薔薇の皇帝 04

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 一面の金砂に世界が埋もれている。その中で空だけが眩しい程に青かった。日差しを受けて地上は強く金に輝き、青空は抜けるほどに深い。目が潰れそうなほど、鮮やかな光景だ。
「水乞いの旅?」
 砂漠で一人のカウナード人の少女を拾った彼は、そう尋ね返していた。死の砂漠と呼ばれる難所で死にかけていた彼女を介抱し、その口から聞き出した目的がそれである。
「ええ、そうなの。私たちの村にはもう水がまったくないの。だから水の国として知られ豊富な水源のあるセレナディウスに援助を求める旅に」
「目的はわかったけれど、どうして君なんだ? いくらその村の権力者の娘と言っても、女の子の……いや、こんな砂漠の一人旅は男でも女でも危ないよ?」
 真剣に問いかけたのに、少女はおかしそうに笑った。
「変なの。あなただって、私に出会わなければ一人旅だったじゃない」
「俺はいいんだよ。人間じゃないからね。でも君は人間だろう? ……それとも仲間とはぐれたのか? なら探してあげようか?」
 思いついて彼が更に問いかけると、少女は首を横に振った。
「仲間はいないわ。私は最初から一人旅よ。そうね……村でも最初は何人かの人間で組んで使節を送りだしていたのよ。でも誰一人無事に砂漠を越えられず、帰ってくることはなかった」
 砂漠の中の国とはいえ国土のはずれにある村ならばオアシスのある中央の都に行くよりは隣国を頼った方が早いだろうと。何度かセレナディウスに打診しようとしたのだが、試みは一度も成功しなかった。
「死の砂漠を越えるのが大変なんだね。王都には本当に向かわないの?」
「……今はカウナードはどこも大変だし、うちの村はうちの村で特殊な事情もあるから」
 少女は緩やかに首を振ると、更に自分の話をし始める。
「古い迷信があるの。若い娘が死の砂漠を越えれば、その願いは神に届くのですって。それも、必ず一人旅じゃないといけないの。だから今回は私が来たのよ。そして私が死ねば、もう水乞いは諦めるしかないわ」
 これ以上村人を犠牲にしないために、長の娘は自分が旅に出ることを決めたのだと。
「数年前にようやく後継ぎの弟もできたし、そろそろ頃合いなのよ。私がいなくても大丈夫。それよりも今必要なのは、水よ」
「だからセレナディウスに頼るんだね」
「そう」
 彼女をカウナードの隣国、セレナディウスまで送り届けた。
 黄金の日差しに焼かれた褐色の肌、陽光と同じ金色の髪に、オアシスの水を掬ったような青い瞳。
「カウナードとローゼンティアは相性が悪いと言うけれど、あなたのおかげで、私はローゼンティア人も好きになれそうよ」
 最後に固く握手を交わして、国境を過ぎ砂漠を抜けたところで別れた。
「そういえば、悪名高くていろいろと有名な皇帝陛下もローゼンティア人だって言うわよね? もしもセレナディウスで失敗したら、今度こそ皇帝領に頼ろうかしら?」
 笑みながら冗談混じりに言った娘に、最後に封書を手渡す。
「これは?」
「ちょっとした手助け。もしも本当にセレナディウスで困ったら、偉い人にこれを見せればなんとかなると思うよ」
 白い封筒に紅の封蝋。その紋章は薔薇模様で、見る者が見ればすぐに誰の印章だかわかる。
「こんなにいろいろと、本当にありがとう」
 手を振って別れた娘の笑顔が記憶にある最後。彼女がその後どうなったのかは、彼は知らない。

 ◆◆◆◆◆

 仕方がないじゃないか。
 人はだいたいそう言うのだ。
 だってあなたは不死の皇帝なんだろう? おまけに不老だ。並の人間たちと同じ時間の中でなど、生きられるわけがない。
 一度顔を合わせただけの人間だが、気に入ったのでまた会いに三十年後同じ場所を訪れたらもう亡くなっていたなんてよくあること。
