002*
今回のためだけにと、少ない貯金をはたいて買った旅行鞄に身の回りのものを詰め込む。安物の衣服に安物のペン、安物のコートは道中羽織り、これだけはと、当時の有り金をはたいて買った本を数冊とこれまでの仕事で溜めた研究書を鞄に詰め込む。
衣類と本と少しの小物を詰め込んだらそれで、綺麗さっぱり部屋の中から彼のものは消えた。招かれて働いていた屋敷で過ごすのも今日が最後。明日の朝には街外れまで歩き、そこから乗り合い馬車を使い、大陸を横断する列車に乗ってあの場所を目指す。今日はその準備にと、屋敷の主がくれた最後の休暇だった。
「すっきりしたなぁ……」
自分の持ち物を整理し終えて、ルルティスはそう口にした。ここ一年ほどを過ごした屋敷は、これまでのどんな職場よりも待遇が良かった。給料が良く、屋敷に彼専用の一部屋が与えられた。それに何より主人も使用人も皆一様に親切で彼に良くしてくれたし、街の治安もよく教え子は懐いてくれた。
ここにいれば、確かに自分は幸せだろう。教え子が成長して家庭教師などいらなくなった後でも、よければ息子を支えてくれないかと主人からそう頼まれたこともある。けれどその優しい申し出を断っても、彼には赴くべき場所がある。
歴史学者、ルルティス=ランシェット。
亜麻色の髪に朱金の瞳。亜麻色の髪に琥珀の瞳を持つチェスアトール人としては多少変わった色彩を持つ十五歳の少年だ。チェスアトール王国北部の生まれで肌の色は白く、唇は華やかというより愛らしい珊瑚色をしている。
幼い頃から学業に励み、今は十五歳という年齢で学者をしていた。もちろんそれだけでは食べていけないので、大抵は裕福な貴族や商人の家に住み込んで子どもの家庭教師をしながら傍ら、自らの研究に励んでいる。
一日中本にばかり向かい合っているせいか視力が落ちているため、分厚いレンズの眼鏡をかけている。それに隠されてしまってぱっと見には冴えない少年だが、素顔は万人が思わず息を飲むほどに美しい。
白い肌に大きくつぶらな朱金の瞳。柔らかそうな唇に、綺麗な輪郭を描く顎。すっと通った鼻梁に、長い睫毛。
身長は高いわけではないが、それほど低くもない。なのに小柄な印象を与えるのは、力を込めて抱きしめれば折れてしまいそうに彼が華奢だからだ。けれどそれも骨と皮ばかりで見苦しいというわけではなく、計算しつくされた構造の人形のような絶妙の均衡を保っている。
その繊細な容貌を眼鏡の奥に隠し、ルルティスは一人、これまで一年間馴染んだ部屋を見てため息をつく。
「いよいよ明日か……」
明日、彼はこの屋敷を、この街を出て行く。慣れ親しんだ街と優しい人々の手を振り切ってでも、あの場所へと向かう。
物思いに耽ろうとする傍から、コンコンと控えめだがしっかりとしたノックの音が届いた。
「ルルティス? いる?」
「マンフレート君?」
この屋敷でルルティスが勉学を教えていた生徒、屋敷の主人の一人息子である十四歳のマンフレート少年だった。彼はルルティスが扉を開けて迎え入れると子犬のような笑顔を浮かべたが、一歩部屋の内側に足を踏み入れた瞬間、すぐにその顔を曇らせてしまった。
マンフレートの視線の先に、自分が先程荷造り完了した鞄があるのを見て、ルルティスはそっと苦笑する。あからさまに落ち込んだ表情のマンフレートはルルティスの手をとり、切実な思いを宿した瞳で問いかける。
「本当に行くのか? ルル」
ルルティスとマンフレートは、一つしか年齢も変わらない。今となっては教師と生徒と言うよりも、むしろ親しい友達のような関係だった。
一年前当時、十四歳のルルティスが十三歳のマンフレートに歴史、文学、教養、算数などを教えることになり、子どもが子どもに教えるようなものではないかと初めはもう反発を食らったものだった。
そんな奴を師と仰いで学べるかとマンフレート自身がルルティスに反抗して一悶着起こし、それをルルティスが解決して友情が深まったというエピソードもあり、もはや親友と言っても差し支えないほどだった。
けれど、これから先どうなるかはわからない。
