Pinky Promise 166

第7章 黄金の午後に還る日まで

28.物語の終わりに 166

「これだけの戦力がいれば、十分そうね」
「ああ……って、チェシャ猫、お前まで……」
 ダイナやヴァイス、探偵や怪盗たちとムースに続き、シャトンこと“チェシャ猫”までもがそう言いだした。
 小さな少女の姿に与えられた名、シャトン=フェーレース。しかしシャトンの事情を知らないダイナがいるここで、直接その名を呼んでしまうわけにはいかない。
 ここにいることでもう全てバレているかもしれないが。それはアリストも同じだ。
 シャトンの姿から時間を取り戻したことで、彼女はアリスたちとは逆にコードネーム“チェシャ猫”へと戻ったのだ。
「私にはどうやら、色々な意味であの人に責任があるみたいだから」
 チェシャ猫の参戦表明に続いて、別の女も声を上げる。
「すぐに決着がつけばいいけれど、長期戦の可能性もあるでしょう。サポートは必要じゃないかしら」
「ジェナー……」
 名を呼んだヴェルムに対し、“公爵夫人”が微笑んだ。
 ジェナーはここまでヴェルムをサポートしてきた。そしてこれからも出来る限り彼を支えていく。
 助けられた恩があるからだけではなく、今ではもう、ジェナー自身がそうしたいと考えているからだ。
 直接戦闘力の低いヴェルムも、ジェナーやチェシャ猫と組めば出来ることは広がるはずだ。
 ここまで一緒に戦ってきた面々が、次々に参戦を決めていく。
「行って来るわ」
「……」
 チェシャ猫の決意に対し、アリストは何も言えなかった。
 ハートの女王の事情に関し、チェシャ猫はこれまで一切知らされていなかった。
 けれど自分が作り出した禁呪を利用されたこと、ハートの女王が苦痛から逃れる役には立ったかもしれないが、そのせいで本来傷つくはずではなかった人々まで傷つけてしまったことには変わりない。
 ダイナやヴァイス、ザーイエッツが戦いに赴く気持ちはわかる。だがチェシャ猫に関しては、盗まれた時間を解放したことで、もうそろそろ彼女自身も救われてもいいのではないかと考えていた。
 けれど、彼女自身はまだ戦う気でいる。
「ねぇ、アリスト」
 そんなチェシャ猫に、この世界に残るアリストに出来ることは限られている。
「待っていてくれる? 私のことも」
「……ああ」
 ただ、頷いた。
「ああ、もちろん。だって……」
 あまりにもささやかなチェシャ猫の願い。それはわざわざ望むようなことではなく、もはや彼女の当然の権利だ。
「お前はもう、俺たちの家族だろ?」
 姉であるダイナとは違うが、シャトンもまた、アリストにとっては家族だ。
 姉であり妹であり、半身でもあるような存在。
「ちゃんと待っててやるから、ちゃんと帰って来い――お前はハートの女王とは違うんだ。もう知ってるだろ? この世界に、お前の居場所はある」
 チェシャ猫は笑顔で頷く。
「……私、もう過去を取り戻したいなんて言わないわ」
 自分の知らないところで想像もつかないような罪を生み出していたことを知ってしまったけれど、それでももうチェシャ猫は過去に戻る禁呪が欲しいなどとは言わない。
 生きて、未来を変える。この先この世界で、睡蓮教団と自分の生み出した禁呪で悲しむ人が増えることのないように。
 それが、彼女の償いだ。
「こちらの世界の後のことは、バンダースナッチがいれば十分だろう」
 フォリーがテラスから教えられて上手く取り計らってくれるだろうと、ヴァイスは最後の確認をとる。
「それでは、お前たち」
「みんな」
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」

 そうして彼らは、異界への門へと飛び込んだ。

 白の王国とダイナが協力して開いた魔導の門が消えると、いきなり辺りがしんと静まり返った。
「……結局、残ったのは私たちだけね」
「そうだな」
 怪盗ジャックであるネイヴと別れ、自らこちらの世界に残る選択肢をしたギネカと、ダイナやシャトンの帰りを待つ約束をしたアリスト。
 あとはダイナもヴァイスも白の王国も、ヴェルムもネイヴもシャトンもジェナーも、ザーイエッツもムースもみんな行ってしまった。
「……戻って来るまで、どのくらいかかるのかしらね」
 具体的な時間は何も言っていなかった。
 けれどダイナの言葉の端々に、それが数日や数か月で簡単に戻って来れる戦いではない予感を覚えさせられた。
「わからない。でも、いいよ。俺も同じ条件で、みんなをずっと待たせたから」
 いつもとの姿に戻れるかなんて、全然わからなかった。
 ヴァイスの協力があったとはいえ、一人で対抗するには睡蓮教団はあまりにも強大過ぎる敵だ。
 ザーイエッツにいたってはここまで来るのに十年かかっている。
 元の姿に戻れる保証なんてまったくないのに、それでもアリストはダイナや友人たちに、必ず帰ると伝えてずっと待たせていた。
 だから今度こそ、アリストが彼らを待つのだ。
 きっと帰ってくると信じて。
「一度学院に顔見せに行ったらどう? エラフィもレントも心配していたわよ」
「そうだな……」
 盗まれたものを取り戻す永い永い時の旅路を終えて、今、ようやく戻ってきた。
「帰ろう、俺たちの居場所へ」

