薔薇の皇帝 01

003

 バロック大陸東部のチェスアトール王国から西部の皇帝領薔薇大陸まで、乗合馬車と列車で数週間はかかる。
 昔はこの「列車」という乗り物が発達していなかったために、もっと時間がかかったらしい。更にはこの列車、平地ならばまだしも山の中を通るには障害物を避けるためにトンネルを掘らねばならないため、地形的に険しいシュルト大陸ではまだ発達していない。バロック大陸はだいたい全ての国家のどこか一つの都市には列車が止まるようになっているが、シュルト大陸ではまだ主な交通は馬車や馬、徒歩に限ると言う。
 それでもかの国が交通にさほど不自由していると聞かないのは、多少不便なくらいの方が安全だからだ。北のシュルト大陸には世界最強の軍事国家エヴェルシード王国が存在し、気を抜けばいつ攻め込まれてもおかしくないとあの大陸の他の国々は常日頃から気を配っているらしい。
 そんな異大陸の話はさておき、ルルティスは列車を乗り継いで一路薔薇大陸を目指した。
好奇心が強い学者という生き物の性として、蒸気機関と呼ばれる動力で動く列車の内部構造を知りたくなり、機関室近くをうろついていたところ、作業員の男たちと仲良くなった。列車に乗り様々な都市を行き来するという彼らの話を聞きながら、さりげなく現皇帝についての噂を得る。
 なんでも薔薇皇帝というひとが列車に乗っている姿を見た者はいないらしい。バロック大陸を走る列車の数はそう多くないので、この商売に関わる男たちは一目なりと皇帝を見たことがあるのではないかと思って尋ねれば、全くそんな記憶はないという。
「では、皇帝陛下は蒸気機関車を使われることはないと?」
「さぁ? どうだかな。専用線路を隠し持っているわけでもなけりゃ、列車には乗ったことないんだろ?」
「そんなこと言ったって、皇帝陛下なら魔術で世界中どこへでも一ッ飛びだって話聞いたことあるぜ」
「俺もだ」
「でも昔、馬車を使う姿が見られたって聞くけどなぁ」
「あほかい。そりゃ街中の話だ」
 更にルルティスは、途中途中食料や必要な物の買出し、所定の手続等を踏むために列車を降りて異国の街中を見て回った。
 そこでもさりげなく、薔薇皇帝に関する噂を集めてみた。
「皇帝陛下? 今の薔薇皇帝様なら、もう四千年も世界を治めていらっしゃるものねぇ」
「お姿を見た事はありますか?」
「ないない。あるわけないよ。それに、あの皇帝の姿を見た者は生きて帰れないんでしょ?」
「そう言われていますね」
「でもさでもさ、皇帝陛下って、絶世の美形なんでしょ? 一度見てみたいな」
「え? ウソ、あたしは絶世の『美少女』って聞いたけど?」
「違うよ、男だよ」
「女の子じゃないの? 友達の彼氏のいとこの友達が見たって言ってたもの」
「……それってとりあえず、他人ですよね」
宿の女中さんたちの会話は、あまり情報として的確ではないようだ。
更にルルティスは列車へと戻ると、今度は暇を持て余しているらしい乗客たちへと好青年を装って話しかけてみた。
