薔薇の皇帝 03

014

 皇帝とは、間違ってもとっつきやすい存在ではない。

 薔薇大陸皇帝領。その地に住まう薔薇の皇帝は、四千年間この帝国世界を治める名君にして、傲慢なる殺戮者である。
 白銀の髪、紅の瞳、そして尖った耳を見れば、すぐにローゼンティア人とわかる容姿。しかしその名と容貌は一部の権力者を除いては正確に伝わっておらず、高貴なる姿を垣間見た者たちの噂話から、年頃の少年だとも、少女だとも言われている。あまりにも人間離れした美しさ故に、一目では性別すら定かに判じられないのだ。
 神の託宣により帝国を支配する皇帝の中でも、歴代最強にして最高の実績と即位年数を誇る皇帝。その存在は、一般民衆にとっては雲の上の存在、手も届かぬ天上のひと――……のはずなのだが……。
「……何をなさっていらっしゃるんですか、陛下?」
 別に貴族でも何でもない、ただの平民でたまたま皇帝の居城で日々出される料理の野菜の皮むきばかりを担当している新米料理人は、厨房の隅でこそこそと「お隠れなさっている」皇帝陛下に尋ねた。
 厨房にいる他の料理人たちもみな興味津々と言った顔をしている。常々「料理とは芸術!」と叫んでいる真面目におかしい料理長などは硬直していた。
「見てわからない? 隠れているんだけど」
 世間の噂では男だ女だと論争がされているが、真実はとりあえずこうである。薔薇皇帝ロゼウスは、実年齢は四千年以上帝国を治めているが、外見に関しては十七、八の少年で、線が細く華奢な体つきの、やや少女めいた麗しい容姿をしている。
 世間的には血も涙もない感情のない殺戮皇帝として知られている薔薇皇帝陛下は、今、真面目な顔でそうのたまった。皇帝領に勤めているためこうして時々じかに皇帝と話をすることができてしまった栄誉ある平民の彼らは、世間の噂とはあてにならないものだなぁと日々思っている。
「はぁ……何故、そんな場所にお隠れなさってるんで?」
 ここは厨房である。皇帝の宮殿の一部には違いないが、それでも厨房は厨房である。特別に用がなければ普通の支配者は近づかないであろう。
 そして皇帝は、厨房という場所自体に用があるわけではないようである。食事をとりにきたというわけでもなく、もちろんつまみ食いをしにきたわけでもない。というか、その程度のことだったらこの城の人間は基本的に皇帝に逆らわないので、皇帝が望めば食事の一つや二つやフルコースや高級料理店メニューの片っ端から作るくらいはわけないことである。
料理長が真夜中に叩き起こされるとかであれば栄誉と口で言いつつ本心では面倒だと思うこともあろうが、今は昼日中、ちょうど新鮮な食材も届き、今頼めばそれこそどんな美味も珍味も完璧に応えられるだろういい感じの時間帯である。
 が、最初に言ったとおり、皇帝は別に厨房に食事をとりにきたわけではないらしい。おやつの催促というわけでもなければ彼らの仕事ぶりを見にきたわけでもない。野菜の入った箱の積まれた陰に、隠れているのである。
 白いエプロンとコック帽の集団は、一様に奇異な顔と困った顔を浮かべるしかない。彼らからしてみれば、皇帝が何故じゃがいもの箱の裏に隠れているのかさっぱりわからない。
「何でもいいだろう。とにかく、しばらく俺をここに――来たっ!」
 あてにならない世間の噂的には常に「表情がなく人形のよう」と言われる皇帝が、明らかに顔色を変えて突然箱の裏に縮こまり息を殺した。説明が中途になった料理人たちは、頭の上に疑問符を浮かべたまま、とにかく皇帝の方を見つめている。城の主を前にして礼もとらずこのまま仕事を始めるわけにもいかないので、全員が所在なく突っ立ったままだ。
 そして彼らは、皇帝が何故こんな場所で年甲斐もなくかくれんぼをする羽目になったのか、その理由と元凶を知ることになる。
