第6章 真理の剣
24.神の名の下に 139
それでも、世界は歩みを止めない。
時計の針は回り続ける。
叶わなかった約束を置き去りにして。
◆◆◆◆◆
「……あれで良かったのか?」
隠れ家に戻ったところで、白兎は赤騎士に尋ねた。
「不満か? 私はハートの女王の命令を果たしたまでだが」
問いで返す赤騎士の言葉に、白兎はまた更に問いを重ねる。
「お前としては……ハンプティ・ダンプティを殺したくなかったんじゃないのか?」
「……」
長い付き合いだ。相手がどのような会話運びで何を誤魔化そうとしているかなど、とっくに承知しているのだ。
「自分が生まれたことで周囲を殺して不幸にしてしまった人間、存在自体が罪の源……どこかで聞いた話だな」
長椅子に腰かけた赤騎士を、白兎は背中から抱きしめる。
ハンプティ・ダンプティの捜索はもう終わり、公爵夫人の捜索は保留、当分は急ぎの仕事もない。
もう学生の振りをして潜入捜査などする必要もない。
束の間の休息は終わり、いつもの戦いが幕を開ける。
「だからこそだろう」
平穏な仮宿を壊して、赤騎士はいつも通りの咎人に戻る。
「死んでしまいたい程の罪だと言うのなら、死なせてやればいい」
「でも、俺たちの待ち望んだ“アリス”はそうは思わなかったみたいだ」
二人はあの時、赤騎士を睨み付けたアリスの表情を脳裏に描く。
赤騎士を抱きしめる腕はそのまま、白兎は顔を上げて言った。
「さぁ、最終局面だ。悪夢を醒まし、物語の終わりをもたらす者はどんなエピローグを与えてくれるのか?」
◆◆◆◆◆
ハンプティ・ダンプティの名は、しばらく世間を沸かせ続けた。
そのことにより、濡れ衣が晴れて無難に解決してしまった怪盗ジャックの誘拐容疑と怪人マッドハッターの殺人容疑も吹き飛ぶほどに。
しかし彼の正体に関して、世間に大々的に報道はされていない。
最期の日、一人の少年が会社のオフィスなど公衆の面前で相手に手も触れず堂々と殺人を犯したという証言があちこちから飛び出し、その少年を怪人マッドハッターが追跡していたという目撃証言も広まっている。
それでも真相が公表されないのは、ハンプティ・ダンプティが未成年だったからというだけではない。
真実を明かされては困る誰かが、世間への発表を操作できる地位に潜んでいると言うことだろう。
だがそれらの事情も、今のアリスたちにとってはほとんどどうでもよいことだった。
彼らの心を占めるのは、救えなかった友のこと。
テラスの死がこれもまた犯人不明の殺人事件としてニュースになったことから、ジグラード学院は数日休講となった。
高等部の生徒たちには、ヴェイツェの死についても知らされている。
理由が理由だけにテラスやヴェイツェを直接は知らない生徒たちも衝撃を受け、沈痛な面持ちで喪に服す。
そして、彼らの直接の友人であった者たちは――……。
「私たち、今までヴェイツェの何を見ていたのかしらね」
ヴァイスのマンションに来て、アリスたちと顔を合わせたギネカが口を開く。
初夏の気候は汗ばむほどだが、今日は冷たい物を口に運ぶ気にはなれなかった。
温かなお茶をシャトンが淹れるが、アリスもギネカもそれにほんの一口口をつけただけで、後は冷めるに任せている。
何もかもが億劫で、それなのに焦燥――そして後悔に駆られている。
もっと、何かできたのではないか。
もっと前に、知っていたら――。
「あまりそんなことを考えるなよ、ギネカ」
「アリスト……」
「自分がサイコメトリーでヴェイツェの心を読んでいたらとか考えてるだろ」
「!」
言い当てられたギネカは頬を朱に染め俯く。
持って生まれた特殊な力によって、人の心を際限なしに読むなど褒められたことではない。
ギネカは特に友人たちには、友人だからこそ気を遣って下手に心を読まないように気を付けて生活していた。けれど、今回ばかりはそれが間違いだったのかと後悔していたところだ。
もっと早く、ヴェイツェがハンプティ・ダンプティなのだと気付けていたら。
何かは変わっただろうか……?