「皇帝について? ああ、聞いたことがあるな。何でもすっごい美形だが、すっごい怖ろしいひとだって話だったな」
 一人旅の青年が言った。
「薔薇皇帝様?」
 家族連れの奥さんは、その名を聞いた途端、眉を潜めた。
「名君とも言われているけれど、でもあの方について良い噂は……この前だって、ヴァルハラーを一日で国民皆殺しにしたって言われてて……」
 奥さんは小さな女の子を抱え、その手をぎゅっと守るように握り締める。その家族の容姿は、ヴァルハラー公国に隣接する国家の人間に特徴的なものだった。
「あれは魔物さ」
「知っています。吸血鬼族ですよね」
「そうじゃない、やることが魔物だというのさ」
 怪しい物売りの老人がいひひと欠けた歯を見せながら笑う。
「薔薇皇帝の通った後は草の根も通らない。だが、かの皇帝陛下が怖ろしいのはそれだけじゃないんだよ、坊や」
「他にも何かあるんですか?」
「ああ。人攫いさ。皇帝領の宮殿には皇帝陛下の攫ってきた奴隷たちのハーレムがあるって話さ。子どもを掻っ攫われた母親が拳に血が滲むまで宮殿の門を叩き続けたって話もある。悪い事は言わない。係わり合いにならない方がいいよ」
 老人の眼の奥の光が澱んでいる。彼の荷物の中に、売り物ではなさそうな古い女物のお守りと小さな肖像画があるのをルルティスは見つけた。思い切って尋ねる。
「その、子どもを返してと宮殿の門を叩き続けたというのは、あなたの奥様ですか?」
「……」
 老人はそれきり、ルルティス相手には何一つ答えなかった。
「興味深い方ではあるわよね」
たまたま同業者、つまり旅の学者の一人に出会った。女学者である彼女は言った。
「名君としての顔に、暴君としての顔。総合的に見れば治世は優れているのにやることなすこと残虐で、それでも四千年間神の恩恵を失わない皇帝。そうね、実際にお話できれば面白い方かも知れないわよね。でもあたしはやらないわ。命が惜しいからね」
 女学者はこれから故郷へ戻るところだと言った。学者として大成するのはこれがどうしてなかなか難しい。時には騒動に巻き込まれて聞かなくてもいいことを知ってしまうこともあるという。彼女は故郷へ戻って、学業からは足を洗うと言った。
「薔薇の皇帝陛下? ああ、元ローゼンティア王族の。俺は見たことないねぇ。もともとローゼンティアの王族って、気さくとは程遠いタイプだぜ? 同じ民族の中だけで暮らしているから、伝統やら血統やらにうるさくって」
 ある青年は、シュルト大陸からバロック大陸に移住してきたのだと言う。
「何でも今の皇帝陛下は宮殿の外にいろいろと出かけてるって聞くけど、どうなんだろうな? 今の時代交通もこれだけ便利になって、吸血鬼がそこらを歩いているのも珍しくはなくなったしね。今年三百歳になる俺のじいさんに言わせれば、じいさんのひいじいさんの時代頃までは、こんな風に吸血鬼が当然と他国を旅するなんてなかったそうだぜ? これも今の皇帝陛下さまさまだよな」
 そうやってにかりと笑う彼は白髪に紅い瞳と尖った耳。ローゼンティアの吸血鬼の一人だった。

