薔薇の皇帝 03

016

「ああ、うん。へぇ、それで?」
「あの~、陛下ぁ~」
 不屈の歴史学者、ルルティス=ランシェットは今日も皇帝の傍で取材が駄目ならウォッチングだけでもと観察に励んでいた。
「なるほど……そうか。仕方がない。じゃあもっとだな。うん、……うん、ああそうだ」
「皇帝陛下……」
 騎士候補として、皇帝の傍近く仕えるゼイル=トールベリの試用期間は始まった。彼は皇帝の執務室で護衛の任に直立不動で励んでいた。
「で、例の件は……ああ、そう。ん? いやいや、馬鹿なことを言うんじゃない」
 バカなこと? 今そんなの言った? てかなんて言ったの?
 先程から皇帝は独り言を言っているように見える。だが良く見るとそうでないことがわかる。
 彼の肩には、一匹の小さな蝙蝠が止まっているのだ。体毛は真っ白で、とても夜闇に紛れそうもない。その蝙蝠に向けて、いやその蝙蝠と? 皇帝は和やかに話を続けていた。
 ……会話、なんですよね? あれ。
 ルルティスとゼイル、二人の男は顔を見合わせる。代表して猫が殺されても好奇心は止められないと断言するルルティスがロゼウスへと問いかけた。
「あの、ロゼウス陛下、それは……」
「それでいい。後はお前に任せる」
 肩にとまった白い蝙蝠の頭を優しく一撫でし、ロゼウスはようやく彼らを振り返った。
「で、なんだって?」
「何をしていらっしゃるんです?」
 ルルティスがそう尋ねる頃には、小さな蝙蝠は開け放してあった窓の向こうへと飛んでいった。
「蝙蝠と話していた」
 薔薇皇帝。彼の常識を理解するのは難しい。

「そうですか……」

 皇帝の日常を知りたいと願う学者、皇帝の傍近くで常に予測不可能な事態に対処しようとする騎士候補。
 彼らの前途は、共に多難だった。

 ◆◆◆◆◆

 新参者二人が皇帝の日常に苦戦している頃、知りたくもないが四千年も付き合っていればもはや知らなくていいことまで知っているような仲の従者たちと、むしろ知らなくていいことの方をはるかに知っている愛人は。
「あの彼、本当にロゼウス様の騎士になっちゃいましたわね」
「まだ候補ですよ、ローラ」
 城の一室で和やかにお茶をしていた。ローラとエチエンヌ、フェルザードが席に着き、リチャードが給仕に徹している。リチャードの地位は本来ローラやエチエンヌより高いのだが、仕事をしていないと落ち着かないらしい。 
 バロック大陸の端、ラウザンシスカ原産の極上の茶葉の風味を楽しみながら、フェルザードが口を開く。
「いや~見物ですね、凄く久々に皇帝領で働きたい、それも皇帝のお傍に近寄りたいなんて無謀な方がやってくるの。賭けます?」
「一か月で泣いて帰るに金貨三枚」
 軍事国家の王子はナチュラルに賭博を持ちかけ、皇帝の愛人として名高い《狂王妃》は一瞬も躊躇うことなく乗った。
「ちょっと二人とも、そんなあっさりとゼイルさんの敗北を預言しなくても」
「あら、エチエンヌ。違うわよ。私たちはハデス卿じゃあるまいし、予言なんかできないわ」
「そうでしょう? だから」
「だからこれは期待ですよ。予測と期待」
 なお性質が悪い。
「……というか無謀って、ロゼウスの傍に行きたい! って十年前にエヴェルシードで大騒ぎしたフェルザード様がそんなこと言ったらダメじゃないですか?」
「やだなぁ。エチエンヌ、私は陛下のお傍に行きたいと大騒ぎしたんじゃありませんよ」
 ティーカップを片手にフェルザードは極上の笑みを浮かべる。
「“陛下のお傍に行きます”と大騒ぎして国を出ました」
「殿下……」
 願望などという生易しい言葉はフェルザード=エヴェルシードの辞書にはどうやら存在しないらしい。自分が願うことは即実行。
「父上が必死で止めようとしたので、“あなたの力でこの私を止められるものなら止めてみなさい! できっこないでしょうけど!”と啖呵切って出てきました」
「殿下……」
 邪魔する者は全てなぎ倒せ! それが信条。実行できるのがまた性質の悪く。
「それならエヴェルシードらしく! と父上が軍隊を差し向けてきたので、それもあの手この手で追い払いました。まぁ死人は出していませんけどね。もともと父上より私に従う兵の方が多いわけですし」
