005
「おめでとう、これで君は最高の名誉と共に、この学院を卒業だ」
望んでいたものは、ささやかな幸せだった。その時はただ当たり前に、自分は夢を見ることができるのだと思っていた。
「故郷でも頑張りたまえ。君ならばきっと、素晴らしい学者になれるよ。グウィン・マクミラン君」
「ありがとうございます、学長」
フィルメリア王都に存在する学院、その最終年次の単位を全て取得し、また優秀な論文を書いて成功したグウィンは、これまで七年間世話になった学長へと頭を下げる。高価な家具が並ぶ学長室で卒業証書を手渡されて、グウィンは自然と口元を綻ばせた。
「それにしても君の卒論は見事なものだったね。帝国七千年の歴史と共に受け継がれてきたシレーナ教の解釈に関して、あんなにも斬新な意見を述べたのは恐らく君が初めてだよ」
「そんな、もったいないお言葉です。俺個人の力ではなく、学院の皆さんの力を借りたおかげです」
「ああ、それに昔は宗教に対する締め付けもきつかったが、今は皇帝陛下のおかげで学問に関する権利も保証されているしな」
素晴らしい論文を書いたグウィンの前途は洋々、ひとまず故郷に戻り両親に顔を見せて直接このことを報告してから、どこか学者として仕える貴族の家を決め、新たな道を踏み出すつもりであった。
――あんなことがなければ。
「そんなことありません! 俺の論文は、学院でも正式に認められたものです!」
「しかし、こちらには教会の正式な書簡があるのだ」
「何かの間違いです! 俺は聖女様を侮辱したことなどありません!」
故郷に戻ったグウィンの迎えたのは妹、フィオナの温かい笑顔と、親友・ライスの変わらぬ厚意と、――そして街からの迫害だった。
「ごめんね、グウィン。あんたのうちには何も売るなって、領主さまからのご命令で……」
「ほら、行くわよ! あのお兄ちゃんとは話しちゃダメよ!」
「帰ってくれないか。お前と口をきくとこっちまでとばっちりを受けてしまう」
「グウィン、すまないが……」
彼の故郷の街は、街という言葉がぎりぎり当てはまるほどの小さな街だった。その街を支配するのは一人の貴族であり、その領主が街の教会から働きかけて命じたらしい。
聖女の威光を汚そうとする不届き者、グウィン・マクミランに手を差し伸べてはならぬ。
グウィンが学者として成功したと聞いて、その内容は知らぬまでも我が事のように喜んでいてくれた街の人々は突然手のひらを返したように冷たくなった。すまなそうな顔をしながらも、グウィンが物を買いに行けば突然店先を畳み始める。面と向かってはっきり売るのを断られたこともあった。話しかけようとすれば目をそらされ、道を歩けば小さな子どもたちまでもが彼を避ける。
グウィンは呆然とした。この街の暮らしを支えているのは一人の貴族。街の者たちは、領主に逆らえば明日から生きていけない。だから、領主が命を出したのであればこの態度も仕方ないのだとわかっている。
わかっている、けれど。
「グウィン、もう、ここは領主さまの言うとおりにしておくれ」
「馬鹿な! 俺に自分の論を捨てろって言うのか? 母さん!」
領主と教会がグウィンに対してかけてきた圧力はただ一つ。彼が学院を卒業する際に提出した論文の内容を撤回すること。
王都の学院は、決して誰でも入れる場所ではない。各王国に原則一つとして定められている学院は、入学に際し相当の条件を課す、特に優秀な者だけがくぐれる狭き門だ。
入学に関する決まった年齢はなく、それこそ幼児から老人まで様々な年齢と職歴の者が入学する。グウィンのように十代半ばで入学し、二十代から三十代で卒業する者がほとんどだが、中には何とか入ることはできても卒業できずに何年も学生を続ける者もいる。卒業するまでに最短で二年だというが、上限の方は限りがない。
