第6章 真理の剣
24.神の名の下に 140
ヴェルムは今回の事件の概要をまとめてイスプラクトル警部に報告したが、それが世間に報道されることはなかった。
「すまん。ヴェルム君」
「いいえ。予想はしていました。それに……これではっきりしました。警察の中にも、睡蓮教団の手の者が入り込んでいると」
帝都を震え上がらせた連続殺人鬼、ハンプティ・ダンプティの正体が未成年の男子高生であったと言うことは衝撃的な事実だ。
いくら犯人が死亡したとはいえ、これまで無能と叩かれた警察としては本来何としても殺人鬼の存在を挙げたかったはず。
しかしそれは叶わなかった。
イスプラクトルのような一警部には到底手の届かない先に、この件に関して犯人が未成年であることを盾にとって強引に隠蔽できるだけの人物がいるということだ。
……だが、ヴェイツェ=アヴァールのことを考えれば、それで良かったのかもしれない。
被害者が死んで犯人も死んでしまった以上、表面上の事実だけで物を見る輩が断片を手にすれば、あの不幸な少年が無責任に何を書き立てられるかわかったものではないからだ。
ヴェルムは、数度しか会ったことのない彼を思い出す。いつも落ち着いていて――どこか、寂しげな緋色の瞳をした同い年の少年。
睡蓮教団に家族を奪われた人間は自分だけではない。わかっていたはずのその事実を、改めて突きつけられる。
今回も、ヴェルムにはあまりにも力が足りなさすぎた。
探偵としてはこんな事件が起こる前に睡蓮教団を潰したかったが間に合わず、殺人鬼として活動し始めたハンプティ・ダンプティの復讐を止めることもできなかった。
――だからこそ、こんな悲劇は二度と繰り返したくない。
ハンプティ・ダンプティことヴェイツェにどんな事情と想いがあって殺人を続けたのかはアリスに聞いた。同じように家族を教団に殺されたとは言っても、ヴェルムとヴェイツェには大きな隔たりがあった。
自分こそが大切な人や無関係の大勢の人間の死の原因となってしまったという、ヴェイツェの事情はあまりにも重い。
けれどそれでも、ヴェルムは相手を殺して終わりなどにはしたくなかった。
だから、自分なりのやり方で決着をつけるために戦い続ける。
「警部こそ、俺に付き合ってこんな真似をしなくてもいいんですよ」
「馬鹿を言え。警察に犯罪者を見逃せという探偵があるか」
ハンプティ・ダンプティに関する事件の真相を彼に伝えるには、どうしても睡蓮教団と魔導の話を省く訳にはいかなかった。その流れでようやくヴェルムがずっと教団を追いかけてきた事情も理解した旧知の警部は言う。
「それとも俺もコードネームでも名乗ろうか? そうだな。俺の名にちなんで“車掌”とでも」
「警部……」
「今更お前を止められるとは、こちらも思っとらんよ」
ヴェルムの強情な性格を知る警部は、諦め混じりの溜息を吐く。
「だが、死ぬような無茶だけはやめろよ。何があっても、最後には帰って来い。命を懸けてまで復讐を果たしたところで、誰も喜ばない……わかっていただろうになぁ」
イスプラクトル警部の言葉の最後は、ヴェルムではない別の少年に向けられたものだ。
文字通り命を懸けた殺人鬼の心情を思い、二人はそっと黙祷を捧げる。
◆◆◆◆◆
エラフィとレントは同じ部屋にいて、それぞれまるで別の場所を眺めていた。
エラフィは自分の部屋の窓から外の景色を、朝から彼女を訪ねてきたレントはアルバムに並べられた去年の写真と、今年の写真を何枚も机の上に広げては眺めている。
その中に映っている、彼らが魔導を学び始めた中等部からの友人の一人と、今年出会ったばかりの小等部の小さな少年がもういない。
テラスの葬式まで済んだと言うのに、まだ実感が湧かなかった。
全部、全部悪い夢のようで。
家族のいないヴェイツェに至っては、葬儀の話さえ出ない。
フォリーの電話に急きたてられて向かった先でまずテラスの、そしてヴェイツェの死に顔を見ることになった彼らだが、事情はさっぱりわからなかった。
一体何が起きていて、何故テラスとヴェイツェは死ななければならなかったのだろう。
説明が欲しいところだが、誰に聞けば良いのかもわからなかった。こればっかりは、自分たちと同じように連絡を受けて動揺のままに駆けつけたヴァイスやダイナに聞いても難しいだろう。
何か知っていそうなのはすでにあの現場にいたフートとアリスなのだが、フートの方は彼らより更に動揺が激しかった。メールも電話も返事が返ってこない。連絡のつかない彼の下に押しかけてまで詳しい事情なんて聴けない。
そして、あの場にいた中では最年少のアリスに詰め寄るのは躊躇われた。
歳の割に大人びた子なので聞けば知っている限りのことを教えてくれるかもしれないが、彼だってテラスと言う近しい友人を喪っているのにあまりにも酷と言うものだ。それにアリスは、ヴェイツェの死に際にも立ち会ったのだ。
それにアリスが、ただ一言だけ教えてくれた言葉がある。
あの時、すでに息の絶えたヴェイツェのところに駆けつけた者たちに向けて彼はこう言った。
――ヴェイツェ……ヴェイツェ=アヴァールは、『みんなに会えてよかった』って。
それを聞いた以上、もうレントたちに言える言葉は何もなかった。
どんな事情を聞いたところで、もうヴェイツェ=アヴァールもテラス=モンストルムも帰ってこない。
彼らに対しレントたちができることはもう何もないのだ。
本当に……?