「殿下ぁ……」
 そしてフェルザードの辞書には容赦という言葉もない。本人の断言通り、確かにフェルザードの父である現エヴェルシード王よりはフェルザードの方が全てにおいて優れている。
エヴェルシード王国に幸あれ。
「リチャードさん、あなたも何か言ってくださいよ!」
 フェルザード相手には自分では口で勝てることはないと踏んだエチエンヌは、背後でケーキを切り分けていたリチャードに救援を求める。
四千年生きても常に真面目な面差しが崩れることのない青年は。
「では私は二週間で皇帝陛下に泣かされて帰るに金貨四枚」
「って、あなたも賭けるんですかい!」
 真顔でのたもうた。どうやらエチエンヌに救援はいなかったようだ。
「少しは真面目に応援してやろうとかそういう気はないんですか皆さん」
「だって、事実だもの。私たちみたいな半不老不死のノスフェラトゥでロゼウス様と一蓮托生の怪物ならともかく、まともな人間が一月以上持つわけないでしょう?」
「ちなみにローラ、さりげなく私のことを貶していません?」
 フェルザードはノスフェラトゥではなくごく普通の人間だが、ロゼウスとの付き合いはもう十年にもなる。
「まさか、そんな訳ありませんわ。殿下、あなたはもはや御立派に怪物です」
「本物の怪物にそう言われるとは身に余る光栄ですね。さすがに私より四千年近く年上の方は違う」
「フェザー様より四千歳年上と言えば、皇帝も同じですわね。ロゼ様私より年上ですから」
「四千年も生きている方がこの期に及んで二歳やそこらの差を気にするなんて」
「うふふふふふふふふ」
「あはははははははは」
 ローラとフェルザードの二人はにこやかに微笑みを交わし合った。両者とも春の陽だまりのような笑顔なのに、それを見守るエチエンヌたちは何故か氷点下に放り出されたようだ。
「ああ、寒いですリチャードさん!」
「我慢しなさい、エチエンヌ。よく言うでしょう、暑いより寒い方がマシだと。怒気で灼熱を感じるよりはこの方がきっといいんですよ」
 血を見る事態はさすがに避けたいと、リチャードが年季の入った溜め息をついた。
「というか、ナカヨクするという選択肢はいつの間に空のお星様になったんですか? 僕は彼にさよならも言えてないんですよ?」
「選択肢はもしかしたら『彼女』かも知れませんが……エチエンヌ、この四千年間で陛下と仲良くなるという選択肢は存在しました?」
「……生まれてくる前に全力で否定しました。ああもう! ……ん?」
 年季と性別は違っても共に皇帝ロゼウスの愛人同士がいまだブリザードを飛ばし合っているどうにもこうにもならない部屋の中、空気を拡散するぜとばかりに激しく扉が開け放たれた。
「ああもう! また逃げられました!」
「学者先生?」
「ランシェット博士、ごきげんよう」
 亜麻色の髪を振り乱し、悔しげに天井に向って吠えながら部屋の中に入ってきたのはルルティスだった。先程までゼイルと共にロゼウスと共にいたはずなのだが、どうやら「また」逃げられたようだ。
「あーあ、ゼイルさんはちゃんと陛下を追えているのかなぁ。私だって足に自信がないわけではないのですけど」
 ルルティスが結構やることは皇帝領の住人は誰もが知っている。
 ……だがそれ以上に彼の取材が鬱陶しいことも知られている。否、知らぬ者などいない。
「へぇ。学者先生が逃げられた時でもゼイルさんはまだロゼウスを追えてたんだ?」
「どうでしょうね? 私より先に走っていたのは確かですが」
 ゼイルの初仕事はもしかしたら見知らぬ侵入者や不測の事態よりも、この少年学者からロゼウスを守ることかもしれない……、と一同は思った。
「というか陛下、仕事は……?」
 リチャードを「過労」から救う者はいないようだ。ちなみに働くのが好きであることと、働かない人間の仕事を押し付けられることは違う。
「……えーと、ちなみに学者先生、いつもの追っかけっこの前にはロゼウス、何やってたの?」
 虚ろな目をし出したリチャードの方をちらちらと気にしながら、とりあえずエチエンヌは尋ねてみた。