そんな中、グウィンは六年をかけて学院を卒業し、優秀な生徒、これからは優秀な学者だとようやく認められて故郷へと戻ってきた。
在学中いつも優等生だったわけではないグウィンにとって、学院から認められた論文は彼の誇りそのものだった。それを今更撤回などできるはずはない。
「頼むよ、このままじゃあたしたちもフィオナもお前も、みんな生きていけやしないんだよ! そもそも学院への金だって、誰が出してやったと思っているんだい!?」
初めは学者としてのグウィンの栄達を素直に喜んでくれた両親は、彼のせいで街からの迫害に遭うと、一転して息子に領主に従うよう勧め始めた。
「それだけはできない!」
「この親不孝者! お前は家族と学者としての名誉、どちらが大切なんだい!?」
「金なら俺が稼ぐ! 学者としてどこかの貴族に雇ってもらえれば、きっと」
「誰がお前を雇うのさ! 領主さまが手をまわして、ここらの貴族様はみんなお前のことなんか見向きもしないんだよ!」
「やめてよ、お兄ちゃん! お母さん!」
妹に宥められながら母親とのやりとりを収める。グウィンにも母親の言うことがもっともであることがわかっていた。この街の周辺では、もう誰もグウィンのことをまともに扱おうとはしない。
街の人々はグウィンの一家を避け、彼らのために品物を売ってくれなくなった。わずかな旅の行商人などからようよう食料を手に入れて命を繋いでいるのだ。それだって街から旅の商人が出て行ってしまえば、いつ干上がってしまうかわからない。
まるで世界中を敵に回したような孤独感。この街のどこにも、グウィンの味方はいない。
これまで親切にしてくれた全ての人々が、グウィンに対して厄介者を見るような眼差しを向けてくる。彼の論文の内容が大陸に広く浸透しているシレーナ教を侮辱するものだと教会に言われたことを鵜呑みにし、信仰心の厚さゆえにあからさまに敵意を向けてくる者もいた。
「お兄ちゃん……」
「元気出せよ、グウィン。きっとなんとかなるって」
妹のフィオナや友人であるライスに慰められるも、事態はまったくと言っていいほど好転しなかった。教会からは白眼視され、領主からはグウィンの一家に対し便宜を図ることがないよう厳命が下されている。
家族の不満は日に日に募り、とうとう両親は家を出て行った。隣町の叔母夫婦のもとへと身を寄せている。
妹のフィオナは残ったが、彼女一人で何ができるわけでもない。そしてグウィン自身も、何もする気が起きなかった。
家にあった酒を飲み、怠惰に日を過ごす。
街に出たところで、虚しく悲しくなるだけなのだ。だったら外になど出ない方がいい。
現状が辛いこの今、グウィンの方からできることと言えば自らの論を捨てることだけだ。だがそれはできない。絶対に、できない。
確かに自分普通の町人より頭はいいのだろう。学者になるならば国内で二桁以内の学力はないと無理だ。だが、だからといって話に聞いた事のある賢者や、先年出てきた奇才と呼ばれる人物ほどの実力がグウィンにないのも明らかだ。
それでも本来学者であるということは、大きな誇りなのだ。七年もかかって手に入れた学位。捨てられない、絶対に。
自分は神学者の名にかけて、聖女の侮辱などしてはいない。
命をかけても―――。
「なぁ……グウィン、こうなったら皇帝陛下のところへ行かないか?」
「え?」
「だって学術関係の総責任者って皇帝陛下なんだろう?」
「それを言うなら軍事も国政もすべてを辿れば総責任者は帝国最高責任者の皇帝陛下だが……」
「ほら、昔伝えにもあるじゃないか。皇帝陛下の御前に直接出て願いを叶えてもらった人の話」
「あんなもの、夢物語だよ……」
