Pinky Promise 152

第7章 黄金の午後に還る日まで

26.歩兵は白の女王へ 152

「じゃあダイナ先生は、ずっとそのことを知らなかったの?」
「ええ。あなたたちは普通に生活していて、睡蓮教団のコードネームの話なんて聞く?」
 元々普通でないところのある神の眷属たちはともかく、学生陣は顔を見合わせた。
「聞かないです」
「……俺たちが睡蓮教団のコードネームを知るようになったのは、彼らの起こした犯罪に巻き込まれたからだ」
 ネイヴが静かに頷く。
「そうでしょう……私も知らなかったわ。ハンプティ・ダンプティ――アヴァール君の一件があるまでは」
 ヴェイツェとテラスの死を発端に教団に関して調べ始め、ダイナは今の教祖がレジーナ関係であることに気づいたと言う。
 彼女の父親の野心とその事情を知っていれば、薄々察しはつくことだ。
 ここ数か月、ヴァイスとアリスの周囲では様々な教団関係の事件が巻き起こっている。
 隣人であるダイナも無関係ではいられない。いられなかったのだ。
「私たちが巻き込んでしまったか」
「いいえ。違います、ルイツァーリ先生。ここからは、私自身の問題です」
 ダイナは箱庭を作り、レジーナに与えた。けれどその後ダイナ側が両親の再婚の関係で引っ越して、レジーナと顔を合わせることが少なくなっていった。
 その間、彼女は一体どうしていたのだろう。
「もしもこれがレジーナの引き起こしたことならば、私が傍にいれば、止められたかもしれないのに」
「いいえ」
 しかしダイナの悔恨に対しては、シャトンが否定した。
「結局、最後の選択はみんな自分の意志で行うの。寂しいから罪を犯すなんてのは、免罪にならないわ」
「シャトン……」
 アリスは気遣わしげに、この事件の始まりからずっと共に歩んできた少女の横顔を見つめる。
 幼い頃に両親を失い、過去を取り戻したくて時を盗む禁呪を開発したシャトン。
 けれど彼女はその罪を、その罪を生み出した自らの弱さをもう認める。
 感情は止められない。けれど、それが誰かを傷つけるような事態に繋がるのなら、間違った行動はどこかで止めねばならない。
「……そうね」
 ダイナも頷いた。
 これから先の未来へ現実を戻すためには、ここで「物語」という横道に逸れてしまった過去と今を繋がねばならない。
 夢は醒めるものだ。
 そうでなければ、現実での救いは得られない。
 ハンプティ・ダンプティはそう言っていた。
 その言葉に背を押され、ダイナの過去を、アリスは――アリスト=レーヌはここで初めて聞く。
「レジーナさんの事情はわかった。じゃあ、ダイナ姉さんの事情は?」
 夢から醒めるために、全ての真実に向き合う時が来たのだ。
「背徳神の魂の欠片を持って生まれて来るのは、何もあなたたちだけじゃない。でも多くの人たちは、少しだけ特別な力を得ても自分がそんな風に異質だなんて気づかない」
 ヴァイスもシャトンもヴェイツェもザーイエッツも、切欠がなければ自らの中の背徳神の魂の欠片に人生を左右されることなどなかっただろう。
 同じように欠片を有してはいても、何の特質も得ず睡蓮教団に目をつけられることなく、平穏無事に生きて人生を終える人間はいくらでもいるだろう。
 だがダイナはそうでなかったと言う。
 ならば、彼女自身が自覚する程に、彼女を異質たらしめているものとは何だ。
「あなたの何が人と違うの?」
「私は……」