 ◆◆◆◆◆

 薔薇の皇帝、ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。
 彼に対する人々の興味は尽きない。彼、であることすら、政治に疎い人々は知らないくらいだ。その端麗な容姿から女性と間違われることも少なくないという。皇帝の名に関しては、知る者は知るが知らぬ者は知らぬといった様。だからこそ性別がわからないなどという事態にも陥るのだ。
 これはひとえに、薔薇皇帝と呼ばれる当代皇帝が表立って真面目に民の前に姿を現さないということが理由としてあげられる。三十三代皇帝は名君にして暴君、愚かな振る舞いと一概には言えないが、決して賢帝のするものではない行動を平然と行うという。それはいかな英雄や賢君と言えど酒色に耽る時もあるなどという話を遥かに超えているという。
 狂気の帝。血と殺戮の薔薇皇帝。
 かの皇帝が酔うのは酒ではなく、血だ。溺れるのは色でなく、人々の悲嘆と苦痛であるらしい。
 ルルティスが皇帝についての噂話を集める中飛び込んでくるのはそのような話ばかりだ。
 絶世の美貌を持ち、多数の愛人を侍らせ、しかし誰にも心を許さないという皇帝。血に酔い、暴虐を繰り返す狂気の皇帝。
 だけど、本当に?

「おい、お兄さん。本当に行き先はここでいいのかい?」
 皇帝領に一番近い駅で降ろしてもらう際、ルルティスの目的が世界皇帝への謁見だと聞いた、顔馴染みとなった車掌の一人が心配そうに声をかけてきた。
「はい、もちろんです」
「やめた方がいいと思うよ? どんな用事であれ、皇帝陛下への謁見なんて」
 世界皇帝。それはこの帝国の皇帝であり、神にも等しい存在。
 気遣ってくれた車掌や機関室の作業員たちにも礼を言い、ルルティスは列車を降りる。
 誰かに引き止められたところで、到底心積もりを変える気はなかった。
「逢わなければ、僕は、皇帝陛下に。そして……」

 ◆◆◆◆◆

 皇帝領に雪が降る。
 ひらりひらりと、白い花かあるいは蝶のように舞い降りる可憐な雪のひとひら。汚れのない空に降る雪は時に青く見えるほどに清らかで、そして冷めている。
 雪は降り続けているが、地面に積もる前に消えてしまうのがほとんどだった。時折積もることもあるが、それは珍しいことなのだ。
 雪の積もらない地面は、見事な一面の薔薇園だった。血のような、とも紅玉のような、とも形容される味わいぶかい深紅の薔薇が咲き乱れている。一つ一つが子どもの顔の半分ほども大きさのある薔薇だ。その茎に生える棘は気まぐれで、それに刺される者と刺されない者は決まっているのだとまことしやかに囁かれている。
 薔薇は夏の花だ。しかし、今の皇帝領には雪が降っている。では今この地域が冬と呼ばれる季節に入っているのかと問われれば、そうでもない。
 四季を通じてこの土地、薔薇大陸と呼ばれる大地、皇帝領には雪が降る。そして薔薇が咲いている。重さのない音を吸い込む白い青い雪がしんしんと降りしきる中で薔薇は咲いている。穏やかな気候の中で花は冷たく凍り付いて、なお清い香りを放つ。
 ここはそういう場所なのだ。
 薔薇大陸《皇帝領》。
 それは皇帝の意に従う土地。この土地は代々の皇帝の人格や力の影響によって姿を変え、主に相応しい姿をとるのだという。
 先代の皇帝、大地皇帝デメテルが世界を治めている頃、この土地は青い空の下虹色の花畑が白亜の宮殿を抱く美しい土地だった。
 しかし今の皇帝領は違う。灰色というよりは白銀に近い不思議な曇天から青白い雪が舞い降りる薔薇の花園。その中央に漆黒の居城が威容を誇る様子は美しくないわけではないが、それを見た者の胸に去来するのはどこか倒錯的で、それでいて寂しい風だった。
 皇帝領に雪が降る。
 重さも凍えるような熱もないそれは、皇帝の涙なのだという。