「マンフレート君」
「やめろよルルティス! よりにもよって、皇帝領に乗り込むなんて!」
ルルティスが明日から出発して向かう先は、皇帝領と呼ばれる薔薇大陸だった。帝国と呼ばれるアケロンティス世界の全ては皇帝のものであるが、薔薇大陸は大陸全土が個人的な皇帝の土地となっており、彼の居城がそこに存在している。
そこに、彼は皇帝へと「直訴」をしに行くのだ。いや、直訴と言うのは少し違う、これは……
「あの薔薇皇帝に、何の用があるっていうんだよ! あの男に歯向かった人間は、これまで皆殺されているんだぞ!」
「マンフレート君」
皇暦七〇〇七年、現在のアケロンテ皇帝は吸血鬼の王国ローゼンティアの、かつての王族ロゼウスであった。殺戮の薔薇皇帝と呼ばれる第三十三代皇帝ロゼウス、三〇〇七年の即位より四千年以上の治世が続く今でも、その悪名は途絶えるところを知らない。
自らに歯向かう者は徹底的に潰し、出そうな杭も自ら打つ男。そのあまりに大規模で苛烈な粛清に異を唱えようとした宰相を幾人も死刑台送りにした男。
治世の手腕こそ有能であるが、その人柄は到底皇帝に相応しいものとは思えない。彼に滅ぼされた国の人々は、その死体の一欠けらまでもが無惨に切り刻まれ蹂躙されつくしていたと言う。
「あんな奴に関わるもんじゃないよ。チェスアトールは皇帝に逆らう意志なんて示してはいないから、ここにいればいつまでも幸せに暮らせるんだ」
バロック大陸の端にあるチェスアトール王国は表向きは平和な国だ。マンフレートのような貴族にとっては、特にそうだろう。
屋敷の主人の勧めどおり、彼の参謀となってこの家を支えることができるなら、ルルティスにとってそれは一番穏やかな人生となる。彼自身にもわかっている。
一方、どんな些細な用件とはいえ、皇帝に関わる事は遠からぬ死を意味する。目の前で縊り殺されることもあれば、暗殺者を放たれることもあるのだという。
あの皇帝を鎮めることができるものなどいない、それが世界の意見だった。美しく甘い香りを放ち、皇帝として圧倒的な権力を持ちながらも関われば必ず不幸になる。
「お前がわざわざあの皇帝に文句なんか言って、相手を怒らせて殺されてやることなんかないんだ! 一緒にこの屋敷にいよう、ルル!」
ルルティスの手を握り締めるマンフレートの瞳は必死で、声音は悲痛なほどだった。自分より少しだけ背の低い少年の目を真っ直ぐに見て、ルルティスは言った。
「別に僕は皇帝陛下に、辛言を呈しにいくわけじゃないよ、マンフレート君」
「同じことじゃないか! あの皇帝にどうして人々を殺すのかその理由を聞きに行くなんて!」
部屋の中は片付けられ、暖炉の火は灯ることももうない。備え付けの机の上はさっぱりとしてしまい、本棚も元から置いてある図鑑や歴史書の段以外、がらがらになっている。
感慨はあっても、躊躇うことなくルルティスは荷造りを終えてこの屋敷から出て行こうとしている。
そして彼が望むのは、この世界を支配する薔薇皇帝に、これまでの虐殺の理由を問いただすことだった。
「……ねぇ、マンフレート君。僕、この前ヴァルハラー公国に行ったよね」
「あ、ああ」
突然の話題の転換についていけないようで、マンフレートは半ば慌てながらその言葉に頷いた。
ルルティスは二ヶ月ほど前、主人からの言いつけられた用事で別の国へと出かけていたのだ。その帰りに運悪く彼は、皇帝の命によって大量虐殺があり、滅ぼされた公国の末路を見てしまった。
真面目でどんな用事にも手を抜いたり約束を破ったりすることのない彼の滅多にない帰還の遅れに、屋敷中が大慌てだったからよく覚えている。さらに無事にルルティスが帰ってきたときには、怪我こそなかったものの顔面蒼白で何があったのかと皆で心配したのだ。
屋敷の主人であるマンフレートの父が、ルルティスの使いの帰り道にある公国で起こった出来事を聞いてある程度の予測は立っていたとはいえ、それでも、今にも倒れそうなルルティスの様子に一同はこぞって心を痛めた。
余程酷い光景を見てしまったのだろうと。
