薔薇の皇帝 01

004

 ジャスパーに案内され、ルルティスはひとまず皇帝と顔を合わせられることになった。ジャスパー自身も詳しい事は聞かされずただ成り行きでルルティスの看病を任されたらしく、とにもかくにも皇帝に会って話さなければこれからのことを決めようがないという。
 陛下は忙しいのではと問えば、迂闊に向こうの用事が終わってからなどと気を遣うと一ヵ月も二ヶ月も話を聞いてもらえなくなるが、それでも良いかと尋ね返された。さすがに世界皇帝ともなればやることなすこと山積み、予定はひっきりなしらしい。
「あなたは陛下のお知り合いですか?」
「い、いえ」
「そうですか。陛下のお客人に僕ごときが事情を聞くのは差し出がましいので控えますが、それならば少しの間、時間がかかるかも知れないと覚悟してください。それとも、急ぎのご用件でしょうか」
「いいえ、そんなことはありませんが……あの、時間がかかるって?」
「皇帝陛下は今、来客の応対中です」
「来客?」
 世界皇帝に目通りを願う人物ならば、それこそ数え切れないだろう。殺戮皇帝と怖れられてはいても、この世界一の権力者だ。取り入ろうとする輩も多いはず。
 皇帝に来客というのはそう不自然ではないようだが、ルルティスはジャスパーの様子が気になった。何処か忌々しいような舌打ちを聞き取ったのだ。
「どうせいつもの厄介事だ」
 ジャスパー本人に聞かせるつもりはないような呟き声だったのだが、苛立ちを含んだそれをルルティスは聞いた。
「あのー」
「何です?」
「皇帝陛下って、どんな方ですか?」
 長い廊下を歩く途中、ジャスパーが立ち止まる。鬱陶しいものを見る眼差しにルルティスは一瞬怯んだが、すぐに気を取り直して返答を待つ。
 どうせ自分はすでに、よりにもよって世界皇帝の顔面を踏みつけるという暴挙を行ったのだ。これ以上怖いものなどない。毒を喰らわば皿まで。どうせ縛り首になるのであれば、あらゆる好奇心を満たしてからの方がいい。
 ルルティスは開き直った。
「……」
 モノローグを読み取ったわけでもなかろうが、ジャスパーの視線がますます、胡散臭いものを探るようなものとなる。
 一方開き直ったルルティスはルルティスで、自分を観察するようなジャスパーを逆に観察していた。
 白銀の髪に深紅の瞳は、ローゼンティア人の特徴だ。バロック大陸にもローゼンティアから移住してきたローゼンティア人はいる。旅の途中でそれらの人々と顔を合わせたこともあるルルティスは、今更それぐらいで驚いたりはしない。
 しかし単純な人種の違いとはまた別に、ジャスパーの容姿には特徴があった。
 綺麗だ。単純な美的判断としてそう思う。人間よりも色素の薄い、紙のような白さを誇る肌と輝く銀髪に、鳩の血色の瞳には長い睫毛の分だけ薄い影が差している。
 そしてやはり、一瞬だけ見た皇帝に似ている。同じ人種というだけではなく、兄弟だから似ているのだろう。こうして改めて見て違うと判断できるのは、年齢だ。目の前の少年はルルティスとさほど変わらず、少し幼げに見えるが、皇帝の方はルルティスよりも顔立ち自体は大人びていた。実年齢は四千年以上だろうが、おそらく外見年齢としては十七、八歳。
 十七歳。皇帝ともなれば多少姿形を弄るくらいわけないだろうが、それでも特に若いその姿。何か特別な意味があるのでもなければ、彼はもともとその年齢で皇帝の地位についたということになる。ルルティスと大差ない年齢で、一体何を思って血と殺戮の薔薇皇帝は生まれたのだろう。
 知りたい。
 ルルティスは学者だ。好奇心は強い。知りたい。
 彼はただそれだけのためにここに「ある」。
「……会ってみれば、わかりますよ」
 じっと見つめられてルルティスの視線に何か感じたのか、ジャスパーは結局何一つ答えず、そんな言葉で話を打ち切った。
 かといって特に誤魔化したというわけでもないようだ。と言うのは、ルルティスが我に帰って歩き出すよりも一瞬早く歩き出した彼が、すぐに傍の部屋の扉を開けたからだ。
 部屋の中から、複数の人間の話す声が聞こえてくる――。

 ◆◆◆◆◆

 その話が持ち込まれたのは、つい数刻前だった。
「来客? 会った方がいいのか?」
「それは自分で判断しろよ。僕はただ、門衛が困ってたから連れて来ただけなんだからさ」