「陛下―、皇帝陛下ぁー」
 ぱたぱたぱたと軽い足音をさせながら、廊下の向こうから誰かが駆けてきた。今のロゼウス帝は心を許した者には気さくな性質だが、基本的に皇帝に話しかけることができるのは貴族や王国の重鎮たちだけである。そのどちらでもないが一月ほど前からこの皇帝領にやってきて住みつき、日夜皇帝を追いかけまわしている例の客人に関する噂は、彼らも聞き及んでいた。
 ルルティス=ランシェット。
 実は「チェスアトールの奇才」と呼ばれる希代の天才学者であることが後に判明した歴史学者の少年である。彼は薔薇の皇帝ロゼウスに関する伝記を書くことを目的に、皇帝領へとやってきた。先月にフィルメリアで起きた神学論文関係の事件を解決するついでにあれやこれやと関係者一同を丸めこんで、ちゃっかり皇帝領に住みついてしまった。
 それ以来彼は、取材という名目で日夜皇帝を追いかけまわしている。おかげで、もともと執務はリチャード=リヒベルクまかせだった皇帝が、最近は更に一日のほとんどをルルティスからの逃亡に費やしている現状だ。
 二言三言ネタを提供するだけならともかく、ルルティスの取材はありていに言って、かなりしつこいものだったのだ。黙秘を許さない勢いで小さな事件の詳細まで根掘り葉掘り突っ込んで質問してくる彼の威勢に伝説の殺戮皇帝ですらたじたじになり、とかく逃げ回っているのだ。
 つまり、今薔薇皇帝が厨房でじゃがいもの箱に顔をひしりとくっつけて仲良く身を隠しているのはそういうわけだった。
 だからってここに隠れないでください、と料理人一同は思ったのだが、懸命にもそれを口に出すことはしなかった。ルルティスの取材のしつこさは皇帝だけでなく、関係者にまで及んでいる。エチエンヌやローラ、リチャードと言った側近もそうだが深い事情など何も知らない城の侍女や下男たちにまで話を聞きまわる徹底ぶりで、一部の者たちなどはあれなら皇帝陛下が逃げ出すのもわかる、と口を揃えて言う。
何しろ彼らはルルティスに捕まって半日近く仕事を放棄したことがあっても、それを皇帝の意向で「勤務時間」として手当さえもらえたというのだから筋金入りだ。皇帝、よほどルルティスから逃げ回るのに苦労しているらしい。そのことは、こうしてじゃがいもの箱といかに一体化するほど仲良くするのに苦心する姿にも反映されている。
 廊下を行き来して皇帝を探すルルティスに気付かれないよう、彼は必死で息を殺していた。料理人たちも、何故か固唾をのんでその様子を見守っていた。
「皇帝陛下―」
 ルルティスはまだどこかの部屋で叫んでいる。だが段々と声が弱くなり、この区画の捜索を諦めそうな雰囲気だ。やったか、と彼ら一同(皇帝含む)は思った。
「もう、陛下、いい加減に出てきてくださいよー。ちょっとぐらい、いいじゃないですかー」
 ちょっとじゃない。全っ然ちょっとじゃない。(皇帝談)
「陛下がいろいろと教えて下さらないなら、僕が勝手に捏造しちゃいますよー。ないことないこと書いちゃいますよー」
 何故そこまでしてそんなに薔薇皇帝の伝記を作り上げようとするのだろうか……。だんだんじゃがいもの箱との間に倦怠期を感じて来たらしい皇帝は疲労の滲む溜め息を漏らした。
 それでも、もう少しここでじっと待てばルルティスはどこか別の場所へ行くだろう。
「陛下があることを教えてくださらないから、ないことないこと書くんですからねー」
 最後通告なのか締めの一言なのか、ルルティスがそう言った。それを聞いて、料理人たちもようやくこの状況から解放されるのかと期待した。皇帝は自分のことだけに、もっともっと期待した。
 しかし敵(?)は強かった。手強すぎた。
