第1章 黎明の殺戮者 02
007
さて、皇帝一行はフィルメリアへと到着した。
が。
「タイミングが悪かったみたいですねぇ……」
歩きながらエチエンヌが言う。皇帝領を出てくる際に、一応彼もロゼウスも平民らしい服装に着替えている。それでも南のバロック大陸に北のシュルト大陸の人間であるシルヴァーニ人、ましてやローゼンティア人がいることは珍しいのだが、どうやら本日のフィルメリアはそれどころじゃないようだ。
依頼者であるフィオナとライスが先に立って案内するこの街の様子は、特に変わったものではない。それでも時折そこかしこから聞こえてくる噂話の中に自身に対する悪意ある言葉の数々を聞いて、ロゼウスはどこか面白がるような表情を浮かべる。対照的に顔を青くして頭を下げたのはフィオナだ。
「も、申し訳ありません、皇帝陛下」
「しー。ここではロゼと呼んでくれ。別に俺はこのくらい気にしやしないから、さっさとお前の家へ案内してくれ」
フィルメリアはバロック大陸の中央部に位置する豊かな国の一つで、国が富んでいるためか、人々の気性も大概は大らかだ。薄緑色の髪に榛の瞳を持ち、肌は白い。他国との交流も多いのでそんなフィルメリア人たちの中に時折、旅人らしき異国人が見える。
フィルメリアの主な産業は貿易だった。国土は海に面していないのだが他国の領地を買い取ってそこを国営の港とし、シュルト大陸との貿易拠点としている。また国内では交通手段を発達させ、手紙の宅配から発展して荷物の運搬業を行うようになったところこれが大成功を収めた。国内には旅人も多いが、王都などではそれこそ他国からフィルメリアへ移住してきた他国人の姿なども見かけるという。
フィオナの兄、グウィンが学者を目指したのも一つにはこのフィルメリアという国の気性が影響していた。様々なモノや情報が行きかうこの国にいれば、いろいろな方面から知識を得ることは難しくない。フィルメリアは学者の数としては決して少なくはない国である。
しかしそんなフィルメリアの町人たちの間で、今は一つの噂が持ちきりであった。先日皇帝が、ヴァルハラー公国を国民皆殺しにするという形で滅ぼしたことについてだ。
「信じられない所業だねぇ……老人から赤ん坊までみんな殺したんだってよ」
「今の皇帝陛下はまるで悪魔だって、みんな言ってるよ……」
小間物屋の店先で顔馴染みの店主と客同士が顔を寄せ合うところ、ローゼンティア人であるロゼウスが通り過ぎるのに気づくと軽く会釈をしてくる。ここ数百年で交通の便は発達し、昔は国から出なかったローゼンティア人も随分世界中に広がるようになった。当代皇帝と同じ民族と言えどそれだけで邪険にされるようなこともなく、彼女たちは当の皇帝がこんな場所を歩いているとも思わずにまた話に花を咲かせる。おしゃべり好きなおばさんたちの話題はすぐさま別のことへと移っていった。
道を歩けばそこかしこから、ロゼウス皇帝についての悪口が聞こえてくる。
「まったく、虐殺だなんて……」
「それも、ヴァルハラーの宗教に口出ししたってことだろ? 別にヴァルハラーの奴らを庇うわけでもないが、その国の習慣に口を出すのはいくら皇帝でもやりすぎじゃないか?」
「俺たちシレーナ教徒も同じような目にあったらどうする?」
「それはないだろう! シレーナ教は七千年間帝国に普及してきた教えだぞ」
「だがローゼンティア王国の国教はラクリシオンだろう」
「今の皇帝は無宗教だと聞いたわ。神も悪魔もないただの人でなしよ」
街の様子が活気づいているのは喜ばしいのだが、ロゼウスに救援を求めたフィオナとライスにしてみれば、いつ皇帝が機嫌を損ねるかと胸中穏やかではなかった。それでもロゼウス本人と従者であるエチエンヌは二人の心も知らずのほほんとしていて、どこ吹く風と言った様子だ。
その様子を不思議に思って尋ねたのは一緒にいた亜麻色の髪の少年学者だった。
「何故、そんなに平然としていらっしゃるんです?」
「だって、慣れているし」
あっけらかんとロゼウスは答える。事情を知っている人間から見れば、この皇帝とヴァルハラー虐殺を行なった皇帝は本当に同一人物なのかと思うくらいだ。
「そうだなぁ、さすがにあれはやりすぎじゃないかと僕も思ったし」
