第7章 黄金の午後に還る日まで
26.歩兵は白の女王へ 153
室内は凍りつき声もない。
ダイナには表面上の説明しかしていない。
けれどこの場にいる、彼女以外の全員が、もはやアリスの正体を知っている。
アリス=アンファントリーこそアリスト=レーヌなのだと言うことを。
そのアリストに対し、姉であるダイナは愛しているかどうかわからないと言った。
「嘘でしょう……ダイナ先生……」
ムースが震える声を上げる。
「だって、アリスト君と先生は、あんなに仲の良い姉弟だってずっと……」
「ムース」
ザーイエッツがそっとムースの髪を撫でて下がらせる。
「アリストだけじゃないわ……あなたたちのことも、他の生徒たちのことも……私は、本当の意味で愛しているかどうかわからない――」
少なからず衝撃を受ける面々を余所に、一歩前へと踏み出したのはアリスだった。
「本当の意味って何?」
「アリス」
シャトンが呼びかける。彼女はアリストのことも知っているが、この姿の「アリス」の方こそ馴染みが深い。
ギネカやムースは思わずアリストと本名で呼びかけてしまわないようにするので精一杯だ。
アリスは更に一歩踏み出して、ダイナと真っ直ぐに対峙する。
「ダイナ=レーヌ」
姉さんとも先生ともつけず、一人の人間としてのダイナに向き合う。
まだアリストとして、彼女の弟としての姿を取り戻していないことも好都合だ。
否――。
アリスがこの姿になったのは、この日、この時のためだったのかもしれない。
「心配しなくても、あなたはもう、本当の愛情を知ってるよ。あなたが俺に、みんなに、今まで与えてくれたものは、何一つ嘘なんかじゃない」
「アリス君」
姿こそ違うが今、心から笑えていると言える。
「誰かの望む自分を演じるのは、その人に嫌われたくないから、愛してほしいからだろ?」
答をもう知っているから。
「愛していないなら、自分を偽ってまで傍にいようとなんてしない」
ヴァイスが、シャトンが。
ギネカが、ネイヴが、ムースが、ザーイエッツが目を瞠る。
彼らはアリスが……アリスト=レーヌがアリスと名を偽り、姿を変えられてまでここにずっといたことを知っている。
そして怪盗とその相棒たちは、自分自身も親しい友人たちに秘密を持ちながら、それでもずっと傍にいた。
ジャバウォックの正体であったテラスも。
ハンプティ・ダンプティのヴェイツェも。
今はいないもう一人の帽子屋ことフートも。
本当は自分をよく知る友人の傍よりも、誰も自分のことを知らない場所に逃げた方が、正体がバレる心配などしなくて済んだのだ。
けれどそうしなかった。
自分を偽ってでも、例え真実を告げられる日が永遠に来なくても。
ただ、大好きな人の傍にいたかった。
一方的に子どもの姿にされた被害者でありながら、その運命に立ち向かい素性を偽ってでも皆の傍にいた、アリスだから言える言葉だ。
「アリス……」
「お前……」
真実を話してしまう方が楽だ。それはできなかった。それなのに傍にいた。どうしようもなく。
「本心から愛することと、努力して愛そうとすることに、どんな違いがあると言うの?」
「……」
「誰かへ助言をする時に、相手の求める答を与えるために必死でその人のことを考えて言葉を紡ぐ。それは、その誰かを本当に愛する人が、その人のためを思って口にする言葉と、何も違いなんてない」
心の中で違うと区別していても、自らのとる行動は同じ。
そして人は、心のままに動くことが常に正しいとも限らない。
怒りを堪えるべき場面や、悲しくても立ちあがらなければならない場面がある。感情のままに動くだけでは決して正しい道には進めない。
「ハートの女王に向けて言ってたじゃないか」
――ハンプティ・ダンプティは殺人者だよ? それなのに君は、彼を庇うのかい?