 仕方ないじゃないか。誰もあなたほど長くは生きられない。あなたのように、止まった時間の中で生きられない。
 脆い人間は天寿でなくともいつ死ぬかわかったものではない。皇帝として優れた実績を残すたびにその在位は延び、周りの人々は彼を置いていく。
 仕方がないじゃないか。
 生き物はいつか必ず死ぬのだから。
 早いか遅いか、ただそれだけの違い。ずっと一緒になんていられるわけがない。
 けれど一度でも顔を合わせた者が危険な目に遭っていると知れば、心は昔と変わらずに痛む。顔も知らない者であっても、苦労していると聞けば食事が胸につかえる。
 ましてや親しい者が行方不明と聞けば、夜も眠れない。
「……陛下、陛下」
 繰り返される呼びかけに、ようやくロゼウスは我に帰った。
「――……あ、ああ。何? ゼイル」
 書類にペンを走らせる手を止めて呆けていたロゼウスを見かねて声をかけたゼイル。ようやっと返事をした彼を見つめて、青い瞳にさざなみのように何かの感情が映った。しかしそれがどんな感情なのかは、付き合いの短いロゼウスには読み切れない。
「いえ、お疲れのようでしたので、一息入れませんか? と」
 ルルティス誘拐の報が入ってから、ロゼウスはどことなくぼんやりとしていることが多い。エチエンヌとフェルザードという信頼できる二人を捜索に向かわせたが、それでも自分自身が動けないことにもどかしい思いはある。
 お目付役のリチャードはとりあえずロゼウスを執務室に落ち込んで仕事を与えたが、どうにもはかどらないようだった。もともとリチャード自身この機に仕事をさせるというよりはロゼウスの気を紛らわすために大量の書類を用意したようなものなので、それでロゼウスがいつものように叱られるということはない。むしろリチャードはロゼウスのことをゼイルに任せて以来、自身もルルティスに関する情報を集めるために動き回っている。
 執務室はいつも通り、宮殿の中も落ち着いていてこの部屋までは何の音も届かない。皇帝領は平和そのものなのだが却って落ち着かないらしく、ロゼウスは何度も手を止めては窓の外の曇り空を眺めている。白い雪を零し続ける薄曇りの空は余計人の心を陰気にさせる。
 気を抜くと溜息ばかり零すロゼウスの様子を見かねてか、ゼイルが休憩を持ちかけたのはちょうど昼頃の手すきの時間だった。使用人たちは昼食を取りに出る時間だが、ロゼウスは本日は食事を断っている。
 給仕の人間を呼ばず、続き部屋に籠って彼自らが深い緑色の液体を用意した。繊細な模様の描かれたカップに注がれたその色だけ見ると、まるで毒のようだが香り自体は清々しい。
「先日お約束した薬湯です、どうぞ。気分が落ち着きますよ」
「ああ。ありがとう」
 まずは主人の意向を確かめた前回と違い、今度はゼイルも問答無用で薬湯を作りロゼウスを差し出した。過去の事情から《食に関する禁忌》が多いロゼウスだが、薬草だけを煎じたお茶ならばそう抵抗もなく飲める。
 このような形で勧められたものを断れるはずもなく、ロゼウスは薬湯を口に含んだ。はじめこそ舌先に違和感を覚えたが、薬臭さも一度慣れてしまえば気にならない。
「ふぅ……」
 見た目からすると苦そうだがそんなこともなく、深い緑色の液体はすっと喉を通った。花のような風味が広がり、それだけで気持ちを落ち着ける。
「お味はいかがですか?」
「うん、おいしい。ありがとう」
「それなら良かったです」
 二口目を嚥下して、ロゼウスはようやく弱々しいながらもゼイルに笑顔を向けた。
「ランシェット殿が心配なのはわかりますが、今から無理をしていては陛下の方が倒れてしまいますよ」
「そうだな……リチャードにも、ローラにもそう言われたんだった。気をつけるよ」
 正しくはリチャードの場合「そんな顔をしていると戻ってきた博士に嬉々として話をねだられても逃げ切れませんよ」、ローラには「学者先生は絶対無事なんですからあなたがそんな顔をなさってはむしろ後で笑い者になるだけです」と素っ気なく言いきられたのだがそこは置いておこう。