 厨房から見える限りの視界の端で、すっとルルティスが大きく息を吸った次の瞬間、彼は芝居がかった口調でするすると淀みなく、とんでもないことを言い出した。
「『ああ、ダメです姫君! 私とあなたは、身分が違いすぎる!』と騎士が口にすると、愛の告白を胸の前に組んだ両手に携えた麗しの皇帝陛下は言いました。『いいえ、エチエンヌ。わたくしのこの愛の前に、そんなことは関係ないわ』と、毅然とした態度で自らの想いを騎士に告げます。薔薇の大陸に住まう男装の麗人、誰よりも美しき少女ロゼウス皇帝とその騎士であるエチエンヌ卿は、世界の秩序を守る傍ら人知れぬ場所でそうして愛を育て――」
「「う、うわぁあああッ――――!!」」
 いきなりルルティスが滔々と語り出した、色々と間違った恋愛歌劇の台本じみた物語に、厨房と上の階からの悲鳴が絶妙にユニゾンした。
厨房は言うまでもなく皇帝ロゼウスその人だが、上の階からの悲鳴は勝手に物語に出演させられていたエチエンヌのものである。ルルティスはちょうど城の階段の吹き抜けの真下でアレな物語を語り出したのだ。上で真面目に仕事をしていたエチエンヌにまで聞こえてしまったらしい。
皇帝もさすがに厨房から飛び出していった。どうやら聞き捨てならなかったようだ。
「陛下、走ると危険ですよ!」
 野菜の皮むき担当は思わず後ろ姿に声をかけたが、皇帝は聞いちゃいなかった。嵐のように、皇帝は厨房から立ち去る。
 ようやく厨房には料理人たちの平和が戻ったらしく、その後に皇帝が戻ってくる様子はなかった。顔を見合わせる料理人たち。
「結局なんだったんすかね、あれ」
「さぁな……」
 とりあえず本日も、皇帝領は平和らしい。

 ◆◆◆◆◆

「ルルティス――ッ!!」
「学者先生!?」
 ロゼウスとエチエンヌは、二人ほぼ同時に皇帝領のニューフェイスたる学者のもとへと辿り着いた。ロゼウスはじゃがいもの箱の影から飛び出してきただけだが、エチエンヌにいたっては上階から吹き抜けをそのまま飛び降りてきたようだった。床に着地の音が重く響く。
「皇帝陛下!」
 ロゼウスを見た瞬間、ルルティスがぱっと顔を輝かせた。ぎくりとしてロゼウスが足を止めると、今度は筆記用具を胸に抱えたまま、にやりと邪悪に笑ってみせる。
「おいでなさいましたね。さぁ本日の取材を始めましょう!」
 世界皇帝もかたなしの極悪な喜びだった。
「も、もう勘弁してぇえええ!」
 皇帝の宮殿に、主の悲痛な絶叫が響いた。

 ◆◆◆◆◆

「というかですね、学者先生。何で僕まで巻き込むんですか!」
「って、俺はいいのか……」
「お前は黙ってろこのバカ皇帝」
 ロゼウスが現れた途端、さっそく取材を始めようとしたルルティスを捕まえてエチエンヌは抗議する。
「大体、何ですかさっきの話は! あなたは学者なんでしょ? いつから劇作家や吟遊詩人になったんです!」
 少年学者、チェスアトールの奇才、千年に一度の大天才、ルルティスは笑顔で言った。
「つい先程」
 いけしゃあしゃあと言うその口に、どうにもエチエンヌは舌戦では勝てそうにないと諦めかける。ぐっと踏ん張って、更になんとか言葉を絞り出した。
「あなたがロゼウスについてどうのこうの言うのは勝手ですけどね! 僕を巻き込まないでくださいよ!」
 力の限り怒鳴るエチエンヌは、物語で言えばまさしく騎士のような外見をしている。美の国として有名なシルヴァーニの人間で、金色の髪に翡翠の瞳の美少年だ。皇帝ロゼウスと同じく四千年の長きにわたり生き続けているが、外見年齢は十五歳前後。
 一方、エチエンヌに怒鳴られても飄々としているルルティスも容姿と言う点では負けていない。赤みがかった亜麻色の髪に、朱金の瞳。チェスアトール人の特徴を持つ、こちらも十五歳の少年だ。端正で華やかな顔立ちを、普段は薄いレンズで覆い隠している。
「そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。ここに勤めている人たちは皆さん真実を知っていらっしゃるのでしょう?」
「だからって、誰がこんな奴と恋仲にされて気分のいいもんですか!」
「その前に、ひとを勝手に女性にするな」
 ロゼウスも途中で突っ込んだ。ルルティス作の物語では、何故か皇帝は男装の麗人――すなわち少女扱いだったのだ。ロゼウスは自分で勝手に女装もするし外見を女の子に間違われるのは気にならないのだが、それを事実として広められるのは納得がいかないらしい。複雑な男心だった。
「でしたら、ぜひ本当のところどうなのかを教えてくださいよ」
 二人がかりの抗議にも、ルルティスはどこ吹く風と言わんばかりにまったく動じなかった。それどころか手帳とペンをさっと取り出して、瞳をきらきらと輝かせながら取材モードに入る。う、と二人は一歩後退した。
「私がないことないこと勝手に言うのは、実際のところを知らないからですよ。事実さえ教えていただければきちんとそちらを記します」
 遠まわしに「本当のことを話さなかったらとんでもない事実無根の面白事情が出回るぜ」と最高権力者を脅しつつ、希代の天才にして変人学者はずずいと迫る。
 ちなみにここは廊下のど真ん中、吹き抜けになった階段の真下なので、人通りは結構多い。道行く使用人たちは皆、この組み合わせに注目して目を丸くしながら、あるいは耳を大きくしながら通り過ぎていく。
 そんな場所で何を暴露しろと!? 脛に傷持つどころでなくいろいろとやらかしている自覚のある皇帝と、それを止めきれないどころか背中を蹴飛ばして後押ししている感のある従者は非常に困った。普通に私室でも困ったろうが。
「俺とエチエンヌねぇ」
「実際のところも何も、普通にバカ皇帝とその従者だ。それ以外の何でもないよ」
 とはいえ個々の行状そのものならともかく二人の関係と言われると特に語るようなことは実際何もないのだが、ルルティスはその返答では満足しないらしい。
 ペンを口元にあて、唇を尖らせる。
「え~本当ですか~?」
「これは掛け値なしに本当だけど……そもそも、なんでいきなり俺とエチエンヌなわけ?」
 ロゼウスたちとしてはまずそこが疑問なのだが、ルルティスは当たり前のように答えた。
「え? だって有名じゃないですか。薔薇皇帝の《碧の騎士》の話」
「アオノキシ……」
「ああ……あれか……」
 《碧の騎士》は、エチエンヌの持つ称号の一つだ。それにまつわるエピソードは諸国の権力者から、とある国では民衆レベルにまで知られている話では、ある。
「あれはなぁ……」
「元はと言えば、あれってフェザー様が原因じゃ……あれ? そう言えばロゼウス、そろそろフェザー様戻ってきてもいい頃じゃない?」
「フェザー?」
 取材として求めた内容からエチエンヌの話はいきなり脱線しているのだが、ルルティスもわざわざそこまで問い詰めはしなかった。これから戻る可能性もあるし、何より新しく名前の出てきた『フェザー』なる人物に興味があったからである。
「フェザーなら、もう城にいるよ」
「え? 僕まだ顔見てないよ」
「俺も一度会っただけだ、向こうが挨拶に来てな。なんでも今回の報告書に抜けがあったとかで、急ぎ書類を完成させてすぐにエヴェルシードまで送らなければならないんだってさ。今日の朝にそう言ってきて、半日くらいで終わるとも言っていたからそうしたらすぐに顔を見せると思うぞ」
「そうだなぁ……だったら邪魔しちゃ悪いか。もともとフェザー様を皇帝領に引き留めているのは、こちらの都合だし。ってかお前の責任だし」
「いや、あれはどちらかと言えばあいつが強烈に押し掛けてきたんじゃないか? 国王を説き伏せてまで来なくても……」