「人の感情がわかるのよ」

「感情……?」
「心を読めるってことですか?」
 まさかの言葉に、より詳細が知りたいとギネカが食いつく。ギネカ自身も、接触感応能力と言う、自らが触れた相手の記憶を読む力を持っているのだ。
「それに近いわ。でもそんなに正確なものでもないの。相手の気分が良いか悪いか、喜怒哀楽に始まる感情の質をなんとなく読み取れるのよ」
 アリスたち、ダイナの親しい者たちはハッとする。
『嬉しそうね』『落ち込んでいるみたいね。何かあったの?』『そんなに怒らないで。落ち着いて』
 人の気持ちをすっと、読み取るところがあるダイナ。
 あれはただ彼女が人の感情に敏い人間と言うのではなく、そういう能力だったのか。
 なんとなく人の心がわかる。
 言ってしまえばそれだけの能力。だがその中途半端さが良かった。内心を正確に言い当ててしまえばさすがに気味悪がられるし、他者の感情に引きずられる。けれどダイナの力は、人よりほんの少しだけ敏感に相手の感情を察することができるだけ。
 怒っている者の「今は話しかけないで」も、悲しんでいる者の「慰めて欲しい」も察して、相手の望む通り的確に接することができる。
 人付き合いが上手くなる訳である。そして他者から信用され頼られれば、自然と愛想も良くなってますます人に好かれていく。
「学内では変人講師と有名なヴァイス先生とも平然と付き合える訳ですね……」
「おい、待てマギラス」
 ギネカが思わず漏らした本音に、ヴァイスが不服を唱えた。
 だがギネカには他人事ではない。
 ギネカはまさしくその点でこれまで苦労してきた人間だからだ。全てを接触感応能力のせいにする訳ではないが、ギネカはダイナと違って人の感情ではなく記憶を読み取る。
 その事情を正確に把握しすぎてしまうために、逆に具体的な対策を出さずただ愚痴に付き合ったり慰めたりという役割は苦手なのだ。
 今はアリストやエラフィたちのような友人と付き合っているが、それまではやはり辰砂の魂の欠片を持つが故に敏すぎる子どもだったネイヴとばかり一緒にいた。
 そしてダイナは、人が大なり小なり味わうそんな悩みとは無縁だった。
「私はこの力で、随分得をしてきたわ」
 相手の感情をなんとなく感じ取れるため、ダイナはいつも相手の望む通りのことをしてきたと言う。
「でもね……そのうち、私自身にも本当の自分の姿がわからなくなってしまったの」
 一同は再びハッとする。
「私が相手に返す言葉は、相手が望むもの。だとすればそれに、私自身の感情や意志はないわ。私はただ鏡のように、相手の望みをそのまま映しているだけ」
 面倒な人間関係で成り立つこの世界でほんの少し生き易くなるためだけに、人に望まれる自分という偶像を打算で演じてきた役者に過ぎない。
「本当の自分なんて、どこにもいない……私は本当は……」
 淡々とした抑揚に反し、それは彼女にとっても、それを聞く者にとっても、あまりにも悲痛な告白だった。

「誰も、愛してなんかいないのかもしれない」

 あまりにも望まれる自分を演じすぎて、もうそれが本心なのか、自分が本当にその相手の望みを叶えたいと思っているのか、わからなくなってしまった……。
「……」
 思わず静まり返る部屋の中、特に付き合いの深い知人たちと隣人に、ダイナは眉を下げ困ったような笑みを向ける。
「幻滅した? でも、これが本心よ。私には、人を愛するということがどういうことかわからないの」
 自分の今の気持ちはただ相手を映すだけの鏡なのか、それとも心から相手のためを思っているのか、区別ができない。
 区別ができる程に激しい情動が、ダイナ自身の中にないのだ。
「誰も愛してないって……じゃあ家族は? 亡くなった御両親や、アリストのことは――」
「マギラス!」
 再び口を開いたギネカに、ヴァイスは今度は別の意味で制止をとばす。
 だがダイナはそれに関しても誤魔化さなかった。
「……わからないわ」
「ダイナ」
「ヴァイス、最後まで聞こう」
 そしてアリスも逃げなかった。ダイナにこのことを聞いたのはアリス――アリスト=レーヌ自身なのだ。
「私は、弟のアリストを本当に愛しているのか、わからないの」