 皇帝が抱えて運んできた少年――意識を失ったルルティスの看病の手配をてきぱきと下しながら、エチエンヌはあることを思い出してロゼウスに告げた。元々彼はそれを伝えにロゼウスのもとへやって来たというのに、思わぬ事態に驚いてうっかりと忘れるところだった。
「お前に頼み事だってさ。何か雰囲気的に、昔を思い出す感じ」
「じじ臭いよ、エチエンヌ」
「黙れ四千二十歳。僕はお前より二歳若い。とにかく、この人は誰か他の奴に任せて、お前はそっちに行った方がいいんじゃないか?」
 気の遠くなるほど長く生きているロゼウスたちにとっては、もはや何を思い出しても昔のことで、最近と言う言葉がすでに数百年単位である。とはいえ、エチエンヌの言った言葉は当たっていた。
「お願いします! あいつを助けてほしいんです!」
(リリとフィデル――)
 皇帝にお願い事があるのだと、わざわざこの、世界の果てにある大陸《皇帝領》までやってきた二人の話は、四千年前、それこそロゼウスが皇帝として立つ以前に受けた依頼と似ていた。
「詳しく話を聞かせてもらおうか」
 フィルメリア王国からやって来たという二人は若かった。一人は二十をいくつか過ぎた頃であろう青年で、もう一人は十五、六の少女だ。最初から二人でやってくるところや、青年と少女という組み合わせはリリとフィデルとは似つかない。しかし追い詰められた者に特有のその空気が少しだけ、遠い昔に関わったかの二人を髣髴とさせた。
 リリとフィデル、あの二人はロゼウスにとって特別だった。彼らの事件をきっかけとして、ロゼウスを皇帝として、人の世界と向き合う道を得たのだ。それはあの時、ロゼウスと一緒にメイセイツへと赴いたエチエンヌにとっても同じだ。
 とはいえ、四千年前の出来事とこれから青年と少女の二人組に聞く話が全く同じということはありえないだろう。ロゼウスとエチエンヌはひとまずルルティスの介抱を手の空いていたジャスパーに任せ、部屋を用意してフィルメリア王国からの客人の話を聞くことにした。
 彼らの年収でも買えないだろう高価な家具で埋め尽くされた室内に圧倒されていた二人は、蒼い髪の青年の手によって目の前に湯気を放つ暖かな紅茶が置かれたところでようやく我に帰ったようだった。金髪の少女が、長旅に疲れた彼らにまずは何か胃に入れるよう勧める。
 門衛ともめたという二人組の容姿は、彼らの出身国であるフィルメリアの特徴そのもの。薄緑色の髪と榛の瞳を持ち、身なりは素朴な平民らしい服装だった。独特の土臭さがないので農民というわけでもなく、街でそれなりの暮らしをしている人間だろう。そこまでは二人の格好からロゼウスは判別する。本題はここからだ。
 ちなみに現在この部屋にいるのは、二人の客人を除けば皇帝ロゼウスにその従者エチエンヌ、彼の双子の姉であり皇帝の寵妃として知られるローラ、皇帝の側近、リヒベルク伯爵リチャードだ。皇帝と三人の侍従に、異母弟ジャスパーを足して大体五人が常に行動を起こす時の基本形態である。
 ロゼウスたちが話を聞く体制を整える間、客人二人は必死で出された軽食をぱくついていた。皇帝の前ではあるが、謁見でもない私的な応対にそこまでがみがみ煩く言うような人間はこの皇帝領ではやっていけない。行儀の悪さなど全員が端から黙認する。
 彼らがちょうど食事を終える頃合を見計らって、ロゼウスは早速尋ねた。
「助けてほしいあいつとは誰のことだ。それ以前にまず、何故お前たちはここへやってきた。一から話せ」
「頼みを聞くかどうかはわからないけど、とりあえず言うだけならタダだよ。いくら殺戮皇帝たってこのぐらいで殺したりとかしないから、遠慮なくじゃんじゃん言ってやって」
 偉そうなロゼウスの言葉に、なんとも適当な調子でエチエンヌがフォローらしきものを入れる。あくまでも「らしきもの」であって、完全なフォローではない。ないが、それでもフィルメリアからやってきた二人は僅かに緊張がほぐれたらしく、真剣な表情で事の起こりを話し始めた。
「俺の名はライス、この娘はフィオナ。見ての通り、俺たちはフィルメリア人です」
 青年が簡単な自己紹介を終えると、今度は少女、フィオナが後を引き継いだ。
「助けてほしいのは、私の兄グウィンです」 「お前の兄?」
「はい……」
 ロゼウスたちは一斉に、小柄なフィオナへと注目する。なかなか愛らしい顔立ちをした、緑の髪をおさげにした少女。俯いた彼女に代わり、再びライスが話し出す。