 とりとめのない話を横で聞きながら、ルルティスの興味は加速する。元はと言えばフェザーが原因。どちらかと言えばフェザーが押しかけ。事件を引き起こしたり渦中にいたり、なんにせよ面白そうな人物であることには間違いないだろう。
「それで、そのフェザー様ですか? その方と陛下はどういった御関係で?」
 いきなり直球をしかも至近距離から放ってきたルルティスの問いに、ロゼウスは今度こそ答に閉口する。
 これを言ったら最後、ルルティスがピラニアも真っ青な食いつきっぷりを見せるだろうことはすでにこれまでの学者先生の行動から予測できることだ。しかしそれ以外に返答仕様がないのも事実であるし、何より「彼」が「そう」であることは有名で、ロゼウスたちの言うフェザーが誰かをルルティスが知れば、おのずとその答に行きつくに違いない。
 なので、皇帝はとりあえず逃げた。
「まぁ、それは置いといて《碧の騎士》の話だったな」
「陛下、話を誤魔化していませんか?」
「何を言う、ルルティス、お前が先にこちらを聞きたいと言ったんだろう? なぁ、エチエンヌ」
「ちっ! ……そうだね。元はと言えばその話だったね」
 あからさまに嫌そうな顔で舌打ちしつつ、一応話としては正しいのでエチエンヌは頷いた。
「《碧の騎士》というのは、その昔エチエンヌが某国でそう呼ばれたという話。称号と言うのは後から贈られたもので、実際にはある出来事があった」
「その出来事って、なんでしょう?」
「えーと、簡単に言えば俺が誘拐されたんだけど」
 自らの過去の恥を特に恥じるでもなくあっさりとロゼウスは語る。この皇帝は皇帝にもかかわらず、異様に拉致られ慣れしているのである。ついでにルルティスも経験した先のフィルメリアの事件では牢屋にも当たり前のように放り込まれたし、監禁されたり暗殺されかけたりしょっちゅうトラブルにかかずらっている。こんな皇帝でよく世界が回っているものである。
「それを助けにきたエチエンヌの行動がやけに派手だったんで、目撃していた人々が度肝抜かれて騎士だ騎士だと騒いだ。以上」
「なるほどー。それではもっともらしく纏められた今のお話の中から先程知り得たばかりの情報も交えまして、さっそく疑問点を述べさせていただきます。一、それのどこが“フェザー様が原因”なのか? 二、何故皇帝陛下がそのフェザー様と言う方を理由に攫われるのですか、根本的な事情は? 三、何故エチエンヌ様はそんなにその時に限り派手な行動をとられたのですか? この三点にお答えいただけるととても助かります」
「「……」」
 わざとロゼウスがぼかした辺りの核心をついてくる、あまりにも的確な問いにロゼウスもエチエンヌも思わず黙った。ルルティス=ランシェット、彼はきっと「エリーちゃんが風邪で寝込んでいます。最初に従姉のお姉さんが、次に村のお友達が、最後に近所の犬がお見舞いに来てくれました。さてエリーちゃんの病名は何でしょう?」タイプのなぞなぞには絶対引っかかってくれないに違いない。
「さぁ、お答えください」
「……だってよ、エチエンヌ」
 皇帝は再び逃げた。むしろ問題をエチエンヌに投げた。
 ルルティスの知りたいこと一と二に関してまでならロゼウスでも説明できるが、三に関しては予想はつくが、本人でない限り確かなことは言えない。困ったのはエチエンヌの方だ。
「あー、あー、あー、えーっと、そうだ! ロゼウス、お前に客が来てるぞ!」
 ついに苦し紛れだが、エチエンヌはそういう風にしてルルティスの質問をかわそうとした。逃げた、と言ってもいい。主従揃って敵前逃亡である。
 それはともかく内容としては聞き捨てならなかったものなので、ロゼウスは聞き返した。目の前のルルティスの舌打ちはこの際聞かなかったことにしておこう。
「客? 何だそれ。聞いてないんだけど」