「一面の、死体の山」
累々と重なるのはむしろ肉片であって死体とすら呼べそうにない代物だった。虐殺された公国の人々の身体は切り刻まれてもはや原型すら留めていなかった。
皇帝軍の行いについて、人々は幾度となくその話を聞いているが実際にその光景を眼にした者は少ない。何故なら皇帝に見放された国はその重鎮だけが処刑されるのではなく、跡形もなく全てが消し去られてしまうのだから。けれど、おぼろげにその片鱗は伝えられている。
彼らの所業は悪魔のごときものだと。
そしてルルティスがその光景を見るのは、二度目だった。
「……皇帝に逆らい、殺された人たちの行末を知ってる?」
「……殺される、んだろ?」
「そう、それから?」
「え?」
「それから、どうなると思う?」
「えーと、えーと……」
ルルティスの言いたいことが掴めず、普段は優秀な教え子であるはずのマンフレートは眉間に皺を寄せながら考えた。しかしやがて、答が見つからなくて降参する。
「ごめんなさい……俺にはルルティスが何を言いたいのかわからないよ」
あの会話の流れからどうしてこういうことになるのか。
「僕は公国で、人々の死体が肉片と化しているのを見た」
マンフレートに事情を語るというよりもむしろどこか遠くを思うような目で、ルルティスは淡々と言った。
「死体の切り口を見てみた。刃が引っ掛かったのかちょっと切り口がギザギザになっていて、でもほとんどは綺麗なものだった。刃が入ったらしい切り口の細胞はぐちゃぐちゃに潰れていてその逆側は出口に当るから綺麗になっていて、断面のほとんどがそうだった」
「ちょ、ちょっと待ってくれルル! 怖いよ! なんでそんな話するんだよ!」
突然無惨な死体の詳細な様相について説明し始めたルルティスの行動に度肝を抜かれ、マンフレートは耳を塞いでしゃがみ込んだ。
「ごめん、マンフレート君」
ルルティスは同じようにしゃがみ込んで彼と目線を合わせ、できる限り言葉を選びながら先を続ける。
「えっとね……つまり、僕が言いたいのはね、皇帝軍に殺された人たちは生きながらに拷問をされたわけじゃなく、殺されてから死体を切り刻まれたってことだ。生きている人間の身体を斬るにはどんなに注意を払っても、被害者の抵抗や生活反応のせいで切り口がずたずたになるからね」
マンフレートはルルティスの話を聞いて、ますます気分が悪そうに口元を手で押さえている。
「残虐非道な薔薇の皇帝。でも、本当にそうなのだろうか」
「そうに……決まってるだろ」
積み上げられた死体。僅かな皮膚や身体の一部から僅かにその様子が知れる。小さな指はまだほんの子どものもので、皺だらけの皮膚は老人のもの。男の太い足、女の細い首。無差別に殺すその凄惨な光景。
「死体を切り刻むなんて、普通の神経じゃねぇよ……」
「でも、死体は死体だ。生きている人間じゃない」
「ルルティス!」
「ごめんね、僕は神様を信じない」
積み上げられた死体の山を見たのはこれで二度目。
そしてルルティスにとって、その最初の一度目は救いだったのだ。
「死体は死体だよ。生きている人間じゃないんだ。生きている痛みも悲しみも苦しみも恥ずかしさも感じる人間を傷つけ苦しめることに比べたら、もう死んでしまった人間を傷つけることなんてたいしたことじゃないと、僕は思う。それによって傷つくのは死体を嬲られた本人じゃなくて、それを見ていて不快な光景だと思う他人なんだから。それにどれほどの意味があるのだろう」
冷たい床に押し付けられて乱暴に殴られる。
あの、まだ遠くもない昔。
誰も助けてはくれなかった。
人間は自分がその当事者にならないと、相手の気持ちなどわからない。
「死体を偏執的なまでに壊しつくす皇帝。でも、彼は生きている人間を生きながら苦しみを長引かせて殺すことはできないんだ」
積み上げられた肉片の山、流れる血も涸れきってその細胞の断面を表した傷口のなんて綺麗だったこと。端から端まで、それは執拗なまでのこだわりに見えた。