「でも、本当にルルティス大丈夫かな」
 いくら性格が強烈で多少の武術の心得があるとはいえ、ルルティス=ランシェットはただの十五歳の少年なのだ。彼の身を案じるロゼウスだが、意外にもゼイルがこんなことを言った。
「それなのですが、陛下。私もランシェット殿なら大体のことなら切り抜けられるでしょうし、大丈夫だと思いますよ」
「お前までそんな風に言うのか?」
 リチャードやローラたちがここ一カ月のルルティスの行動を見て、なんとなく「あの人は殺して死にそうにない」と判断するならばわかるが、一日二日顔を合わせたゼイルまでそんなことを言い出したのでロゼウスは目を丸くする。
「はい。得意分野は違えど同じ学者という立場からすれば察するところもありまして。特にランシェット殿は《チェスアトールの奇才》として有名ですし」
「でもそれは頭の良さの話だろう? いくら頭が良くても、どうにもならない時ってのはないか?」
「ただの書類仕事、文献検索しかしない完全に知的労働専門の学者ならそういう者もおりますね。けれど確か、かの有名な鬼才の少年は、歴史探索と称して各地の遺跡に潜り込んで発掘作業という単位をとっていたはずですよ」
「発掘……」
 ロゼウスの想像の中で作業服に鉢巻きでつるはしを握っているルルティスの姿が描かれた。似合わない。そして何か間違っている。
「……別に工事現場のように岩山を掘り進んだわけではありませんよ?」
 心でも読んだのか、ゼイルのそんなツッコミが入る。
「歴史学者は所謂考古学者と単位が共通していることが多いですからね。皇帝領を訪れたランシェット殿の目的を聞けば現代の歴史が専門のようですが、これまでに確実に遺跡の二つや三つに潜って魔物退治や罠解除、何もないように見える場所での逃亡ルート発見などあらゆる場所での生存技術を持っているはずです」
「そ、そうか……」
 最初に皇帝として学会を成立させたのは他でもないロゼウス自身だが、ある程度軌道に乗ったところで手を離して早千年以上、何が何だか凄いことになっているようだ。
「真に知識をつけるのであれば、実地訓練が一番です。かくいう私も貴重な薬草の採取に未開の土地で猛獣と戦うなどして腕を鍛えました。学者というのは、下手をすればそこらの軍人や傭兵にもひけをとらない戦闘力を持っているものです」
 薬学の知識と剣の腕を持つゼイルは学者としては異端なのではなく、むしろこのぐらいが当たり前のようだった。文武両道という言葉は確かにあるが、それを正しく実践しているとは奥が深い。
「だから、きっとランシェット殿も大丈夫ですよ。逆に相手が権力を持ちだしてきた時などは、陛下のご威光が彼を守るでしょう。彼に隙はありません」
「ルルティスが簡単に俺の名をあてにするようなことはないだろうけど……でも、そうだな。威嚇ぐらいには使えるか。ありがとう、ゼイル。そう考えたら大分気分も楽になったよ」
 人は脆く、呆気ない程簡単に死んでしまう。いつ何があるかわからない。
 自分が人の生きる時間から外れた生き物であればなおさらそう感じる。けれどやはり、別れは辛い。どうせ自分より早く死ぬ相手だとわかっていても、親しい者が傷つけば胸は痛む。
 しかし今、ゼイルの言葉を聞いて少しだけ落ち着いた。温めの薬湯を口に運んで、深く息をつく。
「ですが……そう考えるとランシェット殿を攫った犯人の思惑が気になりますね。学者だと知っていて何かの目的で攫ったのか、それともランシェット殿自身に何か理由があるのか」
「理由……」
 とは言っても、ロゼウスが知る限りのルルティスの話では、彼と関わりがあるのは皇帝領にまで迎えに来た元教え子のマンフレートぐらいだ。ゼイル自身はルルティスのことをほとんど何も知らない。
