅かに苦痛を排するだけで、何の効果もない治療。口元を吐きだした血で染めながらヴェイツェは微笑んだ。
「これで……いいんだ……」
「いいわけあるか!」
テラスの口振りから、ハンプティ・ダンプティの命を救えないのは最初からわかっていた。
けれど、こんな――こんな終わり方だなんて!
「ハンプティ・ダンプティは夢の中、アリスに七歳でやめておけばよかったのに、と、告げる……」
「ヴェイツェ?」
「過去に、今に、子どもの時間に囚われて、大人になれない……」
それがハンプティ・ダンプティ――ヴェイツェ=アヴァールだったのだと。
「でもアリスト……お前は、自分の時を取り戻して……」
約束して、と彼は告げた。
「夢から醒めなければ、現実での救いは得られないから――……」
いつまでも過去に、子どもの時間に夢を見てはいられない。
どれ程幸せな夢だとしても、心を囚われた瞬間、それは悪夢と何ら変わりなくなる。
ヴェイツェにそれを教えてくれたのはアリスだった。
「テラス君の……言った通りだった……」
彼が自分を救ってくれるのだと。
「ありがとう……お前と……みんなに……会えて、よかっ――」
「……ヴェイツェ?」
眠るように閉じた瞼が、その頬に一つの雫を押し出して滑らせる。
透明な一滴はすぐに降りしきる雨に紛れてしまった。
心がぐしゃりと、柔らかいものが硬い地面にぶつかって潰れる音と共に軋んだ。
塀の上から落ちた卵が割れて潰れるように。
時が止まったかのように凍り付く世界に、ばたばたと騒々しい足音がやってきてようやく彼らの時間は動き出す。
避けえない悲しみへと向かって。
「ヴェイツェ!!」
「アヴァール!」
「アヴァール君?!」
「ヴェイツェお兄さん!」
「ヴェイツェ!」
高等部の友人たちが、小等部の子どもたちが。
ヴァイスとダイナが。
ヴェルムとネイヴが。
慌てて駆け付ける。けれど、もう――。
降りしきる雨の音に、慟哭は暗く閉ざされる。