Pinky Promise 141

第6章 真理の剣

24.神の名の下に 141

「ザーイエッツ……!」
 この十年間、探し続けた人がいた。
 駆け寄ってきたムースをザーイエッツは抱きしめる。
 彼の姿は、十年前に見知っているそのままだった。この十年どこにいたのか、何をしていたのか、色々と聞きたいことはある。けれど。
「ザーイ……! フートが……!」
 涙の浮かんだ目でムースは幼馴染の兄を見上げる。
「ああ……大体のことは知ってる。尤も、俺が知っているのはここ最近のあいつの表面的なことに過ぎないが――」
「ずっとフートを見ていたの? この前私たちが見かけたのは、やっぱりあなただったのね?」
「そうだ」
 ここ数日彼らを悩ませた謎に関し、彼ははっきりと頷いた。
 ずっと気になっていたのだ。ヴェイツェとテラスが教団と対峙し、テラスが死んだあの廃ビル。アリスはフォリーから連絡を受けて向かったが、フートはあの時あの場所に向かったことを、ザーイエッツの幽霊に導かれたとムースに話していた。
 幽霊ではない。ザーイエッツは確かに生きてここにいる。
「ムース、俺にもお前が知っていることを教えてくれ。今の俺は、あいつに何をしてやれる?」
 ザーイエッツは最近になって帝都に姿を現したが、遠くから弟たちを見つめているだけだったので目に見える以上の人間関係まではわからないのだ。
 フートがテラス……先日死んだ少年を、この世界の誰より大切に想っていたことなど知りようがない。
「あのね、今のフートは――」
 ムースがザーイエッツに説明をしようと口を開きかけた時だった。
 かかってきた電話にムースは一度だけザーイエッツの方を見て、迷いながらも応答する。
「はい……フォリーちゃん、どうしたの?」
『私は“バンダースナッチ”』
「え? あなた何を言って」
『もう時間切れだって。“ジャバウォック”からの伝言、そこにいる“三月兎”……ザーイエッツ=マルティウスに伝えて』
 ムースは思わずハッとしてザーイエッツを見るが、彼も怪訝な表情をしている。
「なんだ?」
『“本当はしっかり会わせてあげたかったけど、ごめんね、彼を連れていく”だって』
「ちょっと待って! 一体何の話を――」
 詳しいことは何一つ言わないまま、そうしてバンダースナッチことフォリーは通話を切る。
 ムースとザーイエッツは呆然と顔を見合わせた。

 ◆◆◆◆◆

 怪人マッドハッターの犯行を予告された日が訪れる。
 だが今晩そこにいる警察は、帝都の民が見慣れたマッドハッター専任のモンストルム警部ではなかった。
「イスプラクトル警部、この度は応援に来て下さってありがとうございます」
 一課から畑違いの三課に手伝いに来てくれたシャフナー=イスプラクトル警部に、怪盗ジャック専任のマレク警部が礼を言う。
 そう、今日ここにいるのは同じ怪盗専任ではあっても怪人マッドハッターではなく、本来は怪盗ジャック担当のアブヤド=マレク警部の方だった。
「何、こちらこそまだハンプティ・ダンプティの件が完全には治まっていないものでね」
 ハンプティ・ダンプティの正体である少年が殺人を犯した際、怪人マッドハッターが追跡していたという目撃証言があった。イスプラクトル警部が応援に来ていることは、マッドハッターからも事情聴取せねばならないことを考えると不自然ではない。
 それより不自然なのは、怪盗ジャック専任のマレク警部がいることの方だった。
 しかしそれも、本来マッドハッター専任のモンストルム警部の事情を考えれば無理からぬこと。
「モンストルム警部の御加減の方は……」
「表面上は落ち着いているよ。だが、彼の胸の内を思うとやり切れんな……」
 コルウス=モンストルム警部は、たった一人の息子であるテラスを先日亡くしたばかりだった。
 一課の刑事の家族であれば犯人からの逆恨みはないこともないが、三課のモンストルム警部は主に人を傷つけない怪盗であるマッドハッターの専任で、物騒な殺人事件に関わることなどほとんどなかった。
 モンストルム警部の受けた衝撃を考慮して、今回のマッドハッター対策には同じ怪盗専任のマレク警部が急遽呼ばれたのであった。
「こうして刑事として勤めていても、自分の家族、ましてや幼い息子の遺体が司法解剖から帰ってくるなんて、ほとんどの者は想定しておらんよ」
 僅か七歳の少年が、どうして銃によって殺されるような事態に陥ったのか。
 ハンプティ・ダンプティの事件に関わったことは確かなのだが、ハンプティ・ダンプティがテラス少年を殺した訳ではない。
 彼を撃った銃は一体誰のものだったのだろうか。
 それを、一課の刑事でありながらイスプラクトル警部はモンストルム警部に教えてやることもできない。
 せめてハンプティ・ダンプティ本人が生きていればもっと詳しいことを聞けたのかも知れないが、彼も亡くなった以上全ては闇の中だった。
 その闇の名を、睡蓮教団と言う――。
 先日からコードネーム“車掌”を得た男と、まだそれを知らない“白の王”は話をそこで切り、来る怪人マッドハッターへの対策会議に移った。