皇帝と学者の会話に気付き、エチエンヌも思い出したように相槌を打つ。彼はあの殺戮の現場にもつき従った、皇帝の従者だ。
「久々に大事になってしまったからな」
見た目は四千年の時を統べる皇帝とも思えぬ、普通の少年の格好をしたロゼウスはまるで他人事のようにその言葉に応える。
「そうそう」
エチエンヌはさりげなく話を続けながら、わざと声を潜めずに言った。
「とんでもないよね、今の皇帝って」
これまでも半ばはらはらと、むしろ度肝を抜かれて皇帝の従者の偉そうな態度を見送っていたフィオナとライスの二人は、やはりこの発言にもぎょっとせざるを得なかった。
しかし彼らがもっと驚いたのはこの後だ。
「本当。凄い人でなしだよな」
さらっと頷くロゼウスはその人でなし皇帝本人である。え? と二人は驚き顔を見合わせた。エチエンヌがさも呆れたと言わんばかりの表情で「お前も人でなしの魔族じゃん」などと言って話を合わせる。
「あ、あの、皇帝陛下……?」
「し!」
ロゼウスの短い制止を受けてライスが黙ると、先程の発言以来ちらちらとこちらの様子を窺っていた肉屋の店主が声をかけてきた。
「何だいお前さんたち、旅人かい?」
「ええ。そうなんです」
エチエンヌが見た目は無害そうな美少年フェイスでにっこりと応じる。シルヴァーニ人の秀麗な顔立ちの少年に愛想よく笑いかけられて、頭頂部が禿上がったいい年齢の男は思わず禁断の扉を開きかけた。しかしそこはぐっと冷静になって話を続ける。
「そっちのお嬢ちゃんはローゼンティア人だろう? 同郷の皇帝陛下のこと、悪く言っていいのかい?」
「ええ。同じ民族と言ったって、どうせ顔も知らない方ですもの」
リボンのついたケープを着ていたロゼウスは、どうやら少女に見えたらしい。何事もなかったかのようにさらりと女言葉で応じ、ロゼウスはエチエンヌと一緒になって肉屋の店主から話を聞き出す。
唖然としているフィオナとライスの二人は、先に少年学者の手によって少し離れた場所を歩かされていた。学者は聞き込みをするなら顔の知られていない人間の方が有利だろうと、店先で暇を持て余していそうな商売人連中に自らの噂を足掛かりとして近づいたロゼウスたちの邪魔にならないよう気を配る。
「ちょ、ちょっと」
「いいから任せておきなよ。僕はちょっと行ってくるけれど」
フィオナたち二人に待機を言いつけると、彼までもロゼウスたちの話に混ざりに行く。この中では唯一学歴を持つ彼は自らの学位すらネタにして、人々からグウィンと領主についての話を聞き出そうとしていた。
ロゼウスはその時寝ていたが、フィオナとライスは彼とは馬車の中でグウィンの学説内容を聞くのと一緒にある程度会話をしている。あの少年学者も十分変わり者だと、今ではフィオナもライスも知っている。
肉屋の店先に並び、隣の八百屋の店主も一緒になって説明する話を聞いている三人。
「なんだかすごいわね」
「ああ。皇帝陛下って、もっとその……」
本音を言うと、皇帝による助けの手はもっと派手で簡単なものかと思っていたフィオナとライスの二人であった。聞き込みをする皇帝たちの姿を遠くで見詰めながらすごい、と口にするものの、その言葉の意味は若干褒め言葉とは異なっている。二人が感心しているのは、ある意味皇帝の皇帝らしからぬ地道さだ。
「ねぇ、ライスさん、その……」
「ん? どうしたフィオナ」
「……いえ、やっぱりなんでもないわ」
一般の民衆にとって、皇帝は恐怖と畏怖の対象であると同時にもちろん尊敬や憧れの対象でもある。欲望や憎悪の対象となることもある。世界最高の権力者に頼めば、グウィンのことなど一言で解決すると思っていたのに。
無事に問題を解決さえしてくれるのであれば手段に文句などあるはずもないが、それでもフィオナは不思議に思う。
どうして彼らはわざわざこんな大陸の真ん中の国まで来て、わざわざ面倒な聞き込みなどを行ってグウィンを助けようとしてくれるのだろう。フィオナとライスが頼んだからと言えばそうなのだが、しかし見捨てることも、部下に仕事を任せることもできただろうに。
これまで自分のことでいっぱいで頭を掠めもしなかったその疑問は、今ここで皇帝と肉屋という甚だしく不釣り合いな光景を眺めながら湧いて出てきたものだった。