「聞いてない? 面会の申し込みはちゃんとされてたけど。お前またリチャードさんに渡された書類ちゃんと読まなかったんだろう」
 いつものお小言が始まりそうな予感に、ロゼウスは顔を引きつらせた。目の前のストーカー、隣のお目付け役。ああ逃げ場がない。
「ま、お説教は後にしておこうか。それより先に客に会って来いよ。いくら皇帝だからって、せっかく訪ねてきた相手を蔑ろにするのはどうかと思うぞ」
「皇帝相手に権力絡み以外のまともな用件で訪ねてくる相手も少ないけど……わかった、行ってくるよ」
 じゃあね~と手を振り振りロゼウスはさっさと謁見の間に向かう。その後ろ姿に皇帝の威厳などと言う大層なものは見られない。
ところで、一人ピラニア学者の前に陸に打ち上げられた無力な魚のように残されてしまったことにエチエンヌが気づくのは、この三秒後のことである。

 ◆◆◆◆◆

「もう、結局陛下もエチエンヌ様も逃げてしまうし」
 頬をぷりぷりと膨らませながら、ルルティスは城の廊下を歩いていた。目的地とは図書室である。
 あの後、結局なんだかんだ言い訳されてエチエンヌにまで逃げられてしまったので、せめて図書室でここでしか読めない貴重書などを発見しようという目論見である。半ば押しかけで宮殿への滞在権利をもぎ取ったルルティスは、皇帝への取材が失敗しようともなんだかんだで毎日皇帝領ライフを満喫している。
 そんな結構ぐだぐだで幸せな生活を送っていたルルティスだが、彼はまだ皇帝領の住人達の真髄というものを知らなかった。
「うわっ!」
「わぁ!」
 角を曲がろうとした際、前方から突如として平積みにされた本の壁が現れた。
「いたたたた」
「ごめん、この辺りはほとんど人が通らないからって、油断してた」
 本の壁とはなんてことはない、誰かが前も見えないほど大量の本を抱えて歩いていただけだった。見事にその人物と正面衝突して大量の書籍と共に床に転がったルルティスは、先に謝ってきた相手の顔を見ようと首を起こす。
「いいえ、こちらこそ余所見をしていまして、大変失礼いたしました」
 ルルティスはルルティスで直前まで手帳に視線を落としていたため、反応が遅れたのだ。相手に関しても何も前が見えないほど本を一度に運ぶことはないと思うのだが、余所見をしていたルルティスも勿論人のことは言えない。
 声の感じから若いと思った相手は、見た目ルルティスとさほど変わらない年頃の少年だった。十七、八歳と言ったところだろうか。蒼い髪に橙色の瞳のエヴェルシード人で、身なりもよいとても綺麗な顔立ちの少年だ。
「あれ? 君は? 初めて見る顔だよね」
 人の良さそうなその少年は、本の中に埋もれるルルティスに手を差し伸べる。ぽかんとその華やかな笑顔に見惚れていたルルティスは、慌てて彼の手をつかみ立ち上がった。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして」
 少年はにっこりとする。その顔は多少大人びていて、確かにルルティスより大人なのだろうと感じさせた。品が良く優美な容姿だが脆弱な印象はなく、差しだされた手をつかんだ際に、その手に剣だこがあることにルルティスは気付いた。
 民族独自の荒々しさこそないが、外見と身なりの良さから一目でエヴェルシード人の貴族の子弟だろうと見て取れる少年は名乗る。
「私はフェルザード=スラニエルゼ=エヴェルシード。君は?」
 にこにこと告げられた名前に、ルルティスは固まった。
 エヴェルシードというのはシュルト大陸東方部、最強の軍事国家の称号を得る王国の名前だ。
そして国の名を家名として名乗るのはそこの王族に他ならない。
 そして何より、『フェルザード』とは、現在の第一王子の名前ではないか!