「ライスさん、まさか本当に行く気ですか?だって、今の皇帝陛下はとっても恐ろしい方だって……」
「今と言ったってもう治世四千年だろ? その間に願いを叶えてもらった人もいるんだ。ここでびびってちゃ何一つ解決しないだろ! グウィン、お前は間違ったことをしていないんだろ!」
「あ、ああ……」
「だったら行くぞ!」
友人のライスが、彼に控え目ながらも賛同したフィオナを連れて街を出た。皇帝に謁見を求めに行くのだという。
彼らの行動が自分のためだと知りながら、だがグウィンはそれが成功するとは信じていなかった。
帝国の支配者が、こんな小さな一件のために動くはずはない。
それでも、街にいればライスやフィオナも一緒に街の者たちから虐げられ続ける。グウィンは旅立つ二人の背を、酒瓶の転がった室内から力なく見送った。
そのしばらく後に、それは起こった。
「グウィン・マクミランだな?」
役人たちが突如として家に押しかけてきて、グウィンに心当たりのまるでない嫌疑をかけていく。
「違う! 俺じゃない!」
一向に自説を撤回しようとしないグウィンに、向こうも痺れを切らしたのだ。こうなったらなんとしてもグウィンを社会的に抹殺しようと、強硬策に出た。
街の人々は当然助けてくれない。ライスもフィオナもいない。もっともあの二人がこの場にいれば間違いなく巻き込まれていただろうから、それはもしかしたら幸運だったかもしれない。
グウィン・マクミランは街役場の地下牢へと連行された。
◆◆◆◆◆
夢を見る。
いつものように、夢を見る。
皇帝となったロゼウスにとって、夢とはただ睡眠中に己の深層心理を何らかの形で見るものではない。夢を通じて世界の出来事を知り、夢を通じて未来を垣間見る。魔術は夢と結びついていることが多い。かつて大予言者と呼ばれた魔術師ハデスが夢を通して未来の一部を知りえたように、夢とは神秘の領域だ。
だからこそ、ロゼウスは夢を見る。
その眠りの中でも決して会えない人のことを思いながら、夢を見る。
夢を見るのに一番最適な場所は、宮殿の周りを取り囲む薔薇園だった。エチエンヌなどからは再三やめろと言われているのだが、どうにもあそこが一番居心地がいい。ただでさえ皇帝のためにと整えられる皇帝領、あの薔薇の庭は、ロゼウスの心を写す鏡だ。もともと薔薇の花に埋もれた死体が花の魔力を得て蘇ってきた存在だとして伝えられるローゼンティアの吸血鬼にとって、薔薇の花は己の魔力を高めてくれる存在だ。というと何か格好良い気がするが、ロゼウスやジャスパーのようなヴァンピル本人の考えからすると、「非常食」だ。
それはさておき、その夢の中に出てきたのはロゼウスが現実によく昼寝をしている薔薇園だった。
「……あれ?」
夢の中で、ロゼウスはあたりを見回した。頬にさらりと軽い感触があたってふと己の髪の長さを確認してみたところ、短い。肩に届くかという長さで切りそろえられた髪型は、その昔彼の通常のスタイルだった。しかし四千年の時を経た今では皇帝としての正装に合わせて、地を這うような長さの白銀髪を腰の高さまで結いあげている。
現実では髪の長さ自体は実際よく変更しているが、夢の中では正装でいることが多いのでだいたい長い。それが今日は昔に戻ったように短かった。ついでに服装に目をやれば、黒いドレスだ。女装だった。
しかもそのデザインは、かつて彼があのエヴェルシードに暮らしていた頃の―――。
「ロゼウス」
背後から名を呼ばれた。その途端に彼は凍りついた。
信じられなかった。
今の声、知らぬ声などではない。むしろ、よく知っている声だ。この四千年間、ずっと求め続けていた声だった。夢の中ですら会えない人の声だった。
それが何故、今になって?