肉屋の店主に、エチエンヌが情報量を含めた少し多めの代金を払ってコロッケの袋を受け取った。それをロゼウスに渡すと、皇帝は毒見もしない屋台のコロッケを平然とその場で立ち食いし始める。隣では隣で、少年学者が数種の乾燥果物を購入したところだった。
「どうした? 何か聞きたそうな顔をして」
「あ? これ食べます?」
品物の袋を抱えて戻ってきた三人を迎えると、ロゼウスが目ざとくフィオナの視線に気づいた。道の端から歩きだす前に、彼女のもの問いたげな視線を受け止める。
この皇帝が虐殺や蛮行で知られているほど恐ろしい相手ではないと何となくわかりはじめたフィオナは、思い切って尋ねた。
「どうして、わざわざフィルメリアまで来たんですか?」
「ん?」
最後のコロッケを口に入れながらフィオナの言葉にロゼウスが怪訝な顔をする。さくさくと茶色い揚げたての塊を飲み込むうちに、フィオナの問いかけの続きを聞く。
「だって、皇帝陛下でしたら、皇帝領から命令するだけで、みんなが動いてくれるものでしょう? わざわざフィルメリアまで来て、陛下ご自身のお手を煩わさせることは、なかったんじゃないですか?」
暴虐の薔薇皇帝。希代の殺戮皇帝。
その恐ろしげな印象と、今目の前にいる少年はフィオナの中では結び付かない。
コロッケを食べ終わったロゼウスはさらりと言ってのける。
「そりゃ、まだお前の兄をタダで助けるとは決まってないからなぁ」
「え」
「ええ!?」
呆気にとられたフィオナだけでなく、ライスが盛大に叫ぶ。思わず周囲の視線が集中するが、エチエンヌがまだ残っているコロッケの袋を抱えて首を振ると視線は散った。どうやら分け方で揉めているとでも勝手に思ってくれたらしい。
「そりゃ貴族の平民に対する無体には相応の処置をとるが、私は平民の味方でもなければ、貴族の味方でもない」
街に来てからは「俺」と言っていたロゼウスの一人称が「私」と皇帝モードに戻っている。
「だから、確かめに来た。こんなこと他の誰かに任せて報告書が提出される議題でもあるまいし」
それでも今ここにいる皇帝の側近エチエンヌや、リチャードのような人間に任せれば多分彼らは十二分にやり遂げてくれるのだろう。
けれどロゼウスはそうしない。
これは皇帝の領分だと。
「……例えば、だ。フィオナ・マクミラン」
「はい」
「私が一言《皇帝の権力でもって》この街の貴族と、そいつらに手を回している貴族、バルフォアに命じてお前の兄への不当な差別をなくすのは簡単だ」
「はい」
「だがそれは、そこに正当性がなければお前の兄を脅かした不当な支配と何ら変わりがない」
フィオナが目を瞠り、ライスが弾かれたように顔をあげる。
「正当性がない支配、それはつまり、いずれもっと正しい世界を目指す誰かに脅かされても文句の言えないものだ。仮にそんな方法で問題を解決したとして、もし私が明日皇帝でなくなったらお前たちはどうするんだ?」
「ど、どうって……」
「そうしたら、私ではない別の人間がこの事件の査察に来るかもな。その人物が公明正大な立派な人物であればあるほど、私が不当なやり方で解決したこの件を良くは思わないだろう。不正で問題を解決した罰は下されるぞ。それでもいいのか?」
子どもに言い聞かせるように最後は尋ねたロゼウスの声があまりにも優しいので、フィオナは自然と首を横に振る。
「いいえ。……いいえ」
エチエンヌは主と少女のやりとりを見守り、そっと目を伏せた。
四千年前なら、間違いなくロゼウスの口からは出なかっただろう発言だ。ローゼンティアの王子であった彼は民を守るために容易く自分を犠牲にできたけれど、その代わり誰のことも信用してはいなかった。
一つ一つ、確かに自分の目で見て確かめて、可能な限り正しい道を進むことを、他人にもそれを歩ませることを覚えたのは、彼の大切な者が死んだからだった。
あの悲劇を糧として、たった一人の犠牲で救われる世界など受け入れられないと、全員で努力をする世界を作り上げようと望んだ。
願いは通じず、四千年経った今でも理不尽はこの世に溢れている。先日のヴァルハラーでの出来事もそうだった。正しさの立証のために命でもって償わせる場面もある。それどころか、そのような場面の方が後を絶たない。
それでも。
「皇帝陛下」
フィオナが薄緑髪のお下げを揺らして頭を下げる。
「ありがとうございます。兄を……私たちを救うのに、そこまで考えてくださって」
