Pinky Promise 165

第7章 黄金の午後に還る日まで

28.物語の終わりに 165

 ――そして姉弟は再会する。

「あの……姉さん」
「アリスト」
 レジーナたち睡蓮教団が消え、構成員のほとんども白の王国の手勢が拘束し終えている。
 戦いは終息に近づいていた。
 そのような状況下での、不意の再会だ。
「なんか、大変だったみたいだね」
 ダイナにはアリスがアリストであることは話していない。
 ここに姿を現すのは不自然だ。
 何事もなければアリスはそのまま帰り、最後に一度だけ怪盗ジャックことネイヴの催眠能力で姿を誤魔化してダイナに会い、別れを済ませるはずだった。
 しかし、ハートの女王の予想外の真実に驚き、出て来ざるを得なかったのだ。
『不思議の国のアリス』原作では、「アリス」は「ハートの女王」とパイ泥棒のジャックの裁判で相対する。
 けれどこの戦いにおいては、アリスとハートの女王の相対はほんの一瞬だった。
 アリストは無事に元の姿を取り戻すことができたが、他の者たちにとっては教団との戦いにまだ決着はついていない。
 それでも、今はまず、ダイナに会わねばならないと思った。
 季節はとっくに春を過ぎ、夏を迎えようとしている。
 その間にいくつもの事件があって、何人もの人がアリストの傍を通り過ぎて行った。
 もう二度と戻らないものがあり。
 まだ、手の届く人がいる。
 他のことは他の人にも替わってもらえる。
 けれど、ダイナの弟であるアリストはたった一人だ。
 だから。
「……ただいま」
 アリストはダイナの真正面に立ち、ついにそれを告げた。
 永かった。終わってしまえばそれは長い人生の中のほんのひとときと称される程度の時間かもしれない。けれどこの数か月は、アリストのこれまでの人生の中で、最も永く感じられた時間だった。
 やっと帰って来れた。
「アリスト……」
 それまで冷静な表情を崩さなかったダイナの顔が、いきなりくしゃりと歪む。
「え?」
 アリストは思わず声を上げた。
 今、彼の眼の前にいる女性は、あまりにもこれまでのダイナと印象が違い過ぎる。
 飛び込んで来た細い体を思わず抱きしめて、呆然としながらその震える声を聞いた。
「会いたかった……!」
 姉は絞り出したような声で告げた。
「姉さん……」
 まだ身長こそ追い越せていないものの、気づけば腕の中の身体は、十七歳の少年であるアリストに比べて、あまりにもか弱く華奢だ。
「馬鹿ね、私……今まで気づかなかった……本当はこんなにも、あなたに会いたくて仕方なかったのに……!」
 あの気丈な姉が涙ぐんでいる。
 アリストも思わず、瞳に涙を浮かべた。
「俺も……俺も寂しかった……」
 傍にいたのに。
 姿こそ違えど、ずっと傍にいたはずなのに。
 それでも彼女が見るのは子どもの姿のアリスであって、アリストではない。
 そのことが、こんなに寂しかった。
 ようやく理解した。ようやく取り戻せた。
 世界でたった一人の家族のもとに、ようやく帰ってきた。
 だから言える。
「ただいま、姉さん」
「おかえりなさい、アリスト」
 色々と話さねばならないことはあるのだろう、二人とも。物分かりの良い姉でいようと、自分の問題は自分で解決できる弟でいようと、お互いに自分自身の寂しさに蓋をして無理を重ねていた。
 けれど、まだ終わっていない。
 アリストが自分を取り戻す旅は終わった。しかしダイナが友人を取り戻す戦いはこれからだ。
「せっかく帰ってきてくれたのに、ごめんなさい」
「ううん。おれも随分、姉さんを待たせちゃったから」
 先程のハートの女王とのやりとりを見ていれば、これからダイナがとる行動など明白だ。
「私は行かなければ。レジーナを止めに」
「うん、友人のためなら仕方ないよな」
 いつかしたように、小指同士を絡めて約束する。