 ◆◆◆◆◆

「ここが皇帝領……」
 馬車を降り、ここから先は歩いていくのだと告げられて半刻程、ルルティスはようやく漆黒の宮城が遮蔽物なしに眼にできるところまでやってきた。
 黒とも見紛う深い緑の森を抜けると、そこは薔薇園だった。しかも、雪が降っている。銀色の羽のような雪がふわりふわりと空から舞い降りてきて、地上の薔薇に触れた途端にすっと溶けていく。自然界ではありえない不思議な光景だった。しんしんと降り続ける雪は積もらずにただ溶けて消えて行く。思わず天上へと向けた掌に舞い降りたそれを眺めるが、水の雫も残さず溶けた結晶は温度がない。冷たいのではなく、その逆だ。
「ここが……」
 ほぅと息を吐いて、知らず知らずのうちに同じ言葉を繰り返す。その息ももちろん白くはならない。完全なる大地と呼ばれるこの場所の気温は寒くもなければ暑くもなく、完璧に保たれている。
 そう、ここが《皇帝領》薔薇大陸。
 現在の皇帝の二つ名が薔薇であることとは関係なく、中心に向かって渦を巻く大陸の形が薔薇のように見えることから薔薇大陸と名づけられているその場所は、代々の皇帝の居住地である。
 薔薇の花畑をしばらく歩かねばならない遥か彼方に、しかしすでにその威容を示しているのが漆黒の城だ。あの場所に、現在の皇帝が住んでいる。ルルティスは思わず止めた歩みを、城へと向けて再開した。
 彼に、皇帝に会わなければ。その一心で僕はここまで来て――
 ムギュ
「ん?」
 目前の宮殿を目指しながら花畑の中を歩いていたルルティスは、唐突な感触に思わずシリアスなモノローグとは裏腹に間抜けな声をあげた。ムギュ……って、何今の感触。
 何、と言いつつすでに彼の頭の中にはイヤな予感がびしばしと降臨していた。どういう理由かはわからないが薔薇の花園はその棘でルルティスを傷つけることなく平穏無事にここまで来られたのだが、今の「ムギュ」はどう考えても植物を踏んづけた感触ではなかった。もっとやわらかい柔物……言ってしまえば、生き物を踏みつけてしまったような感触だったような気がしないでもない……。
 雪降る薔薇の花畑と言え、実際に冬の凍える寒さだというわけではない。棘が刺さらないのであれば、鼠や蜥蜴など小さな生き物ぐらいいるだろう。
 そう自分を無理矢理納得させながら、彼は恐る恐る思わずそのまま通り過ぎてしまった足下を振り返った。
 そこに、人がいた。
「あたたたた……うわ、何?」
 むくりと花畑でその人物が身を起こす。何、というか、こっちが聞きたい。なんでこんなところで人が寝ているのか。
 白銀の長い髪を振り振り身を起こしたその人は、ルルティスの方へと視線を移す。ばっちりと目があった。紅い瞳だった。美形だった。耳も尖っていた。
(ああ、神様……)
 シレーナ教が幅を利かせる現在のバロック大陸では珍しいことに無宗教のルルティスだったが、今度ばかりは思わず神に祈らずにはおれなかった。
 彼が知らず踏んづけた相手は白銀の髪に紅い瞳と尖った耳。どう見てもローゼンティア人。
 この皇帝領にいるローゼンティア人となれば、現皇帝の身内か故郷から連れて来たお気に入りの部下か、どう考えても偉い相手に違いない。
 その人物を、部位はどこだか言及しないにしても、思い切り、踏んづけてしまった!
 この場で打ち首にされても仕方のない諸行だ。いかに「大人しい顔して実は良い度胸」と言われるルルティスでも、そのくらいはわきまえている。わきまえているだけに、現状のスペシャルなヤバさがひしひしとその身に差し迫ってきた。
 ついでにこれまでの旅の疲れも一気に。
「あ! おい、ちょっと!」
 誰かが叫ぶ。この場で自分以外に叫ぶ者がいるとしたら目の前の相手以外にはないのだが、その時のルルティスにはそれすら認識するのも困難だった。
 かっくりと気持ちよく彼は気絶した。どうせ処刑されるにしても、気絶したこのままの方が幸せだろうと思いながら意識が闇に滑り込んでいく。

 ◆◆◆◆◆

「で、何があったわけ?」
 金髪の少年は、心底呆れましたと言った表情で主君へと事の次第を問いただす。話している相手はそう、主君のはずなのだが彼の態度からすればまるで従者である彼と対等のようだ。つまりは彼の主君とはそういう人物であり、彼と主君とはそういう関係である。
「いや、その……」
 もとから饒舌というわけでもないが口下手では決してないはずの主君の歯切れの悪い言葉に、金髪の少年の眉間に皺ができる。主従が明らかに逆転した態度でいろいろと病人の世話を指図した後、盛大な溜め息をつく。
「ああもう、本当に駄目な皇帝……」

