薔薇の皇帝 01

006

 そこは純白を基調とする空間だった。
 白ではなく純白、それが何を意味するのか。
 白は地域によっては喪の色とするところもあるが、アケロンティス一般的に祝い事に使われるのは白だ。結婚式など新郎新婦は白でその身を飾る。
 祝い事には白、つまりそこには、神への恭順の意思がひそやかに示されている。穢れなき身の祝福には、すなわち神の恩恵を賜るという意味で人々は白を纏うのだ。
 ではその白の中でも最たる純白に飾られた空間とはどういったものであるのか。
 それはやはり、神への信仰を示す部屋に他ならない。
 その中心には円卓があり、部屋と同じように純白の衣装に身を包んだ人々が居並んで何事か話し合っている。
 彼らの衣装こそ、白が深いあまりに銀がかって見えるような純白。
ところどころにさりげなく施された白銀の刺繍。これを縫う途中でうっかりと指に針を刺し、赤い血の染みをつけた針子は簡単にクビにされた。そうして人一人の職を奪うことも当たり前のように、貧しい民の一年の収入よりも高い衣装を着て、彼らはそこに並ぶ。
 最高級の純白に包まれた部屋、純白の衣装を着た彼らはバロック、シュルト両大陸の宗教的指導者たちであった。
 最東端に吸血鬼の王国ローゼンティアを抱き、紅の国エヴェルシード、橙のルミエスタ、黄金のシルヴァーニ、新緑のビリジオラート、青のセラ=ジーネ、深紅のカルマイン、紫のウィスタリアという人間たちの国、虹の七国を中心とし、最後に人狼族の国セルヴォルファスを加えた九カ国から成るシュルト大陸。ここで普及しているのは、その昔聖者ラクリシオンが神の声を聞いたことに始まるラクリシオン教だ。
 一方、ラウザンシスカ、アストラスト、フィルメリア、メイセイツ、サジタリエン、ネクロシア、セレナディウス、カウナード、チェスアトール、ユラクナー、黒の末裔の住む《廃境》、それに先刻薔薇の皇帝によって滅ぼされたヴァルハラー公国などが存在するのはバロック大陸。こちらでは聖女シレイナの過去の偉業を崇めるシレーナ教が盛んだ。
 二つの大陸でそれぞれ盛んな二つの宗教、しかし今はこうして、両大陸のそれぞれの宗教の指導者たちが、一堂に会して円卓で額を突き合わせている。
 彼らは先日のヴァルハラー滅亡の報を受け、急遽この場を設けることとなったのだ。
 老人たちから年若い少女まで、ラクリシオン教を信じるローゼンティア人から普通の人間たちまで、種々の国籍、人種、能力を持つ者たちが神の名の下にこうして集まっている。
 会議を取り仕切ることを決められたのは、ラクリシオン教、シレーナ教それぞれの代表者一名ずつだった。二人の司会はしわがれた老人で、どうですかな、などと会議場に集った者たちの意見を仰ぐ。
「許しがたいことです」
 その中でまず口を開いたのは、部外者から見れば何故この場にいるのかと怪訝に思われるだろう、まふぁ十代半ばといったところの、美しい少女だった。
 髪の色はヴェールに隠されて見えないが、瞳の色は淡い水色だった。つまりユラクナー人かセラ=ジーネ人、あるいは藍色の瞳を持つカルマイン人の突然変異かと考えられる。肌は透けるように白いので、褐色肌のカウナード人だということはない。
 少女はユラクナー人であった。ヴェールの下には紺色の髪が隠されている。
 彼女の衣装は、この中に集まった者たちの中でも一、二を争うほどに立派だった。それもそのはずで、彼女は南のバロック大陸において、聖女シレーナの威光を人々に伝えるために代々立てられる「聖女」、シレーナ教では名目上最高権力者の位置にいる存在である。
 聖女と言っても現代の宗教では訓練もしていない若い娘が突然大陸宗教の全てを取り仕切れるはずはなく、実際は参事会が教会を維持し聖女はお飾りのマスコットなのだが、それでも彼女は故郷においては貴族の娘であり、相応の権力を持っている。