「行ってらっしゃい、姉さん。俺はずっと待っているから」
「行ってきます、アリスト。必ず帰って来るわ」

 ――そして、姉弟は再び別れる。
 己の道を行くために。

 振り返ったダイナは集まってきた白の王国の者たちに告げる。
「影の国に、ハートの女王を止めに行きます」
「止める、な。殺すではなくてか」
「殺すことはできません。彼女は、私の友人ですから。……友人である私が、レジーナを止めなくてはならない」
 白の王国は当然、睡蓮教団を完全に潰すことが目的なのでダイナに同行し彼女を手伝う。あるいは彼らの目的に、ダイナが協力すると言うべきかもしれない。
「ダイナ先生……」
 ギネカが呼びかける。彼女はヴェルムと一緒に教団の犯罪の証拠を集めてきた。
「俺も行きます。教団を潰すのは俺の悲願ですから」
「エールーカ探偵」
「いくら俺が魔導士でないからって、一番肝心な部分を人任せで終わりにはできません」
 教団は教祖であるレジーナを止めない限り何度でも復活する。それだけの求心力をすでに彼女は持っているのだ。
 不死なるハートの女王。彼女はそうして生き続ける限り、教団を必要とする。
「ならば私も行きましょう」
「怪盗ジャック……」
「探偵殿と同じ理由ですよ。私は、これまで彼らを滅ぼすために生きてきたのですから」
「いいのか? ネイヴ=ヴァリエート」
「ええ、とうぜ……んえ?!」
 いきなり本名で呼ばれて、怪盗ジャックの澄ました仮面が一気に剥がれ落ちる。
「……バレてる?」
「俺を侮りすぎだ。お前の正体なんて、とっくにわかっていたに決まっているだろう。極めつけはギネカとの交友関係だ」
 証拠らしい証拠こそ怪盗ジャックは残さなかったが、ヴェルムはとっくに怪盗ジャックらしき人物に当たりをつけていたのだと言う。
「でも、それならどうして俺を捕まえなかったんだ……」
「……さぁな。それより今は、教団のことだ」
「そうだね。ではその理由を是非とも探偵殿からお聞きするためにも、早くこの戦いを終わらせなくちゃな」
 帝都を騒がせる怪盗と、それを追う探偵。余人の知らないところで、この二人にもあるいは顔を知っている知人同士以上に、お互いの本質を理解するような場面が何度もあったのだ。
「ギネカ、お前は……」
「言われなくても、ついていったりしないわよ。私じゃ足手まといだもの」
 ギネカは魔導の才こそヴェルムよりはあるが、それだけだ。
 確かに料理女としてネイヴに協力し続けたが、その目標はこの世界で教団の被害者をなくすという現状でほぼ達成された。異世界までハートの女王を追撃するような気力も余力もない。
 一方、もう一組の怪盗と相棒の答は、怪盗ジャックと料理女とは異なる。
「ムース、お前は来てくれるか?」
「ええ。ザーイ。今度こそ、どこまでもついて行くわ」
 外部での支援から合流したムースに、ザーイエッツが問いかけて二人は同行を決めた。
 離れていた時間の長かった二人は、もうその手を離すことはないのだろう。
眠り鼠ことムースは、怪人マッドハッターであるザーイエッツについていくことにしたのだ。
 ザーイエッツは今回の一件で、無事に盗まれた時間を取り戻したのだが……。
「正直俺、あんまりザーイが変わったように見えない」
「私も」
 げに恐ろしきは美形の遺伝子よ。十七歳の姿の時より若干体格が良くなった気がしないでもないが、ザーイエッツは盗まれた時間を取り戻してもアリストやシャトン程の劇的な変化はなく、ほとんど十七歳の頃と変わらなかった。
 ――恐らくフートがあのまま年齢を重ねたら、少し大人びてこうなっただろう姿だ。
 でもそのフートはもういない。弟のためにも、ザーイエッツはハートの女王と直接決着をつけるつもりだ。
「あとはいないのか?」
「って、ヴァイス、お前も?!」
「当たり前だろう。私がここで行かぬはずがない」
「ルイツァーリ先生……けれど、あなたまで学院からいなくなってしまったら……」
「私がいなくても、もうこいつらはなんとかなるだろう」
 ヴァイスは一度だけポンとアリストの頭を軽く叩くように撫でて、ダイナの隣へと立つ。
「元々は十年前、私が奴らを取り逃がしたことから始まった」
「ヴァイス、それはお前のせいじゃ」
「と、言うとでも思ったか?」
「?!」
「自分がこの手で引き起こした訳でもないことの責任を押し付けられたり、解決を求められるのはもういい加減うんざりだ。黒い星の持ち主を頼るばかりの他力本願な教団は、いい加減にここで潰す」
「……ヴァイス」
 最後まで格好良いヒーローのようなことは言えない男である。
「この世に私怨以上に強い感情があるものか。この私を怒らせたこと、せいぜい後悔するがいいさ」
「そういえばこいつ、面倒くささにかけては天下一品のストーカー野郎だった……」
「ヴァイス先生……」
 テラスやヴェイツェのことでずっと落ち込んでいるよりはいい……のか?
 生徒たちは半分呆れかえり、けれど心のどこかでその結論に安堵していた。