「彼は俺たちの街出身の神学者なんですが、先日貴族の不興を買い、今、街で虐げられているのです。……俺たちの故郷は小さな街で、ほとんどその貴族が街を支配しているために、街の重役たちは皆貴族の言う事を聞かざるを得ません」
「ってことは、つまり?」
 助けてほしいグウィンという人物の現状に関し、ライスは多少遠回しな言い方をした。エチエンヌの促しに、彼は苦々しげに顔を顰めながら答える。
「仕事を奪われ、街の者たちは、一切グウィンに手を差し伸べることを禁じられました」
 ロゼウスやエチエンヌたちは、この四千年間に、何度も同じような話を聞いてきた。貴族の権力が強い国の中、街の有力者に憎まれると平民はとても生き辛い。街中にその者に良くしてはならないと触れが回り、昨日まで親切にしてくれた人々から急に突き放されるのはやられた相手の方は相当堪えるのだ。
「干されたわけか。だが、それくらいなら」
「それだけじゃないんです」
 それでも仕事を奪われたくらいなら、まだ生きる道はある。生まれ育った街の者たちに虐げられるのは辛いだろうが、学者であればどこでだって、生きるのには困らない。
 しかし、問題はそれだけでは終わらなかったのだという。
「その貴族は国内外の有力者にも繋がりを持ち、兄を貶めるために手を回しました。それに兄の論文は……」
 ロゼウスは歯切れの悪いフィオナの口調に「何か」を感じ取る。それが彼女とライスの口を重くさせ、この話をややこしくしている要因のようだが、何故か彼らはそのことを話すのを嫌がっているようだ。
「お前の兄が、貴族に不興を買った理由とは何だ」
「!」
 先程はあえて触れず、先送りにした「理由」についてロゼウスは問いかける。当初の様子ではそこで突っこまず後にした方が話が進むかと考えられたのだが、これは逆だ。
 まずこの事態の理由となる、フィオナの兄グウィンが貴族を起こらせた原因を問いたださねば始まらぬものだろう。
「そ、それは……」
 凍てついた深紅の瞳持つ美貌の皇帝に見つめられ、フィオナは思わず視線を彷徨わせようとする。しかし、薔薇皇帝はそれを許さない。
「フィオナ」
 気遣うようにライスが名を読んだが、少女は答えられない。
 皇帝は決して少女を睨みつけているわけではない。ただ、見つめているだけだ。しかしただそれだけのことが、少女にはこれ以上ない威圧となる。ロゼウスの瞳は、それだけで魔力を持っているようだ。
 感情が篭もらず、ただそれだけで深い色に輝いている宝石のような瞳。人間らしいとは思えない。しかし、魔族だからという理由で簡単にも片付けられない。
 何なのだろう、この人は。
本能的な恐れに、フィオナの口が滑る。
「兄の書いた論文は、神を――」
「神を?」
 震える手が少女自らの頬に当てられ、絶望するように彼女は呻いた。
「神を、冒涜するものだと、教会の方々に、言われました……」
「神を冒涜?」
 フィオナの様子とこれまでの話が繋がらないらしく、エチエンヌが首を傾げた。
「お兄様は、論文の中で神を侮辱したり、貶したりされたのですか?」
 ぎゅっと目を瞑り怖れを堪えるようなフィオナを気遣い、リチャードが優しく声をかける。これまで一度も喋らなかったローラがそっと少女の隣に移動し、膝の上に重ねた手の上に自らの手を重ねる。
 ハッとしてフィオナは顔をあげた。目を開けて、ローラの顔を認めて心なしか安堵した様子を見せる。年頃の少女同士何か通じ合う物があったのか、ローラの体で半分身を隠すようにしながら、リチャードの問にゆっくりと答える。
「い、いいえ。でも、その、聖女シレーナ様の奇跡を否定する内容だと、それで――」
「本当にそういう内容だったのですか?」
「私には、よくわかりません……」
 帝国において、学者という存在は貴重だ。一国に五十人もいない超優秀な頭脳を持った人材が、国の中央の学院に集まり知識を学ぶことになる。それが学生であり、学院を卒業すると、正式な学者を名乗る事が許され、それぞれ国や権力者の抱えとなって自らの研究に没頭するようになるか、もしくは学業から手を切って故郷に帰る者もいるという。
 兄が学者であるからといって、妹のフィオナもそこまでの能力があるとは限らない。彼女には兄の書いたものが理解できなかったのだろう。論文の内容まではわからないと言った。
