012
我が命、この魂はあなたへの、供物――
目の前で薄い胸に手をあて、にっこりと笑った少年の行動と発言に玉座のある謁見の間に集う面々はすべからく度肝を抜かれていた。
「……ハァ!?」
明らかにずれたタイミングで、それでもエチエンヌが声をあげたのは流石としか言いようがない。他の者はまだ呆気にとられていて、声も出せないような状態だ。それは短い階段下に立つルルティスから言葉をかけられた皇帝自身ですら例外ではない。
「……ちょっと待った。今の話、もう一度聞かせてくれ」
「ええ、はい。ですから陛下、御身の治世は永く四千年もの間帝国に磐石の治世を敷いておきながら、その薔薇皇帝に関する書物が一冊もないということに、私は激しく憤慨を覚えるのです。ですからここは歴史学者として、僭越ながら、私が薔薇皇帝を記す人間の魁となろうかと思いまして」
つらつらと言葉の内容と言葉遣いに関してはともかく、よくこれだけのことを平然と言えると思うようなことを述べた少年学者は、誰に言われるでもなく自主的に皇帝の前で跪いた。
……身体的には跪いているのだが、彼の性格というか発言というかのせいで、全く跪いている態度に見えないのがご愛嬌だ。
フィルメリア王国から皇帝領へと彼らが帰還した直後、急ぎの仕事もないからとようやくこれまで後回しにしていた彼の「用件」とやらを聞こうとすれば、この騒ぎ。
追い返そうにも、グウィンの件では皇帝側に借りがある。それに放り出そうとするには、彼の「顔」は見るたびにロゼウスたちの胸に複雑な想いを起こさせすぎるものである。
「と、いうわけですのでこの私めに陛下の過去から私生活からその全てを見せてください、というかさらけ出してください、むしろ観察させてください。いえもうむしろ書物に記すために勝手に観察させていただきます」
ロゼウスたちの複雑な心情も知らず、彼はさっさと話を進めていく。
いいですよね? とうっかり頷いてしまいそうなほどさらりととんでもないことを言うルルティスは凶悪だ。決定権という言葉はどこにあってしかも誰のものなのだろうか。その笑顔が整っている分余計に厄介だった。
「だからちょっと待ってください、ていうか待ちたまえストーップ!」
ついにあんたまで壊れたか、とこの場での発言を許されてはいないが同席までは許可されている重臣たちに憐れまれながらも、皇帝の数少ない側近の一人リチャードが何とか声をあげる。
「勝手にそのようなことをお決めにならないでください! 相手はコレでも皇帝陛下なのですよ!」
「……コレでもは余計だリチャード」
たまえと言ったりお決めにと言ったり大分敬語が混乱しているリチャードは自らもさらりと余計な発言を零しつつ、それでも何とか、何とか天下の皇帝の尊厳を守ろうと努力する。
しかし敵は手強い。
「駄目ですか? でも偉大なる統治者に関する伝記の執筆は不可欠ですよ。これからの歴史教育にはぜひ皇帝陛下の経歴や思想、行動の指針や真意なども世界に向けて明かした方がいいと思われますが?」
「いえ、ですから問題はそういうことではなくて」
「大丈夫です。執筆は私が手掛けますから。陛下はただそこにいらっしゃってくだされば適当に追いかけます。体力と持久力には少しばかり自信がありますので、地獄の果てまでお供いたします」
「いや、だからそうではなく」
どこの世界に、世界中から恐怖される皇帝に私生活をさらけ出せと言う学者がいようか。いや、ここにいるが。
そしてこれほどまでにはっきりとしたストーカー宣言があろうか。いや、ない。
「ああ、そういえば自己紹介が遅れていましたね」
天下の帝国上層部の面々を鮮やかに翻弄しつつ、その少年は皇帝の前で名乗りをあげる。
皇帝領に戻った途端、どこから予備を取り出したのか失くしたはずの眼鏡を再び顔にかけた少年学者。分厚いレンズの向こうの朱金の瞳を、皇帝であるロゼウスはすでに見知っている。だからこそこの発言にはもはや呆気にとられるしかない。
「我が名はルルティス……ルルティス=ランシェット」
それまで状況が状況だっただけに詳しい事情や何故この場にいるのかが後回しにされていた少年は、この瞬間、誰の記憶にも忘れられない存在となって刻み付けられた。大人しげな印象とは裏腹に、その中身は豪胆で図々しく、しかもそれを相手に感じさせない。
だがしかし、やはりその発言や宣言をふと顧みると彼が口にすることはただひたすらとんでもないことだった。いかに学者が探究心に正直な生き物と言えど、ここまでずけずけとしたお願いをさも当然のように皇帝相手にした人間はいない。これまで四千年間、虐殺の薔薇皇帝相手にここまで大胆な行動をとった者はいないはずだが。