恐る恐る振り返ってみると、背後にこれまではいなかったはずの一人の少年が立っている。
こちらが慣れたあの黒いドレスならば、彼も見慣れた赤い軍服風のエヴェルシード国王の正装を身にまとっていた。蒼い髪に橙色の瞳が多いかの国の中でも少し異質な、藍色の髪に燃える朱金の瞳。
「……シェリダン!」
これは夢だ。
「久しぶりだな」
だから、醒めないことを願った。
ロゼウスは駆け出し、少年の胸に飛び込む。細身に見えて力強い腕が、やすやすとその身を引きこんだ。
踏みにじられた足元の薔薇が舞い散る。これだけ無残に踏み荒らされながら、彼らは皇帝のその身を傷つけることはない。
深紅が舞う。
「会いたかった……会いたかった!!」
言語中枢が崩壊したかのように、たった一つの言葉しか思い浮かばない。会いたかった。本当に会いたかった。
この四千年間、永い永い生という名の牢獄の中、ただそれだけを願い続けた。それさえあれば良かった。
胸に縋りいきなり泣きじゃくるロゼウスに対し、シェリダンは何も言わない。ただ、気の強い彼が滅多に見せない困ったような笑みを浮かべて、ロゼウスを抱きしめている。
やがてロゼウスの嗚咽も収まりかけてきた頃になって、ようやく彼は口を開いた。
「ロゼウス」
その声で一言名を呼ばれるたびに、ロゼウスの胸は締め付けられる。彼だ。間違いなく四千年間求め続けたシェリダンだ。今なら死んでもいい。いや、むしろ今この瞬間にでも死んでしまいたい。彼のいない生を繋ぐ苦しみは耐えがたく、この幸せな夢から抜け出したらもう、まともに生きていけないかもしれない。
「シェリダン……」
「すまない」
きゅっと彼の服を握る手にわずかに力をこめて、ロゼウスはますますその胸に縋りつく。けれどその次の瞬間耳にした言葉は、彼の予想を裏切り信じがたい響きを伴っていた。
「私は、お前に会いたくはなかった」
「――――え?」
驚き思考停止、思わず顔をあげたロゼウスに対し、シェリダンはしっかりとその目を覗き込むと、聞き間違いようもなくはっきりと言い放った。
「私は、会いたくなかった」
ロゼウスは目を見開く。
「ど……」
そんな酷いことを告げる時でさえ、シェリダンの瞳にはロゼウスへの憎しみなど欠片も見当たらない。彼を殺したのはロゼウスなのに、恨みつらみなど浮かべてはいない。
ただ、透明なほどに澄んだ眼差しで告げることには、「会いたくなかった」。
その燃える炎のような朱金の瞳には今もロゼウスへの情愛がある。けれどその瞳を抱く美しい顔立ちを、今は困った表情に歪めている。
「シェリダン……?」
どうして。
「どうして!?」
叫んだ自分の声で飛び起きた。
「いきなりなんだよ!」
ベタな展開にはお約束とばかりに、その途端エチエンヌから後頭部にきつい一撃をもらう。
「で!?」
「あーもうまったく、なんて近所迷惑な……」
「だ、だって……」
先程見た夢の衝撃が冷めやらず、ロゼウスは金髪の従者の顔を見た途端その首に縋りつく。夢の中で自分より長身のシェリダンには胸に縋りついたが、エチエンヌはロゼウスより若干小柄だ。
「エチエンヌ!!」
「うわ! だ、どうしたんだよ! てか何やってんの!?」
思わず受け止めながら、エチエンヌは場をわきまえないどうしようもない主君にしどろもどろになった。だって今は――。
「会いたくないって言われた」
「へ?」
「夢で……シェリダンに」
「……はぁ!?」
大人しく抱きぐるみにされているわけにはいかず、なんとかロゼウスの腕を引きはがそうとしていたエチエンヌは、しかしかけられた言葉の意外さに素っ頓狂な声をあげる。
あのシェリダンがロゼウスに会いたくない? ありえない。天地がひっくり返ったとしてもありえない。ロゼウスの夢がただの夢ではなく、魔力を介した神秘の領域だということはエチエンヌも承知済みだ。
が、やはり当事者ではないエチエンヌには全てを判断することはできない。あのシェリダンが、ロゼウスに「会いたくない」などと告げることは考えられない。けれどロゼウスが今見ていた夢が霊夢の類ではなく単なる睡眠時に見る普通の夢だとしたら、ありえないことでもない。
ロゼウスはシェリダンを殺した自分のことを、深く憎み、嫌っている。その彼が夢で罪の意識から、シェリダンに嫌われる夢を見たというのならばありえないことでもないように感じる。だが――。