殺してはいけないというのではなく、苦しめて殺すのはいけないというその思考回路。それは、この世に死ぬよりも苦しいことがあると知っていなければ持ち得ないはずの考えだ。
生きることが必ずしも幸福とは限らないのだから……。
「だから僕は知りたい。あの皇帝陛下のお考えを」
聞いてみたい。どうして、こんな風に簡単に人を殺しながら、それでも本当に残虐なことはできない皇帝に。
「マンフレート君」
もはや青を通り越して、血の気が引き紙のように白くなった顔でルルティスを見つめている少年に彼は穏やかに微笑みかけた。
「僕は君が思っているほど、親切な人間なんかじゃない。酷い、自分のことしか考えられない人間だ」
マンフレートはルルティスに肩に縋り、胸に顔を押し付けた。
「ごめんね。もしも僕が罰されるようなことになっても、ここの人たちは関係ないっていうから、君たちも、どうか……」
「やめてくれよ! 先生!」
濡れてくぐもった声で叫びながら、マンフレートはそれでもルルティスの身体を強く抱いて約束する。
「あんたがどこに行っても……俺はあんたの友達だ」
ルルティスの瞳から静に涙が零れた。
◆◆◆◆◆
「本当にいいのかい?」
翌朝、最後まで見送りに出てきてくれた屋敷の家族と使用人たちを前に、ルルティスは旅行鞄を下げたまま花が綻ぶかのような笑顔を向ける。
「ありがとうございます。今までお世話になりました」
「本当にいいのかい? ランシェット先生。君にはマンフレートも懐いているし、ここでずっと、息子を支えていてくれたらと私たちとしては願うのだが……」
「お気持ちはありがたいですし、旦那様には本当によくしていただきました。でも、僕は」
屋敷の主人はまだルルティスを思いとどまらせようと言葉をかけるが、彼はやわらかに首を横に振る。
誰が何を言っても、その決意を今更変える事はできそうになかった。
しばしの躊躇いが生む沈黙の後、相変わらずにこにこと笑顔を浮かべているルルティスに、気まずそうな顔をしながらも主人は言う。
「そうか……いや、その、ランシェット先生……最後になるが、頼みがある。悪いんだが、皇帝陛下のところへ行ったら、この家に関しての事は何も言わないでいてほしいんだ」
「親父!?」
主人の言葉に顔色を変えたのはルルティスではなく、その正面に立つマンフレートだった。屋敷の使用人たちも、どこか後ろめたいような顔をしながらも主の言葉に頷いている。
「なんでそんなことを言うんだよ! ルルティスはどこにいたって、俺の先生であることに変わりないじゃんか!」
「マンフレート! お前は―――」
ルルティスの気持ちを推し量って彼を擁護するための言葉を押し出したマンフレートを、父親である屋敷の主が諫めようと口を開きかける。そこから罵声が飛び出す前に、ルルティスは凛とした声で言った。
「わかっています」
「ルルティス!?」
悲痛な声をあげたのはマンフレートのほうで、ルルティスは相変わらず笑顔をその面に貼り付けている。
「もしも僕が何か皇帝陛下の不興を買うようなことをすれば、この屋敷どころか、この国そのものが滅ぼされかねない。そんなことにはならないよう努力しますし、例え誰に言われても、僕はこの家の皆さんのことは喋りません。旦那様も、どうか僕がここにいた痕跡は、跡形もなく処分してください」
「あ、ああ」
明らかにほっとした様子の父親と笑顔のルルティスを見比べて、マンフレートの眼の縁が泣き出しそうに赤く潤む。
「これまでどうもありがとうございました。皆様、どうかお元気で」
「ああ、君も……」
最後は短い挨拶を交し合い、ルルティスは振り返って屋敷の門をくぐろうとする。警備服を着た二人の門番が彼のために門を開けた。去り際に背中から、真っ直ぐな声をかけられる。
「ルル!」
「マンフレート君……」
どこか痛ましいような笑みを浮かべてその姿を振り返り、ルルティスは到底聞こえない小さな声で名を呼んだ。
「忘れるなよ! ルルティス! どんなに離れてても、俺はお前の友達だからな!」
その泣き顔に大きく手を振り返して、屋敷を後にした。
◆◆◆◆◆
