第6章 真理の剣
24.神の名の下に 142
『駄目だよ、お兄さん』
「テラス君……?」
怪人マッドハッター……否、フート=マルティウスは仮面の下で目を瞠る。
自分は夢でも見ているのだろうか? これは本当に現実なのか?
「どうして……? 君は……」
『死んだよ』
さらりと自分で口にし、テラス――の幻影は種明かしをする。
『この僕は僕であって僕じゃない。テラスという人間自体は死んでいる。ここに映っているのは、魔導で記録した思念』
言われて見てみれば、テラスの身体は淡い光の集合体で出来た映像だった。普段なら気付くはずなのに、こんなことも見落とす程今のフートは憔悴していた。
混乱しているのはフートだけではない。モンストルム警部に会いによく現場に出入りしていたテラスのことは、ここにいる刑事たちもよく知っている。
彼らには二人の会話こそ聞こえないものの、その姿を見て驚き慌てふためく。
「テラス君……?! 一体どうして?! どうなってるんだ?!」
「と、とりあえずモンストルム警部に連絡だろう!」
マレク警部が複雑な表情で見つめる中、モンストルム警部の部下たちが慌てて警部に連絡を入れに走った。
『僕は“この世界の総てを知っている”。君にはこれで通じるだろう? “帽子屋”さん』
怪人マッドハッターことコードネーム“帽子屋”は気付いた。
その口上は、誰も姿を見たことがないという噂の情報屋――“ジャバウォック”のものであるということに。
「君が……? そう、君だったのか……」
怪人マッドハッターの仕事を何度も邪魔してくれた相手。
けれどジャバウォックはいつもどこかからかうように、遊ぶようにちょっかいをかけてくるばかりで、本気でマッドハッターを警察に捕まえさせようとは思っていなかった気がする。
彼が彼なのだと聞いて、不思議と納得が行った。
そもそも今のこの状況こそ、世界の総てを知るというジャバウォックでもなければ、作り得ないようなものだ。彼本人は死んでいると言うのに、思念を残して会話を成立させるなど――。
『危険な怪盗稼業なんかして、君のお兄さんが悲しむよ』
「それは、君の方こそ……」
テラスの方こそ姿なき情報屋として、教団の闇の深部に足を踏み入れすぎて、そして。
彼の父親のモンストルム警部は、今も息子の死を悲しんでいる。
「……」
フートは言葉を喪った。迂闊なことを言えば、零れてはいけないものが零れ落ちてしまう。
そんなフートに、テラスは――その幻影はそっと手を差し伸べる。
『もう、終わりにしよう』
彼らが初めて出会ったいつかの雨の日とは打って変わって晴れた夜空の月明かりの下、小さな少年は鮮やかな笑顔を浮かべる。
『僕と一緒に行こうよ、お兄さん』
「テラス君?」
先程までの自分の行動が、一種の暴挙に近かったことはフート自身も認める。テラスを喪い、ヴェイツェを喪い自分は自棄になっていた。
だからもはや真実と言う名の免罪符を掲げて、全てを壊すしかないと思っていたのだ。
しかし。
『もう誰かを傷つける必要なんてないんだよ。隠す必要も、偽る必要もない』
全て知られてしまった。
それでもアリスたちは怪人マッドハッターの真実を黙っていた。
自分も彼らの秘密を口にしようとは思わなかった。
……ああ、そうか。
「俺は……君が好きだった」
フートは仮面を外し、テラスへと向き直る。
テラスが現れた時点で踵を返しているので、警察には背中しか見えない。
白い仮面がからんと音を立てて屋上の床に落下する。
「君の聡明さに惹きつけられて、君の強さに憧れて……君をもっと知りたくて……」
年齢以上に賢いテラスに、最初は幼いころから聡明だった兄を重ねているのかと思った。
けれどテラスは、ザーイエッツとは全然違ったのだ。
己の能力をもてあまし世界を斜に見るような節のあったザーイエッツともフート自身とも違い、テラスは自分自身もその周囲の世界も総て、丸ごとそういうものだと受け入れて愛していた。
それがどんなに難しいことか、彼がジャバウォックだと知った今では尚更よくわかる。
彼が好きだった。だから。
「君に生きていて欲しかったんだ」
君がいない世界では生きていけない。
フートはテラスの方へ一歩足を踏み出した。
「!」
見守るマレク警部たちの前で、小さなその手を取る。
テラスがふわりと笑う。
『よかった。今度は届いた』
「今度は?」
『ハンプティ・ダンプティの時は間に合わなかったから。この手を取ってもらえる前に、教団に割り込まれちゃった』
――テラスはずっと、ヴェイツェを――ハンプティ・ダンプティを救いたがっていた。
アリスの言っていたことは本当だったのだと、ようやくフートも理解した。
頷いて顔を上げたところで、遠目に人影が見える。
「兄さん……」
『来たね、三月兎』
ムースと一緒に遠くのビルの屋上に立つ、今の自分とよく似た人影。
仮面を外したもう一人のマッドハッターの顔は、十歳年上のはずの兄は、今のフート自身にそっくりだった。
その十年の時のずれに、フートは反射的に“アリスト”と“アリス”のことを思い出した。