力や権力で全てを解決するのは簡単だ。だがそれだけでは何も前に進まない。
逆に力でしか解決できないような場面は、もう救いようがない最後のぎりぎりな場面まで来てしまっているということだ。
だけど、できるならばやり直す道を示し、求めたい。
間違えても傷ついても、薔薇皇帝は人に、人自身の力で前に進んでもらいたいのだ。
彼がそうであるように。
あの人がそうであったように。
ぱちぱちぱちと軽い拍手の音が起こった。
「御高説どうもありがとうございます」
相変わらず分厚い眼鏡に阻まれて目元はわからないが、口元だけの笑顔を見せて少年学者が拍手を捧げる。
「やはりあなたの行動には、そのような意図がおありでしたか」
「気づいていたのか」
「そりゃあ僕はこれでも学者の端くれですから」
当然のように笑う少年は、隙を見せない。笑顔の裏に感情を隠す彼を不思議に思う。
グウィンの件の解決を目指すあまりに、彼のことはまだ何も聞いていない。さらに不思議なのは、彼がそれを特にどうとも思っていないということだった。普通皇帝領に、皇帝に頼みごとを持ってくる人間は何よりも自分の用件を優先させたいものだ。しかしこの少年学者は自分の用件をまだ一切口にしないまま、こうして他人の事情に付き合っている。
「お前――」
ロゼウスが問いかけようとしたその時だった。
「急いで! もうすぐ始まっちゃうよ!」
「やだ! 走らないと」
数人の子どもたちが彼らの脇を駆けて行った。その騒がしい様子にふと我に帰って街中を見回してみれば、子どもだけでなく周囲の大人たちもどことなくみなそわそわとしている。
「何だ?」
「何かあるのか?」
「え、ええと?」
フィオナとライスも心当たりはないようで首をかしげた。
「情報収集、した方がいいと思う?」
エチエンヌが首を傾げる。ロゼウスも辺りを気にするが、やはり首を傾げた。
「そんな嫌な感じはしないから放っておいても問題はないと思うけれど、この国の状況を把握しておくに越したことはないな」
彼らがそうして顔を見合わせていると、事情説明に最適な人間が現れる。
「お前、そんなに気になるなら行ってきたらいいじゃないか」
「でもあんた」
「店番なら俺がしているよ。心配せんでも、俺だって昨日そうやって見に行ったんだから」
「そう?」
すぐ近くの店からそんな会話が漏れ聞こえてきたと思った途端、店の裏口から太った女性、中で会話していた二人のうちの一人だろう人が出てきた。
「あの」
咄嗟にエチエンヌがその女性に話しかける。
「ああ、悪いねあんたたち。中にうちの人がいるから、そっちに聞いておくれよ」
「すみません。僕たちお客じゃないんです。旅の者でちょっと知りたくて。これから何かあるんですか?」
方向的にあれは広場の方だとフィオナとライスが言う方向に先程から人の流れが淀みないのだが、何があるかまではここ数週間旅で国を空けていた二人にもわからない。
「ああ! ちょうど良かったよお客さんたち。これからね、国王陛下がこの街を訪れるんだって」
「国王陛下が?」
「そうそう。何でも王宮の舞踏団が街中で公演してくれるんだって! あたしゃ遅れちまうからもう行くよ!」
女性に礼を言って、一行は顔を見合わせた。
「国王?」
「王宮の舞踏団?」
舞踏団と聞いてロゼウスと、フィルメリア国民であるフィオナとライスはさすがに気付いたようだった。
「うちの国の王様は」
「そう言えば、愛人が舞踏団の元踊り子だという話だったか」
「は、はい……」
今回の問題は貴族レベルで解決する問題で、そこまでの規模でないから国王の動向などまったく気にも止めていなかったが、フィルメリアの現代の王位継承問題はなかなか複雑らしい。国王は正妃との間に一粒種である王女がいるのだが、その姫君はどうにも体が弱い。しかし肝心の国王は正妻ではない、踊り子から成りあがった愛人に入れあげて正妃との間に他に世継ぎを作る気はないようだった。
ロゼウスから見れば愚かなことだ。例え王女が成人まで生き延びたとしても、体の弱いあの姫君に、子を生むほどの体力はない。今のうちに他に王子、王女を増やしておかなければ、そのうち必ずフィルメリアは王位継承問題で揉めることとなるだろう。