朝早くまだ街の人々も起き出してはこない時間に道を歩いて、ルルティスは乗合馬車の駅を目指す。
その後姿を見送って、マンフレートはぽろぽろと大粒の涙を地面に零した。一通り流し終えると、キッと顔を上げて父親を睨む。
「親父! どうしてルルにあんなこと言ったんだよ! あの人のことは、親父だって高く買ってたじゃないか!」
言った瞬間、マンフレートは父親に左頬を張られた。
「旦那様!」
突然の主人の暴挙に、屋敷の使用人たちが顔色を変える。
「このっ……、バカ息子が!」
「……父さん」
「皇帝陛下に逆らって、今まで生きていたものはいない。一族郎党、赤子から大人まで皆殺しだ! ランシェット先生があの薔薇皇帝のお怒りをかったら、被害は私たちだけではすまないのだぞ! この国全てが滅ぼされる」
マンフレートの見上げる先で、父親は泣いていた。
守るべきは情か、それとも義理か。板ばさみとなって、彼よりもよほど父の方が苦悩していたのだ。
「皇帝陛下に直訴だなんて……ランシェット先生……どうか馬鹿なことはやめて、戻ってきてください……」
しかし、一度開け放たれた門はそのままきつく閉められ、以後誰かが戻ってくる様子はなかった。
◆◆◆◆◆
軋む寝台の上で、艶めいた喘ぎ。
その声はしかし、痛苦を訴える響にも似ている。
「あっ……ん、う、……や、やぁ……」
まだ幼いとすら言える少年が、一人の男の上に跨って自分から腰を振っている。先走りの雫がぽたぽたと垂れ、男の腹を濡らしていた。
それを気にする様子もなく、男――――世界皇帝、または薔薇の皇帝とも呼ばれるその青年は、自分の上に跨る少年の身体へと手を伸ばし、目の前にある乳首をきゅっと捻った。
「ふゃあ!」
形容できない声をあげてよがる少年に、皇帝ロゼウスは口元に薄っすらと酷薄な笑みを佩いた。自らも上体を起こして少年の顎を捕らえると、無理矢理その唇を奪った。
「ん……ふぅ、ん……」
乱暴な口づけにも少年は抗議することなく、むしろ甘えるように彼の首に腕を回した。ロゼウスと同じ白銀の髪はしっとりと汗ばみ、紅色の瞳は恍惚に潤んでいる。
「あ……兄様ぁ……」
「可愛いね、ジャスパー」
宝石の名を持つロゼウスの弟は、兄の言葉に頬を緩めた。彼にとってロゼウスに触れられることは何よりも至福であり、その言葉は絶対であった。
「ロゼウス兄様ぁ、……もっと抱いて。犯して。ぼろぼろにしてぇ……」
理性の欠片もない様子で、浅ましく懇願する。普段は人よりもむしろ控えめで大人しい性格の少年は、皇帝である兄の寝台に侍ると途端に態度を一変させた。
今の彼を、昼間の大人しい彼を知る者が見たらきっと仰天するに違いない。それほどの変貌振りなのだが、この四千年ずっとそうであったロゼウスはもうこの程度では動じない。慣れた仕草で、またもや啄ばむように弟の唇を奪う。
「わかってるよ。可愛い選定者殿」
バロック大陸の西部にある薔薇大陸。気候や天候が完璧に安定した〈完全なる大地〉と呼ばれるその土地は、代々の皇帝たちの居住区でもある皇帝領だ。
その土地を四千年間所有するのが現在の皇帝、第三十三代皇帝ロゼウス=ノスフェル=アケロンティス=ローゼンティア。シュルト大陸の北東部にある国家と同じ家名が示すとおり、もとは吸血鬼の国ローゼンティアの王族である。
皇帝による世界統治が始まってからの歳月を示す皇暦、その三〇〇七年から即位し、七〇〇七年になる今日まで世界を支配し続ける男。
アケロンテの皇帝は、世襲によるものではない。全ては神だけが知っている。皇帝が玉座を失った時、次代の皇帝を選び、それを補佐する役目を持つ者を〈選定者〉と呼ぶ。
選定者には身体のどこかにそれを示す不思議な紋章が浮かびあがる。皇帝自身には何の印もなく、皇帝を選ぶのはただ選定者の役目である。
この世界において皇帝は神にも等しきものだが、神ではない。皇帝になるまでは世の理の中にいる者が、皇帝になるとそれを外れることができるとでもいうのか……。
神ではないが、皇帝とは世界にとって絶対の存在である。