 ◆◆◆◆◆

 ああ、これは夢だなとすぐにルルティスは気づいた。
 だって目の前に出てくる光景を、自分は知らない。見た事もない景色、聞いたこともない声。なのに夢の中に出てくるその人物の存在感は鮮やかで、まるで実在しているかのようだ。
 否、本当に実在した人物なのかもしれない。藍色の髪に朱金の瞳の少年は眠りの間に見る幻とは思えないほどの鮮明さで、ルルティスの胸に迫って来る。
 その想いが、その生き方が。
 彼の目を通して、ルルティスは何かを見ている。暗い色の土の上に並ぶ灰色の石……ここは墓地? あれは墓標?
 刻まれている名前には、ルルティスは当然覚えがない。いや、どこかで見た事があるような……確か歴史の学術書の中で。けれど彼が本の中で見たそれと、夢の中での光景は食い違っている。何故だろう。年号が合わない。その女王が即位し、崩御したのはもっとずっと後の出来事ではなかっただろうか。
 ふいに彼は、自らの――自らが意識を投影している藍色の髪の少年の隣に人がいることに気づいた。少年が伏せていた眼差しをそちらへと向ける。けれどその視線が隣に立つ人物の顔を認める前に、滑り込んできた声が耳を打った。
 ――俺はあんたを愛したりしない。一生、好きにはならない。
 その響に胸が抉られる。理由もわからず、疼く。知らない声なのに。
 涙が出そうだと思った。
 夢の中の少年は泣かなかった。代わりに微笑んだようだ。
 隣に立つ人物の顔が見えない。
 ああ、こんなに恋い焦れているのに、見えない……。
 次第に悪夢は切り替わる。自分ではない誰かの意識に潜るような旅は終わり、紛れもないルルティス自身の「過去」が眼前に現われる。
 咽を滑る、指、ふしくれだった。
男が自分の首を絞めている。息ができない。
 違う。
 こんなことは知らない。「過去」なんてない。自分には七歳以前の記憶がないのだから、だから過去なんて存在しない!
 けれど夢は彼の現実を裏切り、幾度も繰り返し見た悪夢をまた飽きもせずに繰り返す。違う。そんなこと覚えていない!
 「私」が覚えているのはここからだ……。
 炎色の夢。辺りを包む緋色の炎。焦げ臭い匂いと、血の生暖かさ。
 先程まで自分の首を絞めていたらしき男は死んでいた。
 脇腹が血で濡れている。どうやら返り血ではなく自分の血らしいのだが、いつの間にこんな怪我をしたのか、覚えていない。
 ただ炎の中で鮮やかだったのは白と紅。
 カツン、と場違いに硬質な長靴の音を鳴らし、あの人は――。
 自らの記憶と、夢の少年の声音が重なる。