 特に彼女――当代聖女シライナ=リズ=アーシエリは歴代聖女たちの中でも精力的に活動している人間であり、まさしくシレーナ再臨だとバロック大陸内で一般民衆からは崇められている存在である。
 彼女の行動の特徴は、その正義感の強さにあった。
「いくら皇帝といえど、一国の人間を大公から下々の民まですべて虐殺するなんて! それもかの国の神の教えを否定する形で! こんな暴挙が、許されていいはずがありません!」
 本日の議題は先日皇帝によってヴァルハラー公国が滅ぼされたことにあった。なんでもかの国はある宗教儀式を行った角で、その儀式を信じる国民一同が皇帝により皆殺しにされたらしい。
 表向き今日の議題は、ヴァルハラーが宗教規制を受けてあのような事態になったため、同じく宗教団体であるシレーナ、ラクリシオン教会はどうするべきかということであった。
 しかしその真実の狙いは、ヴァルハラーの宗教をだしにして、彼ら両大陸の二大宗教がどれだけ現皇帝に対し権力を握るかということである。その真の狙いを理解している者もいれば、していない者もいる。自分の属するシレーナ教会の目論見よりも、皇帝の非道を糾弾することに目が向いているこのシライナのように。
「第三十三代皇帝ロゼウスに関して、我ら教会は即刻対処せねばなりません!」
「して、どのような対処をすると言うのじゃ? シライナ殿」
「もちろん先日のヴァルハラーへの非道に対する誠心誠意からの謝罪を要求します。それに、他の宗教に関する保証もさせねばなりません」
 神の教えは絶対に守られるべきものです、とシライナは強い意志を感じさせる瞳で言う。
「だが、シライナ殿……貴殿の意見は正しく神の使徒たる聖女としてふさわしいものであるが、帝国においては皇帝こそが神なる考えもあるぞ?」
「何を馬鹿なことを! 神に等しき力を持っているということは、神のように振る舞ってよいというわけではありません! 皇帝が神と同体など、そんなことあるわけないじゃありませんか! でしたらどうして、歴代の皇帝陛下たちは皆紋章印を持つ選定者に見出され、《神の意志》により選ばれると言うのです!」
 バン、と円卓に両手をついてシライナは力説する。問いかけた方の老人はその威勢に押され、うむむ、と唸って引き下がった。
 それが、アケロンティスにおいての一つの矛盾でもあった。絶対的な力を持ち世界を支配せしめる皇帝はそれこそ「絶対」の存在。すなわち、一種の神であるとされる。
 だがその皇帝を選ぶのもまた神の意志なのだ。すなわち、神とは何か。
「神の意志を正しく行うものとして、皇帝ロゼウスが生きるのであれば我らとてこのようなところで顔を突き合わせる必要はない」
 一人の老人が言う。ラクリシオン教会の幹部である。
「そうじゃ。あの皇帝は神の意志を無視して暴挙を繰り広げる。非道は許してはならん」
 更に他の一人が口を開く。今度はシレーナ教会だ。
「だが、皇帝ロゼウスがあれで四千年の長き時を世界の支配者として認められているのも事実だ」
 一人がそのことを指摘すると、横合いから更に意見が出された。
「一昨年頃だがこれまでの歴史をある歴史学者に振りかえらせた」
 琥珀の瞳からチェスアトール人とわかる老人の一人が語る。
「チェスアトールきっての天才、奇才と呼ばれる学者だったが、歴代の皇帝の業績と傾向を纏めさせた。しかし、政治能力と信仰心について分析するとどうも結果があやふやだと言っておりましたぞ。歴代皇帝と言えど、中には信仰心が薄く、善政を敷く能力だけで皇帝になった者もいるようだと。今度の皇帝もそういうことではないだろうか」
 歴代皇帝の業績について調べ上げ、これまでの皇帝が必ずしも心身ともに健全な人物ではなかったと報告する。皇帝の座が空席となることは滅多にないが、それでも相応しい人材がいない時代は神が多くの人間を生かすために最も適した能力を持つ人物を見出すのではないかとチェスアトールの奇才は纏めたそうだ。