「ああ、はい。蝙蝠に親しげに話しかけていました!」
 何も知らない者に聞かせたら皇帝の人格、もとい正気が疑われそうなことを爽やかかつ無駄に堂々と報告するルルティス。
 しかしここに集う面々は幸か不幸か皇帝をよく知る者たちばかりだったので、特段ルルティスの報告に不自然を感じなかったようだ。
「蝙蝠? ああ、それってひょっとしてこのくらいの大きさの白い蝙蝠じゃありませんでした?」
「よくお分かりになりましたね、フェルザード殿下! まさしくその通りです」
 フェルザードが手で大きさを形作ってみると、ルルティスはあっさりと頷いた。彼らのやりとりを見ながら、ローラたちは視線を交わし合う。
「白い蝙蝠、ね。そう言えば顔見せないなぁとは思ってたけど」
「このタイミングで、ということはやはりあのゼイルって人のことかしら」
「そう考えるのが妥当でしょうね」
 先程ロゼウスがゼイルに皇帝領の主要人物を説明した際、顔を見せなかった者が一人いる。彼は世界各地での活動が主なハデスやプロセルピナと違って、皇帝の命令なしに薔薇大陸から離れることは基本ありえない。
 ただ一人紹介されなかった選定者。
「ジャスパー王子を動かしたってことは、何かあるのでしょうね」
 ルルティスをフェルザードが引きつけているのをいいことに、三人は同じ室内で堂々かつこそこそと話し合った。
「ゼイル様ですか?」
「でしょう。今更あの学者先生を追い出すわけでもないでしょうし」
「いや、ロゼウス様ならやりかねないと思うが……どうした、エチエンヌ」
「うーん?」
 ゼイルの名を聞いた辺りから、エチエンヌが首を捻りながら何か考え事をしている。
「気のせいかもしれないけど……あのゼイルって人、どこかで見たことがあるような気がする」
「え?」
「そうか? 私は知らないが」
 エチエンヌの言葉に、ローラとリチャードが今度は首を傾げる番だった。記憶力と言う点ではリチャードが最も優れていて、ローラはそもそも皇帝領に籠もりがちで顔を合わせる人間が極端に少ない。だから二人はそう簡単に一度会った人間を忘れるはずがないのだが、その彼ら二人にはゼイルという人物に覚えはないようだ。
「二人が覚えてないなら、僕だけが出会ったってこと? う~~~ん?」
「その辺が曖昧なわけね。とりあえず私は覚えないわよ」
「う~~~ん、どこで見たんだっけなぁ。あの金髪、あの青い目、あの褐色の肌……ゼイル=トールベリさん」
「なんでしょう!?」
「て、うぉわ!」
 噂をすれば影すなわち本人が現れた。
「いきなりどうしたんです?」
「皆様方、陛下の行き先をご存じありませんか!?」
「逃げられたのね……」
 ルルティスよりは粘ったらしいゼイルもどうやらロゼウスにまかれてしまったらしい。しかめっ面にどこか焦りが浮かんでいる。今にも腰の剣に手をかけそうだ。
「知っていたら私は今頃追いかけていますよ!」
「そうですか、お手間をとらせました」
 ゼイルの登場に気付いたルルティスが悔しそうに叫ぶのを本気ととったらしく、ゼイルは疑うこともなく再び部屋の外へ走り出していった。ばたばたと足音が遠ざかる。
「廊下は走っちゃいけませんよー」
「殿下、それ一番守ってないの皇帝陛下です……」
 なんだかんだで部屋の中の嵐から外から飛び込んできた嵐までが去って、室内はなし崩し的に一段落を迎えたようだ。地団駄を踏んでいたルルティスも落ち着き、エチエンヌは記憶を探ることを諦めた。
 リチャードが新たに席に着いたルルティスの分の紅茶を淹れる。礼を言ってルルティスが受け取った、その時。
「ようやく行ったな」
「ぶはっ!」
 突然、窓からロゼウスが入ってきた。
 ルルティスは口に入れたばかりの紅茶を噴いた。エチエンヌとローラとリチャードとフェルザードはこんな時ばかり抜群のチームワークを見せ、茶器一式をそれぞれ避難させている。
「皇帝陛下!」
「ロゼウス様」
 まずは己の分のカップと茶菓子を避難させたフェルザードが口を開く。
「窓から入るのは御行儀が悪いですよ?」
「……その前にここは五階だと突っ込んでくださいよ」
