薔薇の皇帝 02

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 公演は結局、最後の一幕を残したところで中止となった。ある意味今回の騒ぎで一番被害が大きかったのは、何の罪もないのに街中での公演をぶち壊されたフィルメリア王宮舞踏団の人々かもしれない。 
 街の人々はグウィンの演説によって聖女への信仰を深め、広場は一時騒然となった。教会の関係者でも事態を収拾するのに苦労し、グウィンたち事の中心人物は一体どんな手段を使ったものか、誰にも気づかれないようこっそりとその姿を消したのである。 
 ここ数か月、領主侯爵の押さえつけによって街の大部分が不穏な鬱屈した気分を溜めこんでいたためか、一度その鬱屈が爆発してしまえば後はとんでもないお祭り騒ぎだった。グウィンの純粋な信仰心が人々の心をまとめ、影からロゼウスが皇帝として学会の公平さに釘をさしに行った。
 街の人々はそんな裏事情を知らないながらも、何かしら感じるものはあったのだろう、これで全てが解決したのだという空気が街中に漂っている。
 舞踏団はその煽りをもろに受けた形となった。
「結局どのような騒ぎだったのですか?」
 舞踏団の花形であり、二十年近く国王の愛人として付き合っている踊り子が王に聞いた。舞台で優雅な舞を見せていた彼女は、グウィンの演説こそある程度耳にしたが、そもそもこの街で何が起きていたのかについての諸経緯がさっぱりだ。宮廷お抱え舞踏団はいつもはその名の通り王宮にいて、今回は国王の許可あって一週間だけこの街に出てきていたのである。
「さぁ……どうやら学会絡みらしいが、皇帝陛下は私には何も詳しいことは話してくださらなかった。ただ『優秀な一人の学者が誕生したことを喜べ』とだけ」
 あの騒動の間、事態の把握に国王は動こうとしたのだが、そこで真っ先にとんでもないものを発見してしまった。白銀の髪自体は街にちらほらいるローゼンティア人やウィスタリア人で済むが、それが腰よりも長く伸びて煌めいていたとなれば、その相手は一人しか思い浮かばない。慌てて部下を下がらせ、自らバルフォア子爵と街の領主侯爵の前に姿を見せた皇帝のもとへと足を走らせた。
 しかしそうやって国内での出来事を把握しようとした彼の努力の結果が前述の台詞である。
「まぁ……」
 薄緑の髪に榛色の瞳をしたフィルメリア国王の隣に並ぶ、亜麻色の髪に琥珀の瞳をした美しいチェスアトール人の踊り子はその言葉に呆れたように頬に手をあてた。皇帝に呆れるなど不敬だが、この場合彼女が恋人であり未来の夫と呼ばれる男とどちらに対して呆れているのかは微妙にわからない。
 フィルメリア国王はその気の弱さで内外において有名だ。決して悪い人物ではない。無能でもない。だが如何せん気が弱い。その彼が唯一自分を通そうとしているのが、この踊り子との関係なのである。
 それすらも正妃一派の猛反発にあい、彼女を妃にするという考えはうまくいってはいないのだが。
「皇帝陛下が表に出てこなかったということは、問題は微調整だけで解決できるものであろう」
「そんなに恐ろしい方なのですか、皇帝陛下は」
 国王の深い懊悩の様子を見て、ついつい踊り子は尋ねた。
「あの方は……」
 国王は、皇帝領の方角を見つめて複雑な顔をした