 ――お前は、我が墓標。

 ルルティスは叫んで飛び起きた。
「――――ッ」
 心臓が破れそうなほどに飛び跳ねている。咄嗟に呼吸を間違えそうになって、慌てて息をする。当たり前のことだが首を絞められたのはもう何年も前の話で、今のあれは夢で、当然今は首は痛くない。それでも自然と夢で男の手に絞められた箇所へと手をやった。
「あの……」
 とにかく鼓動を落ち着けようとするルルティスの耳に、遠慮がちな声がかけられた。
「大丈夫ですか?」
 その人物の顔を見て、ルルティスは今まで寝かせられていた寝台の上で再度倒れかける。
「だっ!? さ、さっきの!」
 白銀の髪に鳩の血色の瞳。少女めいた美しい面差し。先程ルルティスが薔薇園で踏んづけてしまった人物だ。できればあのまま忘れて、なかったことにしたかったがこんな時ばかりすっきりとよく思い出せてしまった。
「違います」
 だが面差しと違って、特に気が弱いわけでもないらしい少年の唇からはきっぱりとした否定の言葉が返る。
「え?」
「あなたが先程会った人物は僕の兄様です。僕ではありません。何があったかは聞かされませんでしたが、僕はとにかく倒れたあなたの介抱をするようにとだけ命じられました」
 そう言って、彼は枕元に置いてあったらしい、ルルティスのものである眼鏡を差し出した。視力の多少悪いルルティスは、それをかけねばはっきりとものを見る事はできない。
 とはいえそれをかけたところでも、正直言って目の前の少年と先程会った人物との違いがよくわからなかった。兄弟と言うだけあって、きっと良く似ているのだろう。横に並んでもらって違いを明確に理解しなければまた間違えてしまいそうだ。
「あ……えと、そう、ですか」
 目の前の少年は美しいが、その整った容姿に反比例して愛想と言うものが欠けていた。ここは皇帝の居城の一室だと淡々と説明されて、身構えていたルルティスは拍子抜けしてしまった。先程の相手ならば拝み倒して赦してもらおうかと思ったが、事情も聞いていないというこの少年相手にそんなことをしても仕方がない。どうやって城に入れてもらおうかと来る前は悩みどころだった問題も、知らぬ間に解決してしまったようであるし。
 大幅に予定が狂ってしまったが(自業自得であるが)これからどうすればいいのだろう。
「え、と。さっきの人は……」
「兄様は用事があるということで今はお客様とお話中です。あなたが目覚めたら知らせるようにと言われましたが、どうしますか? さすがに起きてすぐ動けと無茶は誰も言わないでしょう。もう少し休むのであれば、そう伝えましょう」
「いえ……大丈夫です」
 段々と頭がはっきりしてくるに連れてルルティスは素早く室内の様子や、目の前の少年の様子を窺った。皇帝の城の一室だという部屋の中は豪奢で、粗末な身なりの自分など完全に浮いてしまっている。この部屋に完全に調和する目の前の少年の衣装は絹製だと一目でわかった。
 ここは間違いなく皇帝の城らしい。実は間違いなく、などと頭につけずとも皇帝領には其処以外に建物がないので選択肢はもともと一つだけなのだが。
「あの……できれば先程の方にお会いして直接お詫びを申し上げたいのですが」
「お詫び?」
 目の前の少年は本当に何一つルルティスと件の人物との出来事を聞かされていないらしく、怪訝そうに眉を潜めた。
「は、はい。あと、ええとできれば皇帝陛下に謁見をお願いしたいのですが」
 続いて告げたルルティスの言葉に、ますます少年の眉が寄る。
「あなたにとって、皇帝陛下への謁見はついでで済むような事項なのですね」
「~~~ち、違います! そうではなくて!」
 どうもこの少年は話しにくい。皇帝領に仕える人物というのはみんなこんな感じなのだろうか。だったらどうしようと青褪めつつルルティスが思う中、しかし目の前の少年は渋るような様子とは裏腹に行動自体は素早かった。
「では行きましょうか。あなたの望みは二つ同時に叶うでしょう」
「二つ……?」
 思わせぶりな言い方に、ルルティスは咄嗟に先程の自分の発言を振り返った。
 できれば先程の人物に詫びを。
 皇帝陛下に謁見を。
 ……その二つが同時に叶うということは。
「申し送れましたが」
 今気づいたという風でもなく、明らかにわざとらしく、ようやく目の前の少年が名乗る。
「僕の名は、ジャスパー=ライマ=ローゼンティアと申します」
 ローゼンティア。
 ジャスパーと名乗った少年のファミリーネームに特に注目して、ルルティスはまたしても凍りついた。
 ローゼンティア。それは一般には北のシュルト大陸東部にある王国の名、そこの王族の名を指す。
 しかしその名も、ここ皇帝領にあっては大きく意味を変える。まがりなりにも学者の端くれであるルルティスは、皇帝のフルネームをそらで言える。
 ロゼウス=ノスフェル=アケロンティス=ローゼンティア。
 まさか、という思いはジャスパー少年がしっかりきっかり打ち砕いてくださった。
「あなたが先程お会いになった相手は僕の兄、そしてこの世界の皇帝、ロゼウス=ローゼンティア陛下です」

 よりにもよって、世界皇帝の顔を踏んづけてしまいました。

(ごめん、マンフレート君、僕はやっぱり打ち首かもしれない――――)
 ジャスパーに促され、ルルティスは悲壮な顔で寝台から這い出ることとなった。