 エチエンヌがいないとこの集団はひたすらボケにボケ倒して進む。
「ああ、悪かった。ただちょっとゼイルの腕前を見たくてな。やれやれ、一日に二度もじゃがいもの箱に世話になるとは」
 ロゼウスはまた厨房に隠れていたらしい。あれだけいもと仲良くするのなら、もう彼の食事にじゃがいもは出してはいけないかもしれない。彼らは皇帝の恩人で親友だ。
「あとはルルティスから避難……」
 そしてここにきてようやく、ロゼウスは同じ室内にルルティスがいることに気付いた。
「誰から避難ですか、皇帝陛下」
 ルルティスは笑顔だ。
「あ、あはははは、あは」
 ロゼウスも(引きつった)笑顔だ。
「それはそうと、エチエンヌ。お前、何かゼイルに見覚えないか?」
 おもむろに懐からメモ帳を取り出すルルティスから強いて視線をそらし、ロゼウスはエチエンヌに話しかけた。今回は内容的に彼も気にならないところではなかったので、エチエンヌが話運びに乗る。
「お前も? 僕もなんだか、あの人どこかで見覚えあるような気がするんだけど」
「ローラとリチャードは?」
「いいえ。全然」
「存じ上げません」
「俺とエチエンヌだけか? フェザーは?」
「心当たりはございません」
「うーん……」
 ロゼウスが指を顎にあてて考え込む。
「気のせいにしてはなんだか……どこかで見たような気がするんだが」
「知りあいというわけではないよな? それなら忘れないし」
「「うーん」」
 どうやらゼイルに心当たりがあるのはロゼウスとエチエンヌの二人だけのようで、しかも双方記憶が朧げらしく、いっこうに話が進まない。
「でもあの方、フェザー様にも反応してらしたわよね」
 短い対面の間も鋭く相手を観察していたらしきローラが言を添える。
「反応、くらいは誰だってするだろう。エヴェルシードの第一王子は有名だ」
「……それもそうですね。問題は良い反応か、悪い反応か」
「興味本位か、それとも理由あってか」
「なんですか? ゼイルさんがどうかしたんですか?」
 話についていけていないルルティスが小首を傾げてきょとんとしている。
 そのような仕草は小動物然としているのだが、どうにもこの学者先生はいったん火がつくと誰にも有無を言わせぬ迫力がある。目が話せ話せと訴えている。
「ゼイルのこと、どこかで見たような気がすると言う話。でもどこで見たのだか思い出せなくて」
「ああ、それで皆様方にお心当たりを?」
「そうだ。聞いているんだが……」
 ふむ、とルルティスが一度天井を仰いだ。
「ゼイルさんて、もともとシャーウッド伯爵の部下じゃないらしいですよ」
 メモをぱらぱらとめくりながらルルティスが知っている限りのゼイルについての情報を読み上げる。
「えっと、もともと別の貴族に仕えていたらしいんですけど、その貴族から暇を出されてしまって、シャーウッド伯の厄介になることに決めたと。剣の腕はもちろん、学者としても優秀な方で、そこから皇帝陛下付きの騎士にも慣れるだろうとシャーウッド伯が盛りたててくださったので今回皇帝領に来たとのことです」
「そう言えばお前がそうやってゼイルに話しかけ始めたときに俺は逃げ出したんだったな……」
 ルルティスの調査趣味もたまには役に立つ。しかしロゼウスはどこか遠い目をしていた。
「それでですね、ここからは私が個人的に感じたことなのですけれど」
 滔々とした説明を一度きり、前置きしてルルティスが改めて口を開く。
「ゼイルさんって、解雇された前の御主人様のこと、まだとても好きなんじゃないでしょうか」
「学者先生?」
 室内の注目もものともせず、ルルティスは己が感じたところを率直に述べていく。
「話をしているときに何だか、そんな感じがしたんです。前の御主人様って言っても、シャーウッド伯のことではありませんよ。その更に前、ゼイルさんが元々仕えていた主人の方です」
 ゼイルの経歴は今、ロゼウスがジャスパーにより詳しい身上を調べさせているところだ。
「ゼイルさん、態度こそ慇懃なんですけれど、ここにいらっしゃる皆さんのように皇帝陛下が好きで好きで仕方がないから傍に仕えたいという感じではないんですよね」