 それを聞いて教会に所属する者たちは、
「だがいくら善政を敷こうと、それが善良な心から起こされたものでなければ我ら教会としては評価するに当たらぬはずじゃ」
信仰心と心の善良さが直結している宗教者の頭でそう結論を下した。
 例え能力的に優秀であろうと、神への信仰心が厚いとは限らない。
「薔薇皇帝がいくら優れた人物と言えども、一から十まで全て正解を選びとる者などおらん。皇帝の先の行状は明らかに間違ったものであろう」
 老人の一人が言い、シライナは賛同するように強く頷いた。
 司会者が会議をまとめに入る。
「それではここに集まった各々方、今後我らがどうするべきであるか、意見を」
「三十三代皇帝を諌めねばなるまい」
「そもそも三十二代の頃から、大地皇帝は我ら教会に属さぬ《黒の末裔》だったろう。皇帝に対する教会の権力……いや、神の権威が弱くなっておるのではないか?」
「それは何たる忌々しき事態」
 ぴーちく囀る老人たちの話を、高い少女の声が切った。
「私が参ります」
「シライナ殿」
「ロゼウス帝を諌めるために交渉を持ちましょう」
「あの皇帝は一筋縄ではいかぬと聞きますぞ。歴代の宗教者たちが何もしなかったわけではありますまい」
「それでも、いつかは必ず誰かがやらねばならないことならば、私が参ります」
「おお、シライナ殿……」
「そなたはまことに聖女じゃのう」
 老人たちはここぞとばかりに、教会にとっての「お飾り」であるはずのシライナを持ち上げる。
「……ならば、ラクリシオンからは我が」
「ラクル殿!」
 シレーナ教の代表者が聖女シライナと決まったところで、普通は動向を窺うはずのラクリシオンからもあっさりと候補の手が挙がった。
 シレーナとラクリシオン、二つの大陸それぞれの代表宗教は、実はそれほど仲がよろしくない。張り合うのが常だったはずだが、ここ数十年は殺戮皇帝ロゼウスに対抗するために特に手を結んでいるのだ。
 立候補をした人物の名は、ラクル。姓もないその名前は、言うまでもなく聖者ラクリシオンからとられている。だがそのラクルと呼ばれた青年の異質なところは、彼が全身傷だらけの大男だということにあった。白いケープに身を包んでいるため今は顔以外はわからないが、その顔にすら額の真中から顔全面を斜めに縦断するような大きな傷がある。
傷さえなければいっそ端正とさえ言っていい顔だが、見目美しい者に慣れた宗教関係者からはぱっと見恐ろしくさえ感じられる男だった。
 ラクリシオン教からはその大男、こちらもシライナと同じくほぼお飾りの意味を持つ、孤児から宗教者となった曰くある青年、ラクル。シレーナ教からは聖女シライナと、二つの宗教のある意味代表者と言うべき二人が手を挙げたところで、対皇帝の教会としてとるべき戦略が決まった。
「必ずや私が、残虐なる殺戮皇帝ロゼウスを神の愛により改心させてみせましょう」
 大陸二つの宗教、人々の間の「正義」から今、皇帝に対する敵意の矢が放たれた。

 ◆◆◆◆◆

「……南の聖女と北の聖人が動きだした?」
 皇帝領でお留守番、もといロゼウスが放り出していった雑務を片づけながらリチャードはその報告を聞いた。世界に無関心に見えて、実はロゼウスはあらゆる場所に密偵を放っている。本当はそんなことをせずとも《皇帝の特殊能力》により世間の人々の動向を知ることはできるのだが、人の力でできることは人の力でやるというポリシーが一応あるらしい。
 それに付き合わされる人間の筆頭であるリチャード、それにロゼウスの弟のジャスパーは専ら皇帝領での政治担当員だった。リチャードは元エヴェルシードの貴族であるし、一時期国王の侍従として仕えていた過去もあってその手のノウハウは一通り学んでいる。ジャスパーも元ローゼンティアの王子として人並みの帝王学は収めているし、この二人の代りに世界中を飛び回る皇帝ロゼウスの一番身近なお守をエチエンヌに任せているのだから文句の言いようもない。