 ◆◆◆◆◆

 影の国と呼ばれる異界。地上と鏡写しのもう一つの世界。
 かつて地上を追われた異端者や魔族たちが逃げ込んで発展させた場所だ。
 異世界とはいえここも結局は、魔族や人々が普通に暮らしている世界。
 地上との最も大きな違いは、誰も彼らを知らない異邦と言うだけだった。
「他人様の世界に乗り込んでドンパチしようとか、とんでもない無法者だよね、僕らって」
「今更それを言うか」
 ハートの女王は再び門が開く力を感じて上を見る。
 ダイナを始めとする白の王国の連中が、こぞってやってきた。
「早かったじゃないか。弟との感動の再会がそんな淡白でいいの?」
「いいのよ。アリストとの間で必要な話なら、私が帰ってからゆっくりすれば」
「帰れるつもりなんだ?」
「ええ、当然」

「僕を殺せると思っているの?」
「いいえ、私はあなたを止めるのよ」

 殺せるか殺せないかはそもそも問題ではないと、ダイナはレジーナに言う。
「敵に対してそんな甘いこと言っちゃって大丈夫? ダイナ、僕は君の生徒の一人を撃ったよ」
「!」
 あの時は結局、直接手を下した犯人のわからなかった事件の真相をようやく知り、ヴァイスが苦渋の表情になる。
「テラス=モンストルムを撃ったのは貴様か」
「そうだよ、白騎士。彼は一体何者? 結構な白い星の持ち主だったけれど」
「……姿なき情報屋、ジャバウォック」
「……なるほど、そういうことだったのか」
 それならば廃ビルで教団員を待ち伏せて返り討ちにした知略も頷けると、睡蓮教団の方でもようやくテラスの正体に納得が行った。
 ハートの女王は彼らの仇敵として、改めて向き合う。
「君たちにとって、僕は憎しみの的だろう。さぁ、殺し合おうか。どうせ僕が勝つけどね」
 それはハートの女王が強いからというよりは、単に死なないだけなのだ。
 陽気な口調に漂う諦観。
「悪いがそうはさせない。我々の存在を忘れてもらっては困る」
「……白の王国か」
 マレク警部たちが一歩前に進み出る。
「そっちも俺たちを忘れてもらっちゃ困るよ」
 白兎と赤騎士が剣を手にして早くも臨戦態勢となる。
「レジーナ、私はあなたに対して怒ってはいるけれど、憎んでなんかいないわよ」
「何故? 君の生徒を殺したってのに」
「言ったでしょう。例えハンプティ・ダンプティであっても、彼らは私にとって大切な生徒。そして――」
 ダイナはこれまで幾度も繰り返した言葉を今ひとたびレジーナに告げた。
「どんなことがあろうとも、あなたは私の友人よ」
 だからダイナ=レーヌは友人として、レジーナ=セールツェを止めに来たのだ。
「ねぇ、ダイナ。君、そんなに気負っていて疲れない?」
「それでも走り続けなければいけないの。進み続けなければ、元いる場所にすら留まれないのよ」
「君らしい言い方だ。弟が行方不明の時くらい、ゆっくり座って待てば良かったのに、結局僕のやることに気付いちゃうし」
「我ながら酷い姉よね。でも」
 弟の名を口に出すダイナは、焦燥でも罪悪感でもない、ただただ透明な笑みを浮かべる。
「アリストならわかってくれるわ。駄目なら大人しく怒られましょう」
「……そう、君には帰る場所があるんだもんね。でも、僕にはもうここしかない」
 家族は最初から、家族ではなかった。赤の王は娘を道具として利用していただけ。
 教団ももうない。
「なければ作ればいいのよ。そうやって居場所を作り上げた、影の国の住人達に笑われるわよ」
「まったく君は手厳しいよね、本当。……僕にだけは」
「ええ。だから、あなたが私の言うことをちゃんと聞くまでやめないわよ」
「横暴女教師め」
「赤の女王ですもの」
 『鏡の国のアリス』に登場する「赤の女王」は、アリス・リデルの家庭教師がモデルだと推測されているのだ。
 レジーナにとって懐かしい顔で笑うダイナが、戦いの始まりを告げる攻撃を炸裂させた――。