「いや、僕らもこいつが好きで好きで仕方ないから仕えてるわけじゃないんだけど」
「それでですね!」
「聞いちゃいないよこの学者……」
「私は陛下が大好きですよ、愛人ですし」
「聞きたくもありません殿下……」
 それはともかく、とルルティスは告げた。
「シャーウッド伯のことを聞いてもお世話になりましたとだけ答える一点張りで、なんだか説明に中身がないんです。陛下に対しても特にお近づきになりたい熱意が見えませんし、かといってあの人が名誉を求めているという感じもさっぱりしません」
「それは俺も、初対面で自己紹介されたときに思ったな」
 ロゼウスに対し、ゼイルは自分は名誉を求めて皇帝領に来たとはっきり口にした。しかし彼の様子はとてもそう手柄を欲しているようには見えない。
「それに比べて元の御主人様の話はですね、話自体はあんまりしてくれませんけれど、短い説明の中での言葉選びや眼差しがふっと優しくなるんです。不当に解雇された、って説明では言っていたはずなのに、どうしてでしょうね?」
 またしても首を傾げながら、ルルティスは疑問形で文章を締めた。
「ふぅん、元の主人、ねぇ……」
 ロゼウスも足を組みながら考え込む。シャーウッド伯から書類として提出されたゼイルの経歴は確かに奇抜なものだった。カウナードでも随一の剣の使い手でおまけに学者ともなれば当然だろう。
 しかしロゼウスにはゼイルという男の気配のおかしさは、それだけではないように感じられるのだ。
「まぁ、剣士で学者だなんて、そうそういない。調べればすぐにわかることか……」
「でも、気になるなぁ。なんで僕とロゼウスだけしかあの人に対する覚えがないんだろう?」
 一同は再びこぞって首を傾げた。
「まあ、記憶と言うものは下手に探ろうとすればするほどするりと逃げて行ってしまうものですよ? それよりも今はお茶にしましょう」
 先程ルルティスが盛大に汚したテーブルを綺麗に片づけたリチャードが、改めてお茶の支度をする。これまで彼がほとんど口を開かなかったのは、この準備のためだったようだ。
「リチャード、俺は薔薇水入れてね」
「はいはい。そう仰ると思ってすでに準備しておりますよ」
「ありがと」
 専用のお茶を受け取って、ロゼウスが目を細める。喉を潤してようやく一息……といきたいところだったのが、じーっとこちらを見つめる眼差しに気付いて視線をあげる羽目になった。
「な、何? ルルティス」
 まだ彼がやってきて一か月しか経っていないというのにこれまでのあれやこれやを思い出してどうしても引け腰になるロゼウス。最強の皇帝を他意なくビビらせることのできる男は尋ねた。
「そう言えば陛下って、ローゼンティア人なんですよね?」
「ああ、そうだけど。というよりも今更その問いなのか?」
 薔薇の皇帝ロゼウスが吸血鬼の国ローゼンティア出身だということは有名だ。白い髪白い肌に尖った耳、瞳だけが紅玉のように紅いローゼンティア人の容姿は世界中でも特徴的で、滅多に他の民族と間違われるようなことはない。強いて言うならば一族の純潔を可能な限り保つという掟を無視してロゼウスとローラの間に生まれた娘、アルジャンティアがローゼンティア人とシルヴァーニ人両民族の特徴を備えて生まれてきたくらいだ。
 人種のことなど初対面から一ヶ月も経ってから確認するようなことではないと思うのだが、何故かルルティスはそう言いだした。
「それで、確かジャスパー様もローゼンティア人ですよね。あの方は陛下の選定者で、弟君なんですよね」
「ああ、そうだ」
 今はこの部屋にいないジャスパーのことも確認して、ここからが本題だとルルティスがもう一度口を開く。カチリ、と小さな音を立ててカップが手元のソーサーに戻された。
「そこまではいいんです。皇帝陛下と選定者閣下は御兄弟で同じローゼンティア人。でも」
 ルルティスはぐるりと室内を見渡す。同じテーブルに着いた一同の顔を確かめた。
「リチャード様とフェルザード殿下はエヴェルシード人ですよね? そしてローラ様とエチエンヌ様がシルヴァーニ人。……新入りの騎士候補であるゼイルさんがカウナード人であることはともかく、殿下以外の皆さんは四千年前からのお知り合いですよね? そもそもこれだけばらばらな人種の方々がどうやって知り合ったんですか?」