睡蓮教団に“時間”を盗まれて子どもの姿に――。
「そうか……それじゃ戻って来れるはずないよな」
十年前、七歳だったフートにその現実が受け入れられるはずもないと思われたのだ。
そしてフートは兄の事情も感情もようやく理解し、同時にそのこと自体を悲しむ。
あの頃の自分に何ができたとは思わない。
けれど、それでも。
「傍に……いて欲しかったよ、兄さん。あなたが一番つらい時に、俺を頼って欲しかった」
だからフートは怪人マッドハッターを継いだのだ。かつての兄の姿を完璧に模倣することで、自分自身の実力も兄に追いついたと証明したかった。
まだ容姿が成長しきらないたった十年で戻ってきたことこそが、ザーイエッツの意志だ。フートが彼を見つけ出すより早く、優秀な兄は一人遺した弟のところへ帰ってきた。でも。
「ごめんな、もう俺は、お前より大切なものを見つけてしまったんだ」
テラスの手を握り直しフートは歩き出す。
その瞬間、バンッと派手な音を立てて屋上の扉が再び開かれ声がかけられた。
「テラス!」
父親の声に、テラスは一度振り返り、口元に手を当てて子どもらしい無邪気な笑顔で叫ぶ。
『今までありがとう! お父さん!』
彼は最後まで笑って手を振りこう言った。
『僕、次もまた――お父さんの子どもに生まれて来るからね!』
喪失にやつれ蒼い顔をしていたモンストルム警部が崩れ落ちる。
イスプラクトル警部が慌てて駆けより、マレク警部が形式ばかりの追跡指示を出す。
けれど彼らも本当はわかっていた。もう「この」怪人マッドハッターを捕まえることはできない。
『さよなら』
再び手を繋ぎなおした二人は夜空を月に向かって歩いて行く。まるでそこにある見えない道が、彼らにだけ見えているように。
『ありがとう、アリスト』
また別の道からそれを見守っていた一団――アリス、シャトン、ギネカやネイヴ、ヴァイスたちにもちゃんと気づいていたテラスが声をかける。
『後は頼んだよ――我らの“アリス”』
◆◆◆◆◆
「行ってしまったわね」
「最後まで自由な奴だよ、テラスは」
“バンダースナッチ”ことフォリーから連絡を受け、テラスがやろうとしていることを聞いたアリスたちはそれを見届けるためにここに来ていた。
フートのことはずっと心配だったのだ。だが彼のことは、自分に任せてほしいとテラスがフォリーに伝言を残していた。
その伝言が思念を残す魔導というところにも驚いたし、その結末にも――。
フートが喜んでそれを受け入れたのだとしたら、アリスたちにはもう口出しできない。
テラスはフートを殺すとは言わなかった。
彼が正確にはどこにフートを連れて行ったのか。アリスたちにもわからない。
「さて、と」
そして彼らは次の問題へと向き直る。
ギネカが遠くへと視線を向き直し口を開いた。
「それで、あっちはどちら様?」
フ ートと同じ顔をした、もう一人の怪人マッドハッターを睨み付ける。
◆◆◆◆◆
深夜の大富豪の屋敷の一室。令嬢は不完全燃焼な気持ちを抑えきれず持て余していた。
「今日のマッドハッター様のあの態度……なんだかおかしかったわ」
テレビでそのパフォーマンスを見ている限りでは、もっと素敵なはずだったのだ。
しかし現実で出会った彼は、冷たいくらいに素っ気なかった。
「機嫌でも悪かったのかしら……? それともテレビが持ち上げていただけで、あれが本当の彼の姿……?」
考える傍ら、いきなり窓から差し込む月明かりが陰ったことに驚き彼女は窓辺を見遣る。そこに。
「こんばんは、お嬢様」
「え……! マッドハッター様!」
漆黒のマントに花の飾られたシルクハット、謎めいた仮面の怪盗が彼女の部屋のバルコニーに降り立った。
「私の用事が無事に終わりましたので、こちらの首飾りをお返しに参上しました」
首飾りを渡したこともすっかり頭から抜け落ちていた彼女は呆然とそれを受け取る。
これで用事は終わりかと見上げた彼女の視線の先で、怪人は露わになった口元に柔らかな微笑みを乗せて礼を言った。
「ありがとう、お嬢さん」
「え?」
「あなたのおかげで、私は今日、久方ぶりに大切な人と再会できたのです」
彼女には全く何のことかわからない。しかしミーハーながら、一つだけ気になって尋ねた。
「大切な人って、女性?」
「いいえ。兄弟です。十年も顔を合わせていなかった弟に、ようやく会えた……」
彼女はそれで納得がいったと手を合わせる。
「では先程様子がおかしかったのは、久しぶりに御兄弟に会うのに緊張されていたのね!」
怪人マッドハッターはただ微笑む。そしてぱちりと指を鳴らすと、どこからともなく薔薇の花束を取り出した。
「これは、そのほんの御礼です」
「まぁ……!」
大富豪の令嬢たる彼女から見ても見事な花束に一瞬目を奪われると、その隙に怪人は部屋から姿を消していた。
「あ……」
きょろきょろと当たりを見回した少女はひとつ息を呑むと、窓辺に駆け寄ってもはや姿の見えない人に届くように声を張り上げた。
「さようなら、マッドハッター様!」
そして彼女こそが、この帝都で怪人マッドハッターと言葉を交わした、最後の目撃者となる。