レントの手元の写真にぽたりと雫が落ちる。
乱暴に服の袖で拭っても、それは後から後から溢れて止まらなかった。
考えるべきことは山のようにあるのだろう。ヴェイツェたちの死と時を同じくするようにしてニュースになった殺人鬼ハンプティ・ダンプティの死亡報告が頭から離れない。その当日、高校生くらいの少年が白昼堂々殺人を犯し、それを何故か怪人マッドハッターが追跡していたと言う謎の証言もある。
もう何も考えたくない。
そして考えられない。
叶えられなかった約束の先は、ただただ真っ白で真っ黒だ。
何も積み上げられず、何も返ることのない虚空が広がっている。
「嘘つき」
ぽつりと呟かれた言葉にレントが顔を上げて視線を向けるが、エラフィは窓の外を眺めたままだった。
その唇が再び囁く。
「言ったじゃない……夏はみんなで海に行こうって……確かに結局言質はとれなかったけどさ……」
あの時、ヴェイツェは過去の事故で体に残る傷痕を見せたくないからと海に行くのに乗り気ではなかった。けれど。
「体の傷なんて、パーカーの一枚でも羽織って隠せば良かったじゃない……私たち誰も、そんなの気にしやしないのに……なんで……」
何故今、彼はここにいないのだろう。
何故これから先、彼は自分たちと一緒にいないのだろう。
「テラス君もテラス君よ、あんたがフートの本気にどう応えるか、私たちずっと興味津々で見守ってたっていうのにさぁ……」
まさか全ての決着がつくまえに、彼がいなくなるなんて思わなかった。
まさかあの子が自分たちのような高校生どころか、中学生にすらなれないなんて思わなかったのだ。
二人に対しての恨み言を口にしていたエラフィの肩と声が震えだす。
レントは、ついに耐え切れず嗚咽を零し始めた。
みっともない泣き顔を晒すことになるが構わない。友人たちが死んだと言うのに、冷静な美しさを装える程、彼らは大人ではなかった。
◆◆◆◆◆
怪人マッドハッターの仕事の日が近づいている。
予告状自体は何日も前に出していたもので、取り消そうかとムースは言ったのだがフートはやると言った。
そしてそれ以来ずっと怪盗としての仕事の準備を進めている。
テラスの葬儀にも行かず――。
「どうしよう……」
今のフートの心を変えることは、ムースにはできそうもなかった。
彼女はフートの兄でもなければ想い人でもない。怪盗としての相棒とは言え、ずっとただの幼馴染としての一線を越えなかったムースにはもうこの先フートの心の中には入っていけないのだ。
けれど幼馴染として友人として、彼を止めたい気持ちは残っている。
そんな彼女の前に――ついに、彼は姿を現した。
「……お前もフートも随分立派になったものだと思ったけど」
この十年間、フートと二人でずっと求め続けた姿だ。
「泣き虫は十年経っても治らなかったんだな。ムース」
十年経ったはずなのに、ムースとフートが高等部生になったのに、どうして彼はまったく変わらないのか?
そんな疑問も今はどうでもよかった。よくなってしまった。
「彼」が今、ここにいる、ただ、それだけで――。
「ザーイエッツ!」
ムースは、彼女が十年想いつづけたその人の名を叫んだ。