 ◆◆◆◆◆

「今回は結構地味な活躍だったな、私」
 すべてが終わりそう言うロゼウスに、
「いつもこのくらいの方がいいだろうよ。毎回毎回建物やら人やら自治体そのものやら派手にぶっ壊しやがって」
エチエンヌはそう返した。この話のタイトルが『薔薇の皇帝』だとは思えないほどに今回皇帝のやったことは地味である。
 しかし地味であろうと派手であろうと、フィルメリアでの騒動がこれで一段落したのは事実だ。グウィンの意向も一応取り入れた上で、バルフォアに関しても厳しい制裁は加えなかった。「まぁ学者の世界なんて公正に見えて案外中はどろどろしてるものですよ!」と笑顔でのたもうた少年学者の言葉もあり、仕事を数か月奪われたくらいで誰が大きな怪我をしたわけでもなし、実質的な損害は金銭で片付く程度の問題だと、グウィンは今回の事件に関して水面下での穏便な解決を望んだ。穏便な解決というと、やはり金でありバルフォアから相当の賠償金くらいはもらっているのだが、まぁそれはそれでいいだろう。
 しかし他にも問題は残っている。
「お前は本当にこれで良かったのか、グウィン」
 街の入り口で見送りに立ったグウィンとフィオナ、ライスを前に皇帝は最後の確認を取る。
 広場からロゼウスの力を使って撤収し、そろそろ皇帝とその従者は皇帝領に戻ろうとする場面である。ただ、皇帝について皇帝領へ戻りたいという少年学者が一名、何か街中に用事があるというのでここで待っているのだ。
 街の様子はすでに落ち着いてきている。騒動の中心となった広場はまだ騒がしいのかも知れないが、それに関してはロゼウスの知ったところではない。後のことは事態を拡大させ皇帝を引きずり出す原因ともなった権力者、バルフォアと侯爵たちに任せればいいだろう。
 ぐずぐずとしている間に、空が茜色に差し掛かってきた。街の入り口はこの時間になると人通りも絶え、ただそよそよと風が吹くばかりである。夕餉の匂いや家に帰る子どもたちの声が遠く、見た目は平穏な夕方そのものだ。
 そんな穏やかな街の空気を感じながらのロゼウスの問いかけに、グウィンはにっこりと笑って答えた。
「はい、正攻法での対決なら、バルフォア子爵には負けません」
「まぁ今回のことが明らかになって学会に介入する貴族権力の横行には私も多少口出しできるようになったが……だが問題はそれだけではないだろう」
 ロゼウスの言葉に思い当たることがないらしく、グウィンはぱちぱちと瞬いた。
「他に何かありましたっけ」
「……お前はもうあと二、三か月苦労させた方が良かったかもな。街のことだ」
「ああ」
 グウィンはぽんと手を打った。リアクションが微妙に古い。
 憂いの芽が取り除かれてみれば、彼は実に温厚な青年、というよりは単純な学者バカであった。隣でフィオナが小さく「もう、しっかりしてよお兄ちゃん……」と呟いている。
 思い返せば今日の昼間の人々の聖女を讃える大歓声が蘇る。グウィンの学者人生もこれで安泰だ。しかしそれは、彼が街の人々にここ数か月無視されてきた、その苦難があって初めて得られたものである。そのことを忘れるわけにはいかない。
「領主侯爵に命じられたためとはいえ、この街の人間たちはお前から職を奪い、品物を売らず、お前の存在を無視した。権力のある人間から命じられれば、人としての正しさなど無視して何でもやる連中だと証明した。お前もその被害に実際あった。事態が一応解決したからと言って、これをなかったことにすることはできないだろう」
 実害がさほどなかったとはいえ、グウィンが街の人々から迫害されたのは事実である。フィオナの支えや、マクミラン家に差し入れをしてくれたライスの存在、両親が今逃げ込んでいる隣町の親戚などがいるからこそ大事には至らなかったが、これが身寄りのない孤児だったりしたら、命にかかわる事態になっていた可能性もある。実際バルフォアがどこまでする気だったのかは明らかでないとは言え、グウィンは牢にまで入れられたのだ。
 建物の向こうから、家路を辿る子どもたちの笑い声はまだ聞こえている。
 それはここで皇帝ロゼウスが摘もうとすれば、簡単に摘めてしまう程度の命だ。そしてグウィンは今だけは、それを頼める立場にいるのかもしれない。だが。
 わだかまりを完全になくしてしまえるわけではない。笑顔はしばらくぎこちないものとなるだろう。
 グウィンは言った。
「皇帝陛下」
 牢から出た後、改めてロゼウスが時の皇帝その人だと聞かされたグウィンは死ぬほど驚いていた。皇帝領に助けを求めたとはいっても、せいぜい部下が遣わされるくらいだと思ったのだ。それが皇帝本人の登場となろうとは。
 美形だが、街の向こうの山の景色に浮かない程度に溶け込んで、少年姿の皇帝はグウィンの選択を見守っている。
「俺は、すでに自分の道を示しました。聖女シレーナがただの人間であってもその心を信じるように、人の心を信じていきたいと思います」
 間違えても。弱くても。愚かでも。
「人を信じていたいと思います」
 彼らは容易く道を間違えるけれど、真の悪意など滅多に存在はしない。集団で残酷なことができるけれど、酷い人間にはなりきれない。
 ましてやこの街の人々は、グウィンに対して罪悪感を持っている。だからフィオナたちが戻った時に、グウィンが役人たちに連れて行かれたことをすぐに知らせてくれたのだ。
 そんな人々の弱さの中にある優しさを、それでも信じていきたいのだと。
 《光への道》は限られた聖人にしか見えない奇跡ではなく、もとからそこに存在した隠し通路。どこにでもあるものだと思うから、無力な只人である普通の人間たちも、かつての聖女のように誰かを救うためにいつかそれを見つけられると信じている。
「……そうか」
 ロゼウスは薄く微笑んだ。髪の長さや恰好を元に戻した彼の姿は皇帝というよりも、どこにでもいるローゼンティア人の少年だ。それでも小さな微笑は美しく、見る者の胸を惑わせる。
 優しげに微笑んでいるときほど、彼が寂しそうなのは何故だろう。人間など片手で捻りつぶせるような強大な力を持ち、しかし彼は人間という存在をどこか眩しそうに見つめるのだ。
 グウィンは姿勢を正す。
「ありがとうございました。皇帝陛下。バルフォア子爵がやったように権力で全てを捩じ伏せるのではなく、俺に自分の言いたいことを言わせてくださって」
 力で上から押さえつけるのは簡単だ。だけれどそれでは、何も前へと繋がらない。
「権力とか、財産とか、俺は何も持っていないただの学者ですけれど、でも人としては公平でありたいから。その選択肢を与えてくださって、ありがとうございます。大変感謝しております」
 丁寧に礼を述べるグウィンに対し、ロゼウスが返した言葉は淡々としていた。
「礼を言われる覚えはないな。お前は自分でそういう生き方を選んだのだろう。お前が自分で人を信じることを選んだから、私もお前にその道を返した。それだけだ」
 すべて人の選択は自らに跳ね返る。今回のことは、グウィンが選んだことだからなのだと。
 そして皇帝は先程とは違い、どこか意地悪げに笑って言った。
「残念だよ。グウィン・マクミラン。お前が権力に縋るような愚か者だったら、返したばかりのお前の論を私自らがまた権力の力で取り上げ、いいように利用することができたのに」
 口調こそ皮肉だが、ロゼウスにもとからそんな気がなかったことはもはや皆わかっている。
 残酷な冷帝。傲慢なる暴君。権力をたてにやりたい放題する横暴な支配者。つい先日は一国を老若男女問わず惨殺し滅ぼした殺戮者。それもまた彼としての事実。
 皇帝としてのロゼウスの悪口を言うのは簡単だ。彼の派手な破壊行為を正義だと言えるはずもない。彼に殺された人間の血で世界は埋め尽くされている。彼をいまだ恨む者は多い。けれど。
 グウィン、フィオナ、ライスの三人は再び頭を下げて言った。
「感謝します、陛下……どうか薔薇皇帝の御代に、栄光あれ!」