全ての大陸も海も、世界は一つの大きな帝国。それを各国の王に貸し与えて領土とさせているのだから、皇帝が一言その土地を返せと言えば、どんなに強大な力を持つ王たちでも従わねばならない。もちろんこれまでの歴史上に皇帝へと反逆する輩がなかったわけではないが、それは皇帝自身の力で鎮圧されたものもあれば、神が鉄槌を下したとしか思えないような滅び方をしたものもある。
やがて人々は悟った。
皇帝――世界皇帝とは神の代理人。
かの存在が選出される基準は人には知るべくもないが、皇帝が一概に完全な人格者でないことは知れている。
今現在アケロンテを支配する三十三代皇帝ロゼウスは、中でも特に暴虐を振るう、殺戮皇帝としてその治世の長さの分だけ、恐れを伴う名を広めていた。
「兄様……」
その皇帝の寝台の上で、艶かしい裸身を晒して少年は喘ぐ。
「ああ、ロゼウス兄様……」
「なんだい、ジャスパー」
少年の名はジャスパー=ライマ=ローゼンティア。彼もその名から分かるとおりローゼンティア王族であり、さらにロゼウスの異母弟だった。ロゼウスが皇帝として選ばれた十七歳の時のまま姿を留めているのなら、こちらはその皇帝を選出した十四歳の時のままの姿を留めていた。
〈選定者〉は〈皇帝〉のために生まれる。
ジャスパーは皇帝ロゼウスの選定者だ。彼の左脇腹の下辺りには〈選定紋章印〉と呼ばれる選定者の証があり、それをもって彼はロゼウスを皇帝とした。選定者は絶対に皇帝を裏切らない存在であるため、次代皇帝の身内から生まれることが多い。
血と殺戮の薔薇皇帝ロゼウスは、そもそも登極の仕方からして異例であった。彼の先代皇帝、第三十二代皇帝デメテルは普通起きるはずのない選定者の反逆と言う形によって失われ、通常発見次第即位されるべき次代皇帝であるロゼウスは、彼女が亡くなってから実に三年の月日を空けて皇帝になった。デメテルが亡くなった際、すでに時期皇帝としてロゼウスの存在を選定者が確認していたにも関わらず。
四千年前、皇暦三千年頃は、多くの人には知られざる激動の時代だった。そもそも不法な手段で弟を選定者にした皇帝が彼に裏切られての崩御、さらに次期皇帝ロゼウスを貶めるための暗躍、当時その騒動に巻き込まれた二つの国は、今でこそ平穏な様子を保っているが、当時は滅ぼし滅ぼされの関係だった。そして、その国を継ぐべき王たちも……。
その波乱が、今にまで続く殺戮皇帝ロゼウスの御世を作り出したと言っても過言ではない。
特に激動を象徴するのは彼が即位まで三年の月日を空けたことで、その理由が彼の皇位継承を認めない焔の国の武将の反乱鎮圧のためにあったことは有名である。
その戦いも今は遥か昔のこととなり、四千年の時を経て、いまだロゼウス帝の権力は衰えない。
皇帝は皇帝としてその座にふさわしくある限り、肉体が衰えることはない。彼は若い姿のまま、こうして世界の玉座にあり続ける。
選定者であるジャスパーは、本来そのロゼウスを補佐する役目にあたるはずだった。先代皇帝デメテルは、その弟であるハデスを選定者として自らを支える摂政――帝国宰相の地位に置いていた。
しかし、庶民の出であったデメテルとは違い、もともと王族で人知れず次期国王としての帝王学を叩き込まれていたロゼウスには基本的に摂政はいらない。それが彼よりも能力的に優れた人物なら構わないが、弟であるジャスパーに任せるくらいであればロゼウスは自分で世界の統治を行う。
選定者である以外、彼の弟ジャスパーには役目がない。その弟を、ロゼウスはこうして寝台に侍らせている。
皇帝は世襲ではないから、子を作る必要はない。それでも世界の頂点に立つ人物の愛人、もしくは伴侶となれば絶大な権力と財産を得られるのは自明の理である。さらに言えばロゼウスはその恐ろしさと共に、美しさでも知られた皇帝だ。その閨に務めることを望む者は後を絶たない。
実際に、この四千年の間に何度も皇帝の愛人希望の者はいた。しかし皇帝は並大抵の者には篭絡されることなく、逆に自らの気にいった者はそれがどんな立場の人間であろうと無理矢理攫ってくる。