 ルルティスは首を傾げる。
「そう言えば、私もその辺りのことは詳しく聞いたことはないなぁ」
 ルルティスよりは断然長く、十年も皇帝領に馴染みのあるフェルザードまでもがその話題に乗ってくる。
「なんでエチエンヌたちが陛下に仕えることになったかの経緯は聞いたけれど、その前の段階もちょっと変わってるよね? きっかけのきっかけ、ってなんだったの?」
「きっかけのきっかけ……そう言えばこの辺りはフェザー様にもお話していなかったんでしたっけ」
 フェルザードは愛人の実力ということで、ロゼウスから四千年前のこともだいたい聞かされている。エチエンヌたち三人がもとはロゼウスではなく別の人物の部下で、その人物の代わりに今はロゼウスが彼らを引き継いでいるということまでは聞かされたが、その人物もまたエヴェルシード人だ。
 つまりはエヴェルシード人であるリチャードならともかく、シルヴァーニ人であるエチエンヌとローラの双子がそもそもエヴェルシード人である主人に仕えていた訳までは知らないのだ。
 そして今現在そんな事情をさっぱり知らないルルティスからしてみれば、そもそもローゼンティア人であるロゼウスの従者がエヴェルシード人とシルヴァーニ人であるのかが不思議なのである。強いてあげるならローゼンティアとエヴェルシードは隣の国という関係だが、だとしてもやはりエチエンヌたちのことが説明つかない。
 ローゼンティアは閉鎖的で有名なのだ。民族間の交流がはるかに活発になった現在でも、ほとんど国内に他国人を入れない。
「そこはエチエンヌたちが答えるべきところでしょうね」
「え? また僕に丸投げですか!?」
 ぶつぶつ言いながらも、エチエンヌが説明を始めた。
「簡単に言えば、昔昔、僕らは御主人様であるエヴェルシード人である《あの方》に買われた、というよりもらわれたわけです。つまり僕らは」
「奴隷だったのよ。それも、玩具奴隷」
 エチエンヌの言葉の後をローラが引き継ぐ。
「え?」
「奴隷……」
 ルルティスは固まり、フェルザードの表情は微かに険しくなる。
「こういうことはむしろ、ルルティス、お前の専門分野じゃないか? 歴史学者さん、四千年前って、どんな時代だったかわかる?」
 ロゼウスの問いには反射的にルルティスが答える。
「はい、ええと。陛下の前、三十二代デメテル皇帝の御代ですね? このデメテル帝には選定者の皮膚を切り取って挿げ変えたなどという逸話も伝えられておりますが、治世自体は悪くなかったと言います。争いが起きたのはそれこそデメテル帝の晩年にシュルト大陸で戦争が二つ起きたくらいで、それ以前は安定した治世だったと……何か間違っていますか?」
「いや、正しいよ。凄いな、俺たちのように実際にその時代その時代を経験してきたならともかく、書物で見ただけの事柄をそんなにすらすらと列挙できるなんて。でも、所詮は他人の知識だから大事なものが欠けている」
「安定しているから、腐敗していないというわけではなかったですからね」
 エヴェルシード人であるリチャードがしみじみと言った。普段から寡黙な彼にしては珍しく、四千年前の実情を語る。
「デメテル帝の御代は、確かに帝国全体的に見れば安定している方でした。けれど、戦争がないから平和な時代だというのは確かではありません。その頃のシルヴァーニの状況と言うのはご存じですか?」
「ええと……そう言えばシルヴァーニは大規模な飢饉に見舞われて以来貧困が続いていたのでしたっけ。確かロゼウス陛下が即して二年目に入る頃には、主にシルヴァーニの貧困対策に力を注いでいましたよね? そうか……」
「そうですよ、学者先生」
「私たち二人は家が貧しくて、だから人買いに買われて、貴族に売り飛ばされたの。最初は国内の貴族に、そしてその後、エヴェルシードの貴族に」
 四千年間の間にロゼウスは交通を整備したし、新たな機械技術というものが発展し、今では列車が二大陸それぞれを走っている。
