第7章 黄金の午後に還る日まで
28.物語の終わりに 164
ハートの女王は言った。
「誰だって、結局自分が生き易いように世界を作り変えるしかないのさ」
その世界が身近な周囲の環境か、自分自身か、本当に世界そのものかは人によって異なる。
だが誰もが、自分が生き易いように努力していることには変わりない。
その努力を否定されるならば、その人物は死ぬか、もしくは――。
「もうこの世界にはいられないみたいだから、“影の国”へ行くよ」
「影の国?」
“不思議の国”でも、“鏡の国”でもなく。
「影の国は、そういう名の異界よ。『不思議の国のアリス』とは関係ないわ」
「かつて、背徳神が閉じ込められていた常闇の牢獄を基点として作られた、この地上の裏側にあるもう一つの世界」
「……迷信ではなかったのか」
その名を知る者たちが、それぞれに驚きの表情を浮かべる。
「迷信じゃないよ。ただ……」
ゲルトナーが憐れむように表情を歪めた。
「君はそれほどまでに、僕らに近いのか」
あの世界を創ったのは、ジオの弟子だ。
「そうだよ。だからこの世界に居場所はない」
劣勢に陥り、もはや根拠地どころか組織ごと全てを捨てるしかないハートの女王は断言する。
そして、先程死んだグリフォン以外の、ここまで彼女を信じてついてきた部下たちに問いかけた。
「君たちはどうする? ハートの王、ニセウミガメ」
「お供します。当然でしょう。私の主はあなたです」
ハートの王が即断し。
「……連れて行ってください、陛下」
意気消沈していたニセウミガメもが、付き従う意志を見せた。
「盗んだ時間は世界に飛び散り、もう教団は虫の息。これ以上彼らとやりあうよりも、この世界で隠れ生きる方が楽だよ?」
「それでもです!」
教団の力で神を、ひいては死者を復活させることも叶わなくなった。
自らの目的であり積年の願いを失ったニセウミガメだったが、ここで生き方を変えるような真似はしなかった。
「恩師を喪って絶望していた私を再び立ち上がらせてくれたのは、ハートの女王、あなたです」
「……やれやれ。仕方のない子だね」
ハートの王とニセウミガメの意志が固まったところで、今度は彼らとはまったく対照的に気楽な様子ながら、赤騎士と白兎もハートの女王の傍らに従った。
「では、我々も付き合うか」
「そうだね。乗りかかった船だし」
「あくまでも我らと敵対する気か? 皇帝よ。お前たちがたかが人間一人に本心から忠誠を誓うとは思えんが」
マレク警部こと白の王が、自分たちと近い存在である二人に問いかける。
「組織への忠誠なんかはないけども、彼女に同情くらいはしているよ?」
白兎や赤騎士にとっては、教団として活動したこの十年やそれ以前の何十年、そして今から再び数年が経とうとも、彼らの永い永い人生に比べてはほんの儚い一瞬にしか過ぎない。
赤の王はどうでも良かった。だから見殺しにした。
教団の下っ端に関しては、白の王国も殺したりはしないだろう。彼らはこんなでも一応平和主義者だ。
ハートの女王を失った睡蓮教団がまだ彼らや警察に抵抗し続ければ別だが、そもそも構成員に一般的な信者も多い教団は、トップが逃げれば残された者たちは無茶をしない。そういう組織だ。
けれどレジーナの体質の秘密を共有できる人間は限られている。
「俺たちは、やりたいようにやるだけ」
物語を見守るのも、アリスを庇ったのも。
白兎と赤騎士の中で、その方がより良い結果になると考えたからだ。
彼らはこの結末をどこかで待ち望んでいた。
チェシャ猫の開発した禁呪を盾に、全てを誤魔化すのにも限界がある。むしろ十年もよく保ったほうだ。
最後に、ハートの女王はアリス――アリスト=レーヌへと目を向ける。
「やれやれ、白の歩兵は無事に白の女王に成ったのか。やはり君がゲームの終了を引き連れて来たね。夢を醒ます者よ」
小さなアリスが目覚めれば、物語の世界は終わるのだ。
不思議の国の住人はただのトランプへと戻る。
「大事な友人が教えてくれたんだ。夢から醒めなきゃ、現実での救いは得られないって」
「僕には、その現実こそが地獄なんだけどね」
死と言う解放すら得られないハートの女王は、首をお切りと叫び続ける狂気へ逃げ込むしかなかった。
ようやくアリストもそれを知った。だが。
「本当にそれしかなかったのか?」
「なかったよ。とは言っても、君は認めないだろうね」
どんな時も光に向かって歩める者と、闇の中でしか生きられない者。越えられない永遠の隔たり。
アリストはずっと、睡蓮教団が何故こんなにも残虐なことができるのかと不思議だった。
ようやくわかった。
彼らにとって、死は残酷でも非道でもないのだ。
ハートの女王は不死なる身体を持ち、信者は神の復活を願う。彼らにとって死は永遠の離別ではない。
「あんたが本当に殺したかったのは、他の誰かじゃなくあんた自身じゃないのか?」
「……さぁね」
しかしそれは、死者にはもう二度と会えないという現実からの逃避なのだ。
鏡の国では求める程に、全てが遠ざかる。
「君の出番はここまでだよ、アリスト=レーヌ。夢から醒めた者の役割は終わった。――現実に帰るがいい」
「ハートの女王」
レジーナ=セールツェはまだ“ハートの女王”だ。
アリスト=レーヌはもう“アリス”ではない。
睡蓮教団のトップとしては、彼女はアリスにとってその野望を挫かなければならない相手だった。
けれどハートの女王と言う仮面を外した一人の女性として、彼女は本当にアリストの敵だったのだろうか。
あれほど残酷な殺人鬼だと思われていたハンプティ・ダンプティは友人だった。
友人であったはずのフート……もう一人の帽子屋とは手を組むことがなかった。
誰もが己の目的のために時に手を組み、時に敵対しながら生きていた。
争う相手こそいても、本当の敵などどこにもいないのかもしれない。
ハートの女王を中心として、足元から伸びた影が彼らを包み込む。
「さよなら、僕たちの世界。僕たちの“アリス”よ」
彼女は、最後に小さくそう呟いた。
地上に居場所のない女は、地下へと逃げる。そこにどんな冒険が待っているのかはわからないが……。
「……今ので、その世界に行ったってこと?」
「いいや、今のは影渡りという魔術だ。使える者は少ない上にその使用者はほとんどが人間ではないはずだが……」
影の国に渡る方法も限られている。そのほとんどは、普通の人間には使えない。
わからないことはまだまだあるが、目の前からハートの女王たちが消えたことだけは確かだった。
「まぁ、とりあえず……」
「これで奴らを、帝都から――この世界から追い出すことには成功したな」
一つの戦いが終わり、けれどまだ何もかもが終わっていなかった。