 ◆◆◆◆◆

 街中で用事を終えた少年学者は、街の入り口へと急いでいた。
「もうこんな時間!? 置いてかれるぅううう!!」
 懐中時計を取り出して、時間を確かめた彼は一気に蒼くなった。割れた眼鏡をかけたまま街中を疾走する少年に対し注目が集まるのだが、気にしてはいない。どうせこんな注目など一瞬だ。数か月に渡るグウィンと領主と教会騒動に終止符が打たれた今、街の人々の心は晴れやかでちょっと不審な旅の少年の独り言くらい、さして気にするほどのものではなかった。
 少年もそう思っていたのだが、意外な縁というのはどうやらあるものらしい。
「うわっ! すみません!」
「いえ、こ、こちらこそ……」
 あまりにも急いでいたあまり、角を曲がる途中でお約束とばかりに彼は向こうから歩いてきた人物とぶつかってしまった。若い女性が地面に尻もちをつく。慌てて彼女を助け起こした。
 もともと少年学者は皇帝のフィルメリアへの旅に無理矢理くっついてきたのだ。時間に遅れれば当たり前のように置いていかれるかもしれない。その不安のあまりに急ぎすぎた。
「お怪我はありませんか?」
 転んだ女性に対し丁寧に尋ねる。見たところ大きな怪我はしていないが、転んだ体を支えた手のひらに擦り傷くらいはできてしまったかもしれないと彼が考える中、唐突な言葉が目の前の女性の口に上った。
「寵妃様!」
「は?」
「え? あら、いやだ、男の子?」
 自分で言っておいてすぐに間違いに気づいたのか、転んだ女性は自分を助け起こす少年を見ながらそんなことを更に口にする。
「ええ。はい。いやだと言われましても私は生まれ落ちたこの瞬間より男で、たぶん女になってみた日はないと思うんですが」
 少年は少年で、ものすごくどうでもいい余計なことをわざわざ口にする。
「ごめんなさいね。間違えてしまって。だってあなた、国王陛下のご寵妃に似ているんだもの」
 謝りながらもそんなことを続けた女性の言葉で、少年学者はそう言えばこの国の国王の昔からの愛人踊り子というのは自分と同じチェスアトール人だったなと思いだした。だがそれは単なる偶然だ。今は世界各地に様々な人種が散らばっているから、そんなこともあるだろう。
 だからこういって、助け起こした女性の手を離した。
「気のせいですよ。美人と間違えられて光栄です」
 それからもう一度懐中時計に目を走らせて、今度こそ正真正銘の蒼白になった。
「お、遅れるぅうううう!!」
 悲鳴と共に走り出した少年の後ろ姿を、女性は呆気に取られながらも見送った。
「だって、本当に似てたんだもの……」
 割れた眼鏡が落ちて覗いた少年学者の素顔は。思わず地面に視線を落とす。
彼は眼鏡を忘れて行ったようだ。