 けれどローラたちがエヴェルシードに来る前の時代には、そんな便利な移動手段はなかった。
 玩具として売り飛ばされる。そう分かっているのに強制的に歩かされた、いくつもの国を通る長い道。それは絶望の道のりだった。
 だからこそ双子たちにとって、自分をその境遇から解放してくれた主人が愛しい。
「そこでロゼウス様に出会ったのですか?」
 先走るルルティスに、双子は揃って嫌そうな顔を見せる。
「あれ?」
「……もう一つ、歴史を語ろうか、ルルティス。今度は私にも直接関わることだ」
 そしてロゼウスが口を開く。
「デメテル帝の晩年、戦争を起こした国があると言ったな。その国の名はエヴェルシード」
 カチャ、とフェルザードがカップをソーサーに下ろす。
「エヴェルシードが侵略した最初の国が、ローゼンティアだ。私は捕虜として、エヴェルシードに連れて行かれた」
「それでエヴェルシードと縁が?」
「ああ。私をエヴェルシードに連れてきた相手が、一人の青年を侍従とした傍に控えさせ、自らの居城に双子のシルヴァーニ人を侍らせていた」
「その方は、僕たちを持ち主の貴族から助けて下さったんです」
 それでようやくルルティスにも事情が呑み込めた。
「ええと、ロゼウス帝を捕虜にした相手が、リチャード様の主人でありエチエンヌ様たちを助けた相手でもあるということですね。それに、今皇帝陛下が皆様と一緒にいることを考えれば……」
 ルルティスが邪気のない笑顔を浮かべる。

「よほど良い方だったんですね」

「「「「……」」」」

「……そこは沈黙するところなんですか」
 思わず、四人は過去を振り返ってしまった。自分たちは好きだったが、彼は良い人というような人種だったろうか。
「いや、良い人じゃなかったし全然」
「え?」
「まぁ……結構いろいろやってましたわね」
「あれ?」
「喧嘩上等実力主義、欲しい者は拳で奪い取れ! がモットーでした」
「ええ?」
「そう言えば私が知っている分には、父親が謀反の計画をしているのを報告しなかった貴族の娘が命乞いするのを、貴様も同罪だと笑いながら首刎ねていましたねぇ。あの方が十四歳くらいのことですが」
「あれ――ッ?!」
 彼らは正直だった。とっても。
「……」
 ちなみにフェルザードはすでにこの十年の間にロゼウスたちからほとんど真実を教えてもらっている。そのためロゼウスたちがまだルルティスに明かしていないその「彼」の名も知っていた。
 シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。第三五八代国王だった男。けれど彼は史実の上では悪名だけを残す王であった。
 彼をただの悪人として見てもらいたくはないから、ルルティスに対してはまだ名前を教えないのだろう。歴史学者である彼ならば、名さえ聞けばすぐにそれが悪名高いシェリダン王だと気づくはず。
「まぁ、なんにせよその方のせいで皇帝陛下が極度のエヴェルシード人マニアになったことだけは確かでしょうね」
 なのでフェルザードは話をそらしてみた。助け舟のつもりなのか嫌味なのか、結構ろくでもない方向に。
「マニア……そう言えば陛下は、特にエヴェルシード人の愛人を多く持つことで有名ですよね」
「オイ」
「ええ、今も私がおりますし」 
 男皇帝に対する男の愛人だと、恥ずかしがる様子もなく堂々とフェルザードは名乗る。
 ついでにそれを聞くルルティスの方も恥ずかしがったり困ったりするそぶりはない。嫌悪感もないようだが、その瞳のきらきらっぷりを見てしまうといっそ聞かなかったことにしてくれ、ともロゼウスは思った。
「でも困っていることもあるんですよね。王位継承権の譲位が上手くいかなくて」
「そう言えば、ゼファー王子はお元気ですか?」
 エチエンヌの問いに、また新しい名前が出てきたぞ、とルルティスは心にとめた。これまでの話の流れからすれば、それはフェルザード王子の弟、ゼファード王子のことに違いない。
「私もあの子とはしばらく会ってないからなぁ……。知っているかな? ランシェット、君と同い年の子なんだけど」
「あ、はい。存じております。エヴェルシードの暫定王太子のゼファード第二王子殿下ですね」