「誰です? その『シェリダン』って方は?」
二人の意識を今度こそ本当に現実に引き戻したのは、聞きなれない第三者からの声だった。
「あ」
「はぁ……だから止めたのに」
眼鏡をかけた亜麻色の髪の少年学者が不思議そうな顔をしてロゼウスたちを見ている。その更に向こうでは、フィオナとライスが絶句していた。皇帝の予想外に子どもっぽい態度に。
というかロゼウスが馬車の中でいきなり糸の切れた人形のようにすとんと眠りに落ちてしまった時点で彼らは仰天していたのだが。
「ああいや、うん別に気にするな」
慌ててエチエンヌから離れ、咳払いをして誤魔化そうにも、もうばっちり見られてしまった後だ。普通ロゼウスは人前ではもう少し皇帝らしい威厳を持つ、もといかっこつけをしているはずなのだが、今回は何故か出だしからこれである。
現在彼らは皇帝領から馬車に乗り、フィオナの兄にして神学者のグウィンを救うべくフィルメリア王国へと向かっているところだった。
四千年前のリリとフィデルの件とは違い、フィオナたちの話によればグウィンに関してはまだそこまで切羽詰まった状態ではないだろうとのことだった。そのため普通の馬車よりは魔力のある馬で走る分高性能だが、皇帝の使う移動能力よりは断然遅い馬車でのんびりと街道を走っているのである。
「皇帝陛下、お疲れですか? 馬車に乗った瞬間眠りこんでしまわれましたが」
「ああ、そういうことではなく、私は眠りによって世界の情勢を知る面があって――」
亜麻色の髪の少年の言葉に、なんとか場を取り繕おうとするロゼウス。そこにエチエンヌが口を挟んだ。
「そういえば、何でいきなり今日は馬車で寝てるんだ? お前いつも薔薇園で昼寝してるじゃないか。あんなところで寝てたらそのうち誰かに踏まれるからやめろっていつも僕が言っているのに……あれ? 学者先生? どうかしたの? 顔色悪いけど」
エチエンヌの言葉の途中からすぅーと青ざめ始めた少年学者に対し、怪訝な目が向けられる。
「ははははは。何でもありませーん」
ロゼウスは少年を見た。少年学者も皇帝を見ていた。そう言えばうっかり今日の昼寝は、この少年に顔面を踏みつけられて中断させられたのだった。だから眠りが足りないのだ。
しかしそれを言うとロゼウスはまたエチエンヌに「だからいつもあんなとこで寝るなって言ってるだろーが!」と怒られる。少年としても皇帝を踏んだという話は公にはしてほしくないことだろう。
二人の間で、挨拶もなしにまずいきなり無言の協定を結ぶ視線が交わされた。このことは黙ってましょーね! と。
「まったく。奇行もほどほどにしろよバカ皇帝が。お前なんかバラ皇帝じゃなくバカ皇帝で十分だ。世界皇帝の威厳がかたなしじゃんか」
「俺の威厳が大根みたいにすりおろされてるのは俺のせいだけじゃなく、ひとをあっさりバカ呼ばわりしてくれる偉そうな従者のせいもあると思うけど……それよりも」
と、ロゼウスはフィオナとライスに視線を向ける。
「何を話していたんだ?」
ロゼウスが目を覚ました時、二人は口を開きかけていた。そのことについて尋ねると、ライスが頭をかきながら言った。
「せっかくだからって、グウィンの論文の内容ってのを聞いてたんです」
「論文」
「僭越ながら僕がお二人にご説明させていただきました」
エチエンヌに学者先生と呼ばれた少年学者がにこやかに言葉を添える。彼のにこにこ笑顔とフィオナ、ライスの困ったような表情に、ロゼウスは何となく話の行方を察した。
「内容、わかったか?」
「「全然」」
学者の妹と親友は首を横に振って否定した。学者という職業は国の中で二桁に入るほどの学力を持つエリート中のエリートだ。その理論が単なる町人である二人にさらりと理解できるわけもない。
「まぁ……理論が理解できなくたってグウィンとやらを助けるのには問題ないだろうし」
最初から彼らにそんな要求をする気もなかったロゼウスが話をまとめようとすると、横から少年が口を挟む。
「そうですね。マクミラン氏のことは、皇帝陛下が責任を持って助けてくださるのでしょうし」
「学者先生……?」
その不穏な言い口にエチエンヌが柳眉を潜めた。責任。その言葉には何か、棘のようなものが含まれている気がするのだ。依頼を持ち込んだのはフィオナとライスで、グウィンが街の貴族に迫害されているのはロゼウスのせいではないのに、「責任」とは?