「兄は、先に発表した論文を学院から認められて学院を卒業しました。けれど、街に戻った途端、教会から攻撃を受けたんです」
「そういえばお兄様は、神学者と言っていましたね」
 リチャードの言葉に、フィオナは力なく頷く。様子を見かねたのか、彼女の言葉をライスが再び引き継いだ。
「グウィンの奴は、小さい頃からシレーナ教の経典に興味を持っていました。だから神学の道に進んだんです」
「失礼ですが、あなたは?」
「俺はグウィンとフィオナの幼馴染です。街では小さな雑貨屋をやってますが」
 もともと皇帝領に来ることを提案したのは、兄を救いたいと思ったフィオナなのだという。しかし若い娘の一人旅は危険だと、気のいい幼馴染であるライスが同行したのだという。
「お願いします、皇帝陛下、兄を、兄を助けてください!」
「俺からも頼みます! グウィンは悪い奴じゃありません、このままじゃあいつが可哀想です!」
「お前たちがここに来たのは、そのグウィンという奴を助けるためだというのはわかった」
 皇帝から良い返事をもらおうと、二人は必死に頭を下げ出す。しかしロゼウスはそんな二人を押し留めた。
「落ち着け。聞きたい事はまだある。その事件、まだ終わりではないだろう?」
「え? で、でも」
「そういえば、なんで教会から攻撃を受けたのに仕事干されたのは貴族の仕業だってことになるの?」
「え? あ、その、例の貴族様って、教会と繋がりが深いんです。教会の神父様も、貴族様を怒らせるからだと言って」
「……何かおかしいな」
「あの、私嘘なんか!」
「そうじゃない。お前が虚偽を言っているとかそういうことじゃなくてな。うーん」
 ロゼウスはフィオナとライスの二人から聞き出した話の内容を自らの頭の中で整理する。
 神学者のグウィンなる青年が、聖女の奇跡を否定する論文を発表した。その直後に、教会から苦情を言われた。論文の内容は神への冒涜だと否定され、そして彼は街での仕事を干されるようになった。仕事を干した貴族は教会と繋がりが深く、神や聖女を侮辱するグウィンが許せなかった。
 神が皇帝を選定する帝国に置いて、宗教の権力は絶大だ。その神が遥か昔、聖女に与えたもうた奇跡を否定するとは、グウィンとやらも度胸がある。
 この一連の流れを聞くと、一見グウィンの書いた論文が全て悪く、それがために彼は貴族と教会から敵視されるようになったと見える。
 だが、おかしいのだ。
 だったら何故、学院は最初にそんなものを「認めた」のだろう。
グウィンは論文を認められて学院を卒業したのだという。それならば、彼の書いた論文は少なくとも学者たちの世界では十分認められるものだったのだ。
 それが故郷に戻った途端、教会から見捨てられた?
「お前たちはどう思う?」
 ロゼウスは同じテーブルについていたリチャードとエチエンヌにも意見を聞く。
「私は陛下と同じ考えだと思いますよ」
「? 僕は二人みたいに頭が良くないから、さっぱり」
 リチャードはロゼウスに頷き、エチエンヌは肩を竦めた。フィオナを慰めていたローラは何も言わずに、ちらりとロゼウスに視線を走らせる。
 そう、この事件には、まだ裏がある。
「その貴族の、名前は?」
「あ、あの、ええと――」
「クリスタベル・バルフォア」
 突然、これまで室内にいた誰のものでもない声がかけられた。
「今、学者の世界で問題になっている人と言ったらこの人ですよね」
 全員が部屋の入り口を振り返る。彼らの注目を一身に集めたのは、亜麻色の髪をして、分厚い眼鏡の下に表情を隠した一人の少年だ。
 否、正確には表情は隠しきれてはいない。彼の口元は楽しげに笑っている。
 その少年の後ろに見慣れたもう一人の少年の姿を認めて、ロゼウスが声をあげた。
「ジャスパー」
「申し訳ありません、お邪魔かと思いましたが、この人が……」
 ジャスパーの言い分を聞く分には、どうやら彼はこの面子の話が終わるまでは顔を出すのを控えるつもりだったようだ。だが扉を開けて話し合いが終わっていないのを確かめたところで、背後からもう一人に事態に乱入されたらしい。
 ロゼウスはそれが先程。己が薔薇園で知り合った少年だと気づく。しかし先程も今も、分厚い眼鏡が邪魔で顔がよく見えない。
 彼は室内の反応を歯牙にもかけず、扉脇に立ったまま、一人異質なほどににこやかに口を開いた。