 フェルザードの噂とセットで、彼のことは有名だった。兄が譲ると言う玉座を嫌って家出中ということで。
「そうそう、あの子はあの子で暗黒魔導師になるってきかなくてね」
 また衝撃的な単語が出てきた気がする。
「私がどうしても陛下のお傍に行きたいと無理を言ったものだから、あの子に王位を継いでもらおうと思ったんだけど、逃げられてしまってね」
 ゼファードの気持ちはわからないでもない、と一同は思った。
「地位なんて面倒なものだね。王族となるとそんなものに縛られてしまっていけない。もちろん皇帝陛下もだけれど」
「でもフェザー様、王子じゃなかったらロゼウスの傍には来られなかったんじゃあ」
「私がそんな大人しい人間だと思いますか? エチエンヌ。たとえ平民だろうと奴隷だろうと、私が私である限りどんな手を使ってでも陛下のお傍に馳せ参じたに決まっているだろう?」
「……ですよね」
「エヴェルシードは代々子種が少なくて有名な家系なんだ。ゼファードが王位を継いでくれなかったら始皇帝による建国から七千年の歴史を持つエヴェルシードも滅亡かなぁ」
「恐ろしいことをさらっと言わないでください、フェザー様」
 でも現状ではその危機がシャレにならない。
「エヴェルシードが綱渡りなのはまぁいつものことだしな。なんとかなるさ。というか、なんとかするさ。いざとなればゼファードにあれして……」
 ゼファード=スラニエルゼ=エヴェルシード。ルルティスにとっては顔もまだ知らない彼の危機が今ここに始まっていることを感じた。
「まぁ……何というか、大変なんですね、皆様」
「まぁ一応王子と皇帝だからな」
「大貴族とか王族とかって民から血税吸い上げて贅沢三昧のイメージが抜けなかったりしますけど、結構そんなことありませんよね」
「それは……いや、そんなこともない……と、思うぞ? ルルティス」
 ルルティスは貴族に酷い目に遭わされていた過去がある。それを知っているロゼウスは何とか話をそらそうとした。おかげでかなり胡乱な台詞となったが、周囲は特に気にする様子もない。
「そうですか? でも僕は自由な平民だからかな、何だか大変そうに見えますよ。臣下の身でこう言うのもなんですが、責任とか義務とか、そういうのって重くはないんですか? 陛下」
「……それは」
 ロゼウスが何事かを答えようとしたその時。
「失礼いたします」
「どうした? 何かあったのか?」
 部屋の扉が礼儀正しくノックされ、ゼイルが中に入ってきた。
「あ、やべ」
「お待ちください陛下、今回の用件は陛下にではございません。ランシェット殿です」
「はい? 私ですか?」
 ロゼウスを見つめて渋い顔になるゼイルはしかし皇帝ではなく、押しかけ学者に声をかけた。そのまますっと身体を横にずらした。
 チェスアトール人の、青ざめた少年が姿を現す。
「ルルティス……」
「ま、マンフレート君!? どうして君がここに!?」
 そこにいたのは、ルルティスが皇帝領に来る前、世話になっていた家の子であるマンフレートだった。彼の家庭教師として勉強を教えることが、ルルティスの仕事だった。
「あー、確かルルティスが世話になっていた家の息子……だったか?」
 ちなみにマンフレートが青ざめているのは、怒りのためだ。
「この……っ、連絡の一つくらい寄越せよ! この馬鹿!」
 一応は「先生」であったはずのルルティスを堂々と罵倒し、マンフレートはかつての恩師に詰め寄る。
「とにかく、こんなところにお前をいさせるわけにはいかない。俺と一緒にチェスアトールに帰るぞ!」
「え、ちょ、待ってよマンフレート君、僕まだここで……」
「それでは皆さん、短い間でしたがルルティスがお世話になりました!!」
 ルルティスの言葉を遮って叫ぶと、マンフレートは来た時同様嵐のような勢いで部屋を去っていった。残された面々は呆気にとられるしかない。

 ルルティス=ランシェット。皇帝領滞在一か月にて強制送還――。

「……なぁ、自由って、なんだ?」
「とりあえず、学者先生が持ってないものだろ」
 今現在ルルティスほど自由と無縁な人間はいない。