「そんなの、誰にもわからないよ。テラスだって、ジャバウォックとしてあれだけ慎重に動いていたはずなのに、結局はヴェイツェを救おうとして誰かに……教団に殺された」
それまで黙っていたシャトンが口を開く。
「テラス君が……ジャバウォックだったなんてね。まだ信じられないわ……」
きっと全員が同じように感じていることだろう。まるで悪い夢のようだと。
テラスが姿なき情報屋“ジャバウォック”、ヴェイツェが殺人鬼“ハンプティ・ダンプティ”、そして。
「フートは……怪人マッドハッターだったのよね?」
「ああ」
後からそのことを聞かされたギネカはそれもまだ半信半疑だった。しかしそうして振り返ると、先日のマッドハッターの態度にも納得が行く。
こちらはマッドハッターの正体を知らなかったが、彼の方ではアリスがアリスト、料理女がギネカだと知ってしまったのだ。
そこで簡単に自分も正体を明かせるようなら苦労はない。
「私たち、なんでも話せる友人のようでいて、お互いに嘘ばかりついていたのね」
「そうだな」
どれほど近くにいても。
どれ程大切に想っていても。
嘘を吐く。真実を隠す。素顔を仮面の下に閉ざして、心をヴェールで覆ってしまう。
「でも……大事な友達だった。テラスも、ヴェイツェも」
もちろんフートのことも。
彼とはヴェイツェの死を看取ったあれ以来顔を合わせていない。
モンストルム警部が執り行ったテラスの葬儀にさえフートは姿を現さなかった。
ハンプティ・ダンプティであるヴェイツェの死はまだ弔うことができない。遺体は警察が保管している。
アリスたちは教団の人間が殺したことを証言したが、きっとこの証言もどこかで隠蔽されてしまうことだろう。
改めて睡蓮教団という組織の大きさを身に染みて感じる。
これだけの騒ぎさえも、彼らは揉み消すことができるのだ。
それに比べて、今回アリスたちに何ができたのだろう?
「他の子たちは、大丈夫かしら……?」
シャトンはカナールたちを心配する。フォリーが当たり障りのない部分は説明したとはいえ、子どもたちとしてはほとんど何も知らないまま友人の一人であるテラスと、高等部のヴェイツェお兄さんを喪った形になる。
「それに、フートがこれからどう動くつもりなのかもわからないわ」
怪人マッドハッターとしての正体を知られたというのに、フートはアリスたちに何も言って来ない。
確かにアリスたちも偽っていたことや隠していたものがあるのでお互いに弱味を握りあった状態と言えるかもしれないが、それにしても妙だ。
元々の友人だからこそ、こんな時は話し合うことが必要なのではないかと、アリスなどは思う。
だがそれをするには、フートの傷はあまりにも大きい。
「フートは……テラス君のことが好きだったわ」
ショタコンなどと言ってからかわれていたが、正確にはその感情を何と呼ぶべきかは、周囲もわからなければきっと本人にもわかっていなかったのだろう。
テラスが自分に向けられたその好意をどう思っていたのかも。
「……怪人マッドハッターことフート=マルティウスは、確か兄が行方不明なのよね」
「ああ。だから多分フートは、そのお兄さんを探すために怪盗になったんじゃないか……?」
両親がすでにおらず、兄が十年前に行方不明になって、フートは今たった一人。そして、友人であるヴェイツェと想い人であるテラスを喪った。
わからなかったのはヴェイツェのことだけではない。フートのこともだった。彼の孤独にアリスたちは気付いてやれなかった。
あんなに一緒にいたのに。
フートにはまだ幼馴染のムースがいるが、彼女の方もここ最近は様子がおかしかった。
「ムースはムースで何か気がかりがあるみたいだったし、あのコンビには最近どこか距離があったみたいに感じるわ」
「でもマッドハッターがフートなら、相棒の眠り鼠はムースしかいないだろ? ……別々の人間なんだ。いつかは道を違えることもある」
「……そうね」
アリスの言うとおり、幼馴染は所詮他人なのだ。
ギネカとネイヴだって、そのうちそれぞれが道を選ぶ決断をする日が来るだろう。
「俺たちに、何かできることはないんだろうか」
テラスが死に、ヴェイツェが死に、それでもまだ事態は終わっていない。
連絡のつかないフートの動向が気にかかる。
けれど怪人として一年活動していたフートが本気で姿を眩ませた現在、アリスたちにはその思惑を知るすべがないー―。
八方塞りかと思われたその時、再び電話が鳴った。