――それでも彼は、私にとって大切な生徒であることに変わりはないわ。
――レジーナ、あなたにどんな事情があろうと、私の大切な生徒に手を出した。あなたを見逃す訳にはいかないわ。
「本当に誰も愛していないなら、死んだヴェイツェやテラスのために、友人であるハートの女王を止めようとなんてしないよ」
死者はダイナに何も与えてくれないのだから、今生きている者の機嫌をとればいい。
けれどダイナは、友人であるレジーナがこれ以上人を傷つけるのを見過ごせないと、彼女を止めることを選んだ。
それはダイナにとって大切な生徒たちへの愛情であり、レジーナにこれ以上誰かの悲しみを作り出して欲しくないという友情だ。
「あなたは自分で考えて、自分で望んでこの道を選んだんだ。相手に都合のいい答を返すだけの鏡なんかじゃない。俺たちはあなた自身を知っている。あなたの愛は、ちゃんとここにある」
「……!」
ダイナが目を瞠った。
人は鏡を使わなければ、自分で自分の顔さえも見えない。
けれどここにいるアリスには、ちゃんとダイナの顔が見えている。
求める程に遠ざかる鏡の国よ。
子どものアリスの姿しか映してくれない残酷な現実よ。
それでも、真実はここにある。
「何もせずそこに生まれる無償の愛なんかじゃなくていいんだ。人は努力して愛を育んでいく。ダイナとアリストが、努力して家族に、本物の姉弟になることを選んだように」
彼女に真っ直ぐ向き合えば、誰だって彼女の持つ愛情に気づける。
「だから……いいんだよ。姉さん」
「……アリス君」
「アリストだってきっとわかってる」
ダイナがアリストの帰りを待たずに行動に出たのは、アリストを信じていたからだ。
常に甘やかしていなければ愛情を返さないような弟ではないと、アリストならばダイナの帰りも待っていてくれるだろうと信じたから。
「……そうですよね」
ムースが納得したようにうなずく。
「ダイナ先生が本当に都合のいい相手だけを求めているなら、ちょっと親切にしただけでストーカー紛いの重すぎる好意を向けてくるヴァイス先生といまだに普通に付き合える訳ありませんよね」
「お前らさっきから私をオチに使うのはやめろ」
ギネカといいムースといい、本日の女性陣はやたらとヴァイスに厳しい。
生意気な生徒たちを押しのけて、ヴァイスはダイナの前に進み出る。
「ダイナ、君の考えていたことはわかった。だがな、侮らないでもらいたい。我々だって、君が自分たちに向けている感情がどのようなものかくらいわかっている。本物ではない感情にこれだけの人間が動かされるはずないだろう」
「ルイツァーリ先生……」
「気負い過ぎなんだ、君は。自分がいつもなんとかしないとと考えすぎていて、自分なら周囲を欺けると自信も持っている。確かにそれは真実だろう。けれど、本当の君を見ている者たちもちゃんとここにいる」
秘密を明かしたダイナこそがまるで初めてヴァイスと出会ったかのような顔をし、ヴァイスの方は、あくまでもずっと昔から知っていて変わらない相手に向ける表情を浮かべていた。
「少なくとも私は、ずっと君自身を見てきたつもりだ」
「……っ」
なにをやらせても卒なくこなす才女、誰に対しても人当たりの良い理想的な教師。
その一方で、どこか危ういところのあるダイナ=レーヌを。
この中でアリスの次に、いや、アリスと同じくらいダイナを見てきたヴァイスの言葉に、さすがのダイナも動揺したようだ。
……ちなみに背後でギネカやムースやシャトンも動揺しまくっているのだが二人の目には入っていない。そして二人の間に割り込もうとするアリスをネイヴとザーイエッツがまぁまぁと宥めているのも目に入っていない。
「我々と手を組もう、ダイナ」
そしてヴァイスは、改めて協力を持ちかける。
「私たちには君の力が必要だ。そして君の目的のために、私たちも力を貸す」
「……はい」
ダイナが小さく、けれど確かに頷く。
ずっと誰も愛せないから、一人で物事を成さなければと思っていた。
けれど今なら、その申し出も信じられる。
「ありがとう……ルイツァーリ先生」
最後の役者がここに揃った。