 ◆◆◆◆◆

 舞踏団は撤収しようとしていた。
「その、クリスタベル……」
「何も言わないでくださいますか、侯爵」
 バルフォアやこの街の領主を始めとする貴族たち、それからこの街へ舞踏団を連れて来た国王たちも帰り支度を始めている。
 皇帝を前にして己の企みが崩れ去ったことを知ったバルフォアの機嫌は悪い。その上皇帝づてにグウィンへの「慰謝料」だとありったけふんだくられたのだからなおさら上機嫌とは言い難い。
 しかし機嫌が良かろうと悪かろうと、計画が最悪の形で終わったのは事実である。否、たかが一介の平民がまさか皇帝をひっぱり出してきてまで彼女と張るとは考えていなかったから失敗のヴィジョンがなかっただけで。他にも酷い敗北の結末は用意されていたのだろうことを考えれば、グウィンへの賠償金と今後彼への手だしを控えることを約束させられただけで、領地も爵位も奪われることなく収まったこの件は「平和」だったとも言える。
「そんなに言うのなら、私だって次からは実力であの男に勝ってみせるわよ!」
「いやあのな、クリスタベル。もとから足りない単位のいくつかを色仕掛けでとるようなお前と学院に認められたというあの学者とが張り合うなんてのは土台無理」
「ですから黙っててくださいってば! 何よ色仕掛けくらい! 私でなくたって、チェスアトールの奇才と言われて有名な天才だって実は色仕掛けで単位とったなんて言われてるくらいなんですからね!」
「おいおい……おや、これは国王陛下」
 計画の失敗だけでなく皇帝にされた発言も相当気に障っているようで、ぷりぷりと怒るバルフォアとそんな彼女を眺めてまた始まったと溜め息つく侯爵の元へと再び国王がやってきた。
「今日は我々はもう引き上げる。だから話を聞きに来たのだが……」
 気弱な国王は結局皇帝に話を聞くにきけず、迷惑をかけられたわりにはおずおずと引き下がってしまったのだ。しかしまさかバルフォアも自分のしたことを正直に口にするわけにもいかないので、話は取り繕ったものとなる。
「本当に何も言えないと……言う必要はないというのだな」
「ええ。国王陛下」
 国王は最後の確認を、事態の影の中心人物だったバルフォアと侯爵にとり、そして広場を引き上げるつもりでいた。
 今回はこのような形での公演の最終日の中止となってしまったが、舞踏団の活動がまだ終わったわけではもちろんない。街の人々に披露する機会こそ減ったが、国王自身はいつでも舞踏団の舞台を見ることができるのだ。
 それでも後に正式な妃の一人となるだろうと目されている踊り子はもともと庶民、王宮の堅苦しい雰囲気よりも街中で踊る方が好きだという彼女の願いを今回は叶えてやるはずだったのが、最後までうまくいかなかったというのは惜しい。どことなく不完全燃焼な気分を持て余しながら、彼女の待つ舞台へと戻る。舞台と言っても、もうそのほとんどは撤収のために骨組みだけにされている。
「おや、どうした?」
 撤収係への細かい指示などの雑事を終えて彼がそこに戻ってきたとき、彼女は蒼白だった。もともと薄い肌の色が更に白くなっている。
「陛下……」
「どうした?」
 涙目の彼女にただならぬものを感じ、優しくもう一度問いかけるが次の瞬間、その口から発されたのは驚くべき言葉だった。
「見つけたんです。見つかったというんです、あの子が――」
「なに――――」
 それは、後にフィルメリア王国全体を揺らす出来事となる。