「……何が言いたい?」
同じように感じた当事者、ロゼウスは直接問いただす。
少年は飄々と答えた。
「だって学院制度を確立し、世界に学術保護の考えを持ち込んだのはそもそも薔薇の皇帝陛下、御身でございましょう?」
分厚い眼鏡に阻まれて、その瞳に浮かぶ光は見えない。けれど覗いた口元を猫のように微笑ませ、続ける。
「英知など、真理など、あなたがそんなものに価値を重く置かねばそもそも学者という職業はこの世に誕生しなかった。人より優れ、真実を追い求めることは社会との戦いでもあります。あなたが学院という場を用意しなければ存在しなかったかもしれない苦労を生み出した責任はとっていただかなければ」
「知恵は人の武器だ。お前は良い作物を育てるのに、何も肥料をいらないと言うの? 猛獣と戦うのに、その弱点調べたりはしないのか? 学院の学術も元をたどればそういったところから始まる。英知を得る苦労など、人の生活における単なる程度の問題だ」
「その程度こそが問題だと言っているのですよ。人は愚か過ぎても困りますが、賢すぎても生きていけない」
「選択肢が増えた方が、選ぶ未来が広がる」
「救われぬことでしか救われない。そんな思いをしたことはございませんか? 皇帝陛下」
「ちょ、学者先生! ロゼウス、お前も!」
学者と皇帝が静かに火花を散らし始めたところで、不穏な空気を感じ取ったエチエンヌが慌てて両者の間に割って入った。
「やめなってば! いきなりわけわかんない話しないでよ」
エチエンヌの言葉に、少年学者はにっこりと笑って見せた。ほっとしたエチエンヌの様子とは裏腹にそのすきを縫って、学者は更に言葉を重ねる。
「皇帝陛下、貴方は人々に夢を見せた。例え貴族でも平民でも奴隷でも、学術に関する世界の前では平等だと。貴族制度が圧倒的に多くの国を支配するこの世界で、学者は権力に縛られぬ存在だと。ならばその責任はとってください。皇帝陛下、これは貴方が見せた夢」
貴方が見た夢。貴方が見せた夢。
少年学者の言葉は、ロゼウスの胸を思いがけず引っ掻いた。
「ろ、ロゼウス?」
剣呑に眼差しを細めたロゼウスに対し、エチエンヌまでもがすっと青ざめる。挑発的な台詞を吐いた本人はどこ吹く風といった様子で、にこにこと笑っているのだが。
折れたのはロゼウスの方だった。ふぅ、と嘆息してみせる。
「わかったよ。俺はこの夢の責任をとって、フィオナの兄、グウィン・マクミランを必ず救おう」
「あ、ありがとうございます!」
兄の名を出されて、それまで会話の成行きに置いてきぼりにされていたフィオナが我に帰った。狭い馬車の中で、それでも懸命に頭を下げる。
「どういたしまして」
馬車はもうすぐフィルメリアに到着しようとしていた。