「すみません、先程のお話を一部聞かせていただきました。その問題の黒幕は、クリスタベル・バルフォア子爵だと思いますよ」
 いきなり犯人を断定した少年の言葉に、彼の乱入に一時呆然としていたフィオナとライスがはっと我に帰る。
「ま、待ってください! 私たちの街を治める貴族様は、そんなお名前じゃありません!」
「おや、そうですか? まあ僕も断片的なことしか聞いてないのでわかりませんけれど、でもあなたが言っている神学者の方は、グウィン・マクミランですよね?」
「は、はい! そうです。私の兄はグウィン・マクミランです!」
 まだこの場の誰もが耳にしていないフィオナとその兄の姓を当てたことにより、一気に亜麻色の髪の少年への期待が高まった。彼は一体何を知っているのだろうか。自然と室内は静まり、彼の次の発言を待つようになる。
「半年前くらいでしたっけ? グウィン・マクミランの神学に関する論文が発表されたのと同時期に、クリスタベル・バルフォアの同じく神学の論文が発表されたのは」
 バルフォア、という名前に聞き覚えがあるらしく、リチャードが一度部屋を出て行く。
「二人の論文の内容は正反対で、二人とも一応の評価は下されました」
「一応とは?」
「学院が高い評価を与えたのはマクミラン論です。けれど、世間に受け入れられたのはバルフォア論。ただし、バルフォアの論文は新見ではなく、よくよく昔の論文を引っ張り出してみれば、もうすでに誰もが言っていることを新たに編集しなおしただけともとれるものでした。それに対し、マクミランの主張はこれまでに比べて革新的でした。かといって、教会を批判するほどのものではありません」
「つまり?」
 フィオナを促した時と同じように、エチエンヌが彼に結論を急がせる。
 少年は快く、笑顔でさらりと事件の核心を口にした。
「子爵であるバルフォアの論とマクミランの論は対立するものです。マクミランの論が受け入れられると、バルフォアは困るわけですよ」
「だから、そのバルフォアって言うヤツがフィオナちゃんの兄を攻撃してるってのか?」
「だと思いますね。内容ではなく、権力や世間的な受け入れなどというもので学術の価値を測ろうとはまったく、フィルメリアの貴族派閥は愚かしいとしか言いようがない」
 憤慨する亜麻色の髪の少年の横から、先程室内を出て行ったリチャードが顔を出す。
「先程の名前、貴族年鑑にありました。バルフォア子爵は、フィルメリア王国の貴族と深い繋がりを持ち、フィオナさんの街の領主とも懇意にしています」
「決まりだな」
 リチャードの報告を受けて、ロゼウスが言った。
「バルフォアはそこから、フィオナの兄にイヤガラセをするよう頼んだのだろう。――フィルメリアへ向かう」
「陛下、ですが決済の終わっていない書類がまだ」
「リチャード、任せた」
「……はいはい。どうせ私がやるよりも、あなたが帰ってきてから片付ける方が早いくせに」
 この展開に慣れた者の諦め口調で、リチャードがロゼウスの仕事を引き受けた。実際皇帝であるロゼウス程の能力がリチャードにあるわけもなく、また皇帝本人でなければ判断を下せない仕事も多い事を考えればリチャードがやる意味はないようなものだが、それでも仕事せんでいいですよとは言えないのがこの世界だ、らしい。
 ローラとジャスパーは留守番で、この件の依頼者であるフィオナとライスを除けば、エチエンヌが一緒に現場へと向かう。
 そして先程の少年と。
「……あのさ、ジャスパー様」
「何です? エチエンヌ」
「ところでさっきのあの人、結局ダレ?」
「さぁ……」
 今更のように尋ねられて、そういえばジャスパーも彼の名を聞いていなかったことに気づく。ロゼウスと出会い頭に卒倒したもう一人の客人の方からは、まだ何をしにこの皇帝領へやって来たのか、名前も用件も何一つ聞いてはいない。
 しかしそんなことを誰かが指摘する間もなく、今はフィオナの兄を救うのが先と言わんばかりに、フィルメリアへの旅支度がとんとん拍子に整えられていく。
 先程話にいきなり乱入した少年の方でも、何故か自らの用件を一切口にする事はなく、にこにこと一行の様子を眺めている。
「では行くぞ、いざフィルメリアへ」
「はーい」
 そしてとんだ成り行き任せで、フィルメリアからの訪問者と皇帝とその従者、そして謎の学者一名を加えた一行は旅に出ることになったのだ。