 ローラはローラで、表向きは「狂王妃」と呼ばれ好き勝手欲望を満たすばかりで何もしていないように見えて、実は後宮の支配者である。皇帝に取り入ろうとしてロゼウスの元に娘や家族を送り込もうとする者たちは必ず彼女の洗礼を受けることとなる。
 美の民と呼ばれるシルヴァーニ人でも特に美しい容姿を持つローラにまず美貌で勝てる者もいなければ、狂女と見くびり侮るうちにローラの手練手管によりあっという間に貴族たちは皇帝領から追い出されているものである。ちなみにそれを見て双子の弟は初めて、姉に詐欺師の才能があることを知った。それはもう、別世界の某所であれば「オレオレ詐欺」など片手間でやってのけるような鮮やかな手腕だったという。
 それはさておき、四千年前からロゼウスと付き合いのある面々は皆このように何らかの役割をこなしている。
 政務担当リチャード、その補佐ジャスパー。
 後宮の支配者ローラ。ちなみに彼女はほんの十五年ほど前にロゼウスの子を産み、その意味でも帝国内で皇妃と同等に扱われている節がある。
 皇帝ロゼウスの筆頭侍従はエチエンヌ。皇帝の後頭部をハリセンで殴れるツッコミ担当は彼だけだと宮殿の者の期待も大きい。
 では各地に放った密偵とは?
「それにしてもプロセルピナ卿、楽しんでいますね……」
 四千年前の契約により、ロゼウスによって働かされている不幸な姉弟がいる。その名はプロセルピナとハデス。二人とも基本は不幸設定なのだが、手紙での近況を見る限りどうもリチャードにはしっかりと人生を楽しんでいるようにしか見えないのは何故だろうか。
「ああ。プロセルピナ卿の方は、今は宗教関係に潜り込ませているのでしたっけ……ハデス卿の方は例の彼に張り付かせていて」
 手紙を開きながら思わず零れたリチャードの独り言に反応し、ジャスパーが背後から紙面を覗き込んでくる。優雅な筆に眉を顰めながら文面を辿る。弟でありながら皇帝の愛人である彼は、口さがない者たちが皇帝の愛人だと噂するプロセルピナのことが嫌いだ。
「そうですね、プロセルピナ卿はしばらく前から教会に。結構悠々自適に暮らしているようですよ」
「あの方は、実弟であるハデス卿以外に興味がありませんから。禁欲生活もさしたる問題ではないのでしょう」
 それはさておき、手紙にはシレーナ、ラクリシオン二宗教の代表者が皇帝に直談判のために動き出したと書いてあった。
「こちらに指示を仰いでいますが、いかがいたしましょう?」
 リチャードは背後のジャスパーを振り仰ぐ。リチャード自身には何の魔力もない、ロゼウスの力により仮初の不老不死を与えられているただの人間なのだが、ジャスパーには多少の魔力がある。彼の力であれば現在フィルメリアに向かったロゼウスに連絡を取ることができる。
「そうですね……兄上には連絡を入れて、プロセルピナ卿の方にはシレーナたちをフィルメリアへ直接向かわせるように指示してください」
 口元に指をあてて考えつつジャスパーが言う。
「いいのですか? 事態がややこしくなるのでは?」
「だからと言って、あの兄様が一仕事終わった後に宗教関係の話なんて持ち込まれて機嫌が悪くならないと保証できますか?」
「……」
 沈黙しつつ、リチャードはいい笑顔を返した。
 神により皇帝にと選ばれたその日から、ロゼウスは神も宗教も嫌いになった。ただでさえ先日ヴァルハラー公国のことがあってここ最近不機嫌な日が多かったというのに、これ以上厄介事を持ち込まれてはたまらない。
 皇帝領における厄介事、それはまさしく皇帝のわがままだの不機嫌だのとにかく皇帝のはた迷惑な動向である。
「というわけで面倒事はこの際一挙に片づけていただきましょう」
「いいんでしょうかね」
「兄様はあれで、今のシレーナ教には期待をかけているらしいですよ」
「本当ですか?」
 二人は顔を見合せて、とりあえず皇帝への連絡を入れることにした。