そのような四千年間の実績? など、これから歴史に名を残す少年には無意味な話らしかった。
「皇帝陛下、あなたを見つめるために、御前に参上いたしました」
にっこりと少年は笑う。
その満面の笑みに馴染みはないが、やはりその瞳は遠く懐かしく、そして見知ったもので。
ロゼウスは込み上げるあらゆる言葉を飲み込んだ。いや、むしろこの状況では飲み込まざるを得なかったというべきか。
「……ああ、許可する」
「ロゼウス!?」
「陛下!?」
ぎょっとして慌てふためくエチエンヌとリチャード、傍らで何がツボにはまったのか、腹を抱えてひたすら笑い続けているローラを横目に、ロゼウスは深々と溜め息をついた。
「光栄です、皇帝陛下」
とうの昔に止まったと思われていた宿命の歯車が動き出す。世界はこの瞬間、何かが始まってしまったらしい。
周囲の反応に無関心なわけではないが、狂王妃の爆笑も重臣たちの戸惑い顔もリチャードの蒼白さも何も気にも留めず、ルルティス=ランシェットはやわらかな笑みの裏のかたい決意でもって、宣言通り一心に皇帝を見つめ出した。
◆◆◆◆◆
夢を見た。
再び夢を見た。
「……シェリダン!」
足元に広がるのは、濃い深紅の薔薇たち。濃厚で芳醇な甘い香りを大気中にまき散らし、その風に紅を躍らせている。
先日とは逆に、今度はロゼウスが呼びかけた。深紅の衣装の背に声を投げると、藍色の頭が振り返る。
「ロゼウスか」
苦笑するように、シェリダンが名を呼んだ。
まだ少し距離がある二人。ロゼウスも今はまだ、先日のように抱きつけない。
「俺に会いたくないって、どうして?」
これは夢なのだ、目の前にしている相手は、本物のシェリダンではない。
わかっているのにロゼウスは問いかけてしまう。目の前の彼はロゼウス自身の生み出した幻想か、それとも本当にどこかに存在するシェリダンの意識が今ロゼウスの夢と繋がっているのか。
先日の夢での再会で、彼はロゼウスに「会いたくない」と言った。
「会えば、私は必ずお前に惹かれるから」
「どうしてそれがいけないの? 俺はずっと会いたかった。あんたに会いたかったよ、シェリダン!」
必死のロゼウスの呼びかけにも、シェリダンは切なそうに笑うばかりだ。
そうこうしているうちに、夢の檻が解けそうになる。これが最後と、シェリダンは口を開いた。
「愛している、ロゼウス」
ロゼウスが動きを止める。けれどシェリダンの言葉は、更に続く。
「……だから、会いたくなかった」
「何それ……意味がわからないよ……」
足元の大地から溶けるように夢の世界が消えていく中、ロゼウスはシェリダンへと手を伸ばした。ちぎれそうなほどに身を伸ばす。
なのに、届かない。
いつも――。
「私はいつも、お前の幸せを祈っている」
「あんたがいなきゃ、幸せになんてなれるわけないだろ!」
そうして、夢が終わった。
◆◆◆◆◆
フィルメリアから帰る途中の馬車の中で。
「……皇帝陛下?」
今度は絶叫して飛び起きることはなかったものの、ロゼウスは静かに眠りながら涙を流していた。濡れた頬と目元の光を見咎めて、ルルティスは声をあげる。
「泣かないでください。泣かないで……」
言っても夢の中の皇帝には通じず、ただはらはらと涙を零し続けるばかり。
その唇が震え、何かを囁いた。彼ら以外の人間はいない馬車の中、車輪の音にも紛れずその声ははっきりと耳に届いた。
「いかないで」
誰に向けた言葉なのだろうか。それは前にも彼が夢から目覚めた後に名前を呼んだあの人物?
今ルルティスの眼に映る皇帝は、この帝国を統べる傲慢なる最高権力者とも思えぬほど酷く無防備だった。もしかしたらこの時だけが例外なのかも知れないが、こんな風に涙を見せる人物だなんて。
今だけは不敬罪という言葉を遠くへと押しやり、ルルティスは美しい人の手に自らの両手を伸ばし、包み込むようにして囁いた。
「ここにいますから」
彼が求めている人物が、自分ではないことはわかっている。
どんな人物だという実態こそ知らないものの、恐らく名前にも見当がついている。
だけど先程の言葉を聞いた、瞬間、ルルティスは胸を締め付けられるようだった。あんな寂しい声を、寂しい言葉を、このひとの口から聞くくらいなら、なんでもするとさえ思った。
ただ昔命を救われたからだけではなくて、不思議に共鳴する何かがあるような気がする。
今、この場所で彼の傍にいてやれることができるのは、自分だけなのだ。
「……たとえあなたが、触れる者に血を流させる存在でも」
鋭い棘をもち咲き誇る、狂気の皇帝。黎明の空を鮮血で染め上げた、救世者にして殺戮者。
その薔薇色の孤独に、このルルティス=ランシェットこそが付き合おうではないか。
《続く》