 ◆◆◆◆◆

 夜の帳が降りて、彼の時間が幕を開ける。
 怪人マッドハッターの犯行時刻。
 黒いマントに花を飾ったシルクハットを被った仮面の怪盗が、月の輪郭を背景にビルの屋上に姿を表す。
「奴が現れた! 追え!」
 マレク警部の号令の下、モンストルム警部とマレク警部、両方の部下たちが怪人を追う。
「……」
 普段はまるでエンターテイナー、名前の通り『不思議の国のアリス』のイカレ帽子屋のように愉快なパフォーマンスで人を驚かせるマッドハッターだが、今日は様子が違った。
「警部、今日の奴は何か様子がおかしいと思いませんか?」
「ああ。だがその理由を知るためにも、とにかく奴を追いかけねば」
 今夜のマッドハッターは、闇に沈む影のようだった。黒は藍色や濃紺よりは夜の闇の中でも目を引くのだが、装着者の動作があまりに静かな今日はうっかり気を抜けば背景に沈んで見落としてしまいそうになる。
 だがそれも、彼が目的の部屋へ到達するまでの間だった。
「あ、ま、マッドハッター様!」
 大富豪の一人娘は、この怪人の大ファンを自称している。
 彼女の持つ首飾りを狙ってマッドハッターが来ると聞き、驚くより先に喜んでいたくらいだ。けれど下調べの時点でそれを知っていたはずの怪盗は、いつもなら気障を装って用意する花束の一つも今日は取り出さない。
「……申し訳ない、レディ。どうかその首飾りを私に」
「え、は、はい。どうぞ!」
「ってお嬢さん! 渡しちゃ駄目でしょう!」
 思わず自らの首飾りを怪人に差し出すお嬢様に、追いついた警察が盛大な突っ込みを入れる中、マッドハッターは再び窓から逃走を開始する。
 追ってきた警察たちも慌てて進路を変えて追跡を再開した。
 なんだろう。今日の犯行はあっさりしすぎていて何かが物足りない。
「マッドハッター様……?」
 少女はどこか納得が行かないと、不思議そうに、ぱちくりと目を瞬かせた。

 ◆◆◆◆◆

 そしてマッドハッターは、屋敷の屋上の端に追い詰められる。
「追い詰めたぞ、マッドハッター! 貴様の犯行もここまでだ」
「追い詰めた? いいえ、むしろこれは私の望み通りの展開」
 無機質な白い仮面の向こう、冷え冷えとした表情を隠したマッドハッターが口を開く。
「あなた方にお伝えしたい真実がありますので。……今日は一課のイスプラクトル警部もいらっしゃるとは運がいい」
「どういう意味だ! マッドハッター、貴様は一体、先日のハンプティ・ダンプティ事件の何を知っている?!」
 イスプラクトル警部が怒鳴ると同時に、マッドハッターはすっとどこからか紙の束を取り出した。
「私がハンプティ・ダンプティの犯行に関し知っている全てをここに記してあります。彼の悲しみも、巻き込まれたテラス=モンストルム少年が何故死ななければならなかったのかも」
「……!」
「私はあなた方警察内部の人間ではない。マッドハッター本人がもたらした情報ともなれば、マスコミにでもリークすればすぐにニュースになるでしょう」
 イスプラクトル、マレク両警部は息を呑んだ。
「馬鹿な! そんなことをすれば――」
 そう、犯罪者である彼には警察と言う組織への柵はないのだ。彼が直接この情報を売れば、それは瞬く間に広がる。
 ハンプティ・ダンプティが未成年の男子高生であることも。
 彼に殺された被害者たちが、十年前の事件の犯人であり四百人以上の死者を出したことも。
 その全てが、残酷なまでに白日の下に晒される――。
「仮面を被って素顔を隠すお前が、他者の真実を今更ぶちまけて帝都を混沌に陥れるつもりか?!」
 マレク警部は怒鳴る。
 それでは様々な者たちが涙を呑んで真実を隠すことを選んだ意味がない。
「それに、お前自身の正体だって――」
 彼は途中で口を噤む。
 刑事の立場としては、むしろマッドハッターのこともハンプティ・ダンプティのことも、全てが明らかになった方がいいのでは?
 他者への影響を気にして迷う刑事たちに対し、マッドハッターの方はもはや自暴自棄な程にはっきりとした態度だった。
「私にはもう、喪うものなど何もない」
 誰も止めることはできない。
「もはや真実でしか全てを救えないと言うのなら、この呪われた身を焼く白昼の光の下に、姿を晒したって――」
『待って』
 マッドハッターの口上を遮ったのは、この場にいるはずのない幼い声だった。
『待って。“帽子屋”さん』
 振り返る怪人の視線の先に、小さな少年がいる。
「何故……」
 それは数日前、無残に心臓を撃ち抜かれて死んだはずの少年。
『駄目だよ、お兄さん』

 テラス=モンストルムがそこにいた。