かといって、そこまで皇帝が一国の事情に口出しをしていいものか。それも迷いどころなのだった。フィルメリア国王の場合、もともと愛人である踊り子と恋仲であったところを引き裂かれて正妃をあてがわれたというから、もしかしたら世継ぎの王女にその資格なしと判断した場合は愛人の子を時期国王の座につけたいのかもしれない。
「ま、今回は放っておいて大丈夫じゃないか。こんなところに出てきたことを考えると平民向けの娯楽公演で、貴族が出てくるわけでもないだろうし」
「そうだな」
エチエンヌも記憶の中のフィルメリア事情とロゼウスの意見を照合し、いいんじゃないかと頷いた。
今この時重要なのは国王とその愛人の仲の良さなどではなく、グウィンの行く末なのだから。
「では行くぞ。お前の兄は今頃だと、家で酒を飲んだくれているはずだったな」
「はい……」
人々の動きが舞踏団を見に行くためのものだとわかり、ロゼウスたちは本来の目的であるグウィンとフィオナの家に向かうことにした。まずは事の真偽を確かめるために教会から排除された論文の執筆者であるグウィンに話を聞くことにしたのだ。
人波に逆らってロゼウスたちは歩く。昼日中の街並みは明るいが、そう穏やかでばかりもいられなかった。
街の一部に近づくにつれて、明らかに周囲の人々が彼らを認めて緊張する様子が見てとれた。もうこのあたりはフィオナの自宅に近く、それだけに顔見知りが多いのだという。
「みんな……ずっとこんな調子で兄を避けるんです。私のことは、それでもまだ相手にしてくれました。でも、それでも品物は売れないと言われて」
「こうして俺やフィオナが皇帝領に迎えたのも、そもそも俺たちがグウィンと親しいからと、職場を解雇されたからなんです」
街の人々の冷たい眼差しにあい、自然とフィオナ、ライスの歩みも表情も鈍くなる。沈み込む二人を慰めるようにエチエンヌが口を開いた。
「これは……辛かったね。でももう大丈夫だよ。ここには、皇帝がいるんだから」
「はい……」
長旅の後に帰ってきて、本来なら安らぎの場所となるはずの故郷。しかし自宅に近づいていくほどに表情が暗くなる彼らに対し、エチエンヌは精いっぱいの慰めの言葉をかける。
彼らはここ最近ずっと、街の人々からこんな目で見られ続けていたのだ。憐れむような、蔑むような。グウィンは街中で食糧一つ手に入れることもできず、フィオナもライスも職場を解雇されて、そのままでは路頭に迷ってしまう。
そんな中、決死の覚悟で皇帝領までやってきた。彼らに対してロゼウスは先程ああ言ったが、彼の性格上そう悪いようにはしないこともエチエンヌにはわかっている。心配しないようにと、こっそり囁いた。
だがその慰めも、フィオナが両親が隣町の親戚夫婦の家に行って以来、兄のグウィンと今では二人暮しをしている自宅に近づいた途端意味を成さぬものとなった。
「フィオナちゃん!」
「おばさん……」
街の人々は誰もがフィオナやライスを無視するような態度だと思っていたのだが、一人の女性がフィオナの姿を見た途端に駆け寄ってきた。それを引き金として、何人か他にも方々から集まってくる。
「どうしたんだ?」
目を丸くしてライスが尋ねるのを待たぬ勢いで、人々はロゼウスたち三人のことは目にも入っていないという様子でフィオナとライスに告げた。
「大変だ! グウィンが捕まっちまった!」
「ええ!?」
近所の者たちの話によれば、それは数日前のことだったという。街役場の人間たちが自宅に押し掛けてきて、グウィンを連れていってしまったのだ。
「そんな……お兄ちゃん!」
フィオナが血相を変えて家の中に入ると、中には酒瓶がごろごろと転がっていた。それだけなら彼女が家を出る際、失意の兄が荒らしたままだったが、問題は瓶の中身が零れて床に染みを作っていることだった。根が几帳面なグウィンは例え部屋を散らかすことはあっても、そんな酷く汚すようなことだけはしなかったのに。それだけで兄がどんな風に無理やり連れて行かれたのかわかる。
蒼白になった彼女を少年学者が支えた。その頃になってようやく街の人々も彼らの存在に気付き始め、あれは誰だとライスに尋ねている。
「どうやら、一気に緊急性が高まってしまったようだな」
やれやれと面倒そうに呟いたロゼウスの表情は、その投げやりな言葉とは裏腹に真剣そのものだった。