それなりの人数がいる彼の愛人のうち、弟のジャスパーは特別だった。そしてその特別は、良い意味ではなく……。
「ねぇ……ジャスパー」
「兄様」
「お前にプレゼントだ」
自らの腹の上に座らせた少年の胸を指で弾きながら、ロゼウスは寝台の脇に置いてあった、あるものを取り出した。
「じっとしてるんだよ」
悪魔さえ誑かせそうな甘い笑みで、彼は弟に動くなと指示する。大人しく彼のすることを見ていたジャスパーは、ロゼウスが針をあらわにしたその飾りを、胸の辺りに持ってきたところで怯えの色を見せた。
「に、兄様、何……」
「黙っていろ。それとも、拒むのか? 私を……俺を」
ジャスパーは勢いよく首を振ると、寝台の敷布をきつく掴んで痛みを堪える体勢に入った。
「力を抜きな、ジャスパー。その方が痛くない」
「ん……っ!」
言って、ロゼウスは躊躇いもなく、精緻な飾りの刻まれたピアスをジャスパーの乳首に突き刺した。敏感な部位を針で突き通される苦痛に、ジャスパーが脂汗をかきながら小さな悲鳴をあげる。
「あ、ああ……い、痛……」
「まだ終わってないよ」
先程胸に嵌めたもう一つの飾りと華奢な鎖で繋がれたもう一つの飾りを、空いているもう一つの乳首に突き刺す。
「ひぃ!」
穴を開けられた箇所から、血が零れる。ただの人間が含めば超人的な力を得られるその血も、もとよりヴァンピルである二人の前ではただの血以上の意味をなさない。
「そう……可愛いよ、ジャスパー」
位置を入れ替え、ロゼウスはジャスパーを寝台の上に横たわらせ、自分がその上になる。苦痛に呻く弟の……以前は弟だと思っていた少年の様子を見下ろしながら、ロゼウスは酷薄に微笑む。
「あ……にい、さま……」
胸の痛みに、目に涙を溜めるジャスパーはそれでも必死にロゼウスへと顔を向けた。
「お前には本当に宝飾品が似合う。宝石王子の名の通り。今度はここにでも嵌めてあげようか」
痛みに萎えた少年のものをロゼウスが弄ると、ジャスパーがぴくりと身体を震わせた。乳首はまだ耐えられても、こちらはやはり怖いらしい。
「……冗談だ」
全くそうも思えない態度でそう言うと、ロゼウスは彼の顔に舌を這わせ、涙を拭い取った。
「兄様……」
「ジャスパー。お前はあの時、私から全てを奪った」
四千年も前のこと、それでいていまだ手放せる過去にはなりきらないできごとを持ち出して、ロゼウスはジャスパーを責める。
それは彼の責任だけではないのだが、それでも四千年前のできごとについて、ジャスパーが責を負うところは大きいと。
「お前が私を皇帝になど選ばなければ、今こうしていることもなかったのにね」
「あああっ!」
それまで優しく撫でさすっていたものを突然強く掴まれて、ジャスパーが悲鳴をあげる。それすらも楽しむようにして、ロゼウスは弟の身体を弄んだ。
「に……い、さま」
「お前はその命の全てをかけて、あの日の選択を後悔し続けるがいい」
しかしジャスパーは涙を浮かべて言う。
「お好きなように……なさってください。あなたは皇帝なのだから……」
「……ジャスパー」
「僕は絶対に後悔なんて、しません……あなたを皇帝として、生かすことさえできたのならば、僕は……」
ぎりっと、音がしそうなほど強くロゼウスは奥歯を噛み締めた。
乾いた音をさせて、組み敷いたジャスパーの頬を張る。再生力の強いヴァンピルでも数時間は腫れるだろう容赦のない力で叩いておきながら、無理矢理彼の足を掴み、奥の穴を開かせた。
「うあ……っ!」
気遣いの欠片もない荒々しさで勃ちあがった自らのものを挿入し、自分の欲望だけを満足させるために少年の内部を突く。
「ひぃ……ぁあ、ああああ!」
思う存分彼の中に白濁をぶちまけて、ロゼウスはジャスパーを放り出す。
「後悔しない? その口で言うのか! 俺から彼を奪ったその口で……! ならば後悔させてやるさ。お前などただの肉人形にしか過ぎないのだから。後悔するまで思い知らせてやる……!」
途中から失神した状態で、あられもなく細い手足を投げ出したジャスパーをその後は見向きもせず、ロゼウスは寝台を後にした。