「え、エヴェルシードの王子殿下!?」
 思わず礼を返すのを忘れ、ルルティスは素っ頓狂な声をあげてしまった。他の国の王族相手でももちろん驚いただろうが、それでもただの王族相手ならばここまで驚きはしなかっただろう、と自分で思う。
 エヴェルシードの第一王子、フェルザード王子と言えば有名な人物だ。
 武の国と呼ばれ古くから戦争、そして今は傭兵稼業で身を立てる者が多い、まさしく闘争の国エヴェルシード。蒼い髪に橙色の瞳を持ち、皇帝領で言うならば皇帝の補佐役であるリチャードがこの特徴にまさしく当てはまるエヴェルシード人である。
 そんなエヴェルシードではあるが、かの国の王族には弱みがあった。子種が少なく、いつの時代も王族の血を引く者はほとんどいないのである。
 現在は第一王子のフェルザード、第二王子にして王太子ゼファードがいるが、男の兄弟二人など奇跡だと言われるほど。歴史的に見れば女王もいないわけではないが、力こそ全ての男尊女卑国家で女王族は好まれない。
 そこで現在の王子二人はウーパールーパー並みの珍獣、もとい貴重な王族であるわけなのだが、そのうちの第一王子フェルザードが問題であった。
 長子相続が基本のエヴェルシード王家において、第二王子であるゼファードの方が王太子に指名されているのはわけがある。弟王子が権力欲にとり憑かれているわけではなく、フェルザードの方がどうしても王位を継げないと継承権を放棄したのだ。その理由こそが――……。
「あなたがあの有名な、《皇帝の愛人になるために玉座を捨てた王子》!」
「ええ」
 思わず指差し確認という、相手が王子でなくとも失礼なことをやらかしているルルティスに怒ることもなく、あくまでも品良くフェルザードは頷いた。
 そうなのだ。エヴェルシード第一王子フェルザード。彼がこれほどまでに有名なのには、薔薇の皇帝が深く関わっている。
 十年ほど前だろうか、エヴェルシードの王太子であったフェルザード王子は突然父国王に、王位を継ぎたくないと言い出した。その理由が、皇帝陛下の愛人としてあの方のお傍に行きたいから、というものだったのである。
 フェルザード王子の美貌と有能さは諸国に知れ渡っていたので、余計に市井の間にまで噂が広まったのだ。誰もが彼が王になればエヴェルシードは安泰だと考えていたのに、その王子が皇帝の「愛人」になりたいと言う。
 確かに四千年も生きている薔薇の皇帝はその分だけ愛人を多数抱えている。多数、と言っても一度に何十人も侍らせてハーレムを作るのではなく、即位期間が長いからその間に気に入った者がいれば呼び寄せるといった程度の頻度だ。
 それでも、愛人。
 一国の、将来を期待された、しかも子種の少ない王国の王子にとってそれは致命的であった。父王は王子の熱意に押されて泣く泣く息子が皇帝の傍に侍ることを許したが、継承問題はまだ長引いているという。ある程度以上の階級になれば、皇帝の性別は男だと知られているのでなおさらだった。
 その、フェルザード王子が。
「ああ。そうか。赤い亜麻色の髪に朱金の瞳のチェスアトール人……あなたが噂の歴史学者ですね」
 一方フェルザードの方から見ても、ルルティスはネッシーだったらしい。権力を求める貴族でもない人間が、皇帝領に好き好んで皇帝に遭うためにやってくるなんて話は皆無と言っていい。特別な依頼があるのではなく、皇帝を傍で観察したいという頓狂な理由で宮殿を訪れたルルティスは珍獣を通り越して未確認生命体だろう。
「し、失礼いたしました、殿下。わたくしはルルティス=ランシェットと申します」
 どちらにしろ皇帝ロゼウスの手があけば、皇帝と関わる頻度の問題から二人は引き合わされたことだろう。そうは思うがこうしてその前に出会ってしまったので、ルルティスは慌てて先の非礼を詫びると共に自らの名を名乗った。
 そしてふと、先程の皇帝とその従者とのやりとりを思い返す。
(もしかして、フェザー様っていうのは……)
 今目の前にいる、フェルザード王子様に他ならない。