「学者関係、あるいはフィルメリアとチェスアトールの関係だとしたら後でより詳しい調査が必要だな。でも……そう言えばルルティス自身が理由とも限らないんだったな。マンフレートなる少年が一緒なわけだし」
「けれどよほど高位の貴族でもなければ、わざわざフィルメリアでかどわかしに遭う理由がわかりません。中程度以下の資産家を身代金目的で攫うにも手間を考えれば、チェスアトールとフィルメリアは遠すぎる」
「だよな。別の大陸でも船で行くビリジオラート辺りの方がいっそ近いくらいだし」
 ルルティスに関してはまだ彼らが知らない何かがあるのだろうか。そう言えばロゼウスもルルティスの全てについて聞いたわけではない。
 もっとも、人の過去など付き合う上で支障がなければわざわざ根掘り葉掘り聞く必要もないのだが。
 ロゼウス自身にも、生半な相手には話せない過去がある。大抵の相手には最後まで話すつもりはない。聞かれても困る。そんな過去が。
 また一口薬湯を口に含む。青臭い草の香りと共に、舌先が小さく痺れる。
 カチャ、とロゼウスの持つカップが受け皿に触れる音だけが微かに響く部屋の中、ゼイルが再び口を開いた。
「それでも……単なる盗賊や人攫いに遭ったというのではなくランシェット殿が何か陰謀めいたことに巻き込まれているのだとしたら……貴族の方々にはもしかしたら、私のような一般人には思いつかないような深い事情があるのかもしれません」
 そう口にするゼイルはこの部屋の中ではなく、どこか遠い場所へと思いを馳せているように見えた。ルルティスを案じるのとは別の部分で、何か彼の琴線に引っかかるものがあったのだろうか。
「ゼイル……そう言えば、お前の主、シャーウッド伯じゃない方の前の主は、貴族だったんだよな。お前が良ければ、話を聞かせてくれないか?」
「私の主の話……ですか。そうですね……」
 一瞬、記憶を手繰り寄せるような眼差しを部屋の隅に投げて、ゼイルはかつての主のことをロゼウスに語っていく。
「私の主は……あの方も深い事情を持った貴族と言えばそうだったのでしょう。そもそもカウナードの貴族の形態は、他国と少し違いますから、隣国との交渉の席では苦労されることも多かったですね」
「隣国か。カウナードの隣国というと、やはりセレナディウスのことか」
「ええ、他の国とは特に親交を深める利点もありませんでしたし。セレナディウスとは定期的に水のことで外交の席を設けられていました。我が主は、その交渉の席の端に着くことが多かったのです」
「端?」
 隣国との交渉に関わったのならば外交官だろうと考えていたロゼウスは、ゼイルの発したその言葉に疑問符を浮かべた。
「ええ。外交官ではなく、将来的にその役職を期待されている方でしたので」
「父親が外交官で、息子も見習いとして働いてたってところか。ふぅん」
 役人や外交官と一口に言っても色々とあるのだが、その詳細はここでは割愛しよう。ロゼウスは別にゼイルの前の主の経歴を調べたいわけではないのだ。
「前に、仕えていた主人は穏やかな性格だったって言ってたな。そんな人に仕えていたなら、今更俺に仕えるのは辛くない?」
 前の話を聞いてからロゼウスが気になっていたことを尋ねてみると、ゼイルは控えめに微笑んだ。
「皇帝陛下は私の目からすれば十分穏やかな御気性に思えますが。それとも御自身の性格について穏やかでない自覚がおありですか?」
「あー、うん。まぁルルティスから逃げるために五階の窓伝いに隣の部屋に入ってみたり」
「先日のあれですか……あれは確かに大変でしたね」
 吸血鬼としての優れた身体能力をフル活用してルルティスから逃げ回ったロゼウスである。護衛であるはずのゼイルは巻き込まれて、護衛対象であるはずのロゼウスを一時的に見失っている。
「ですが、身体能力に優れていることや普段の行動が活発であるから穏やかでないとは言いませんよ。我が主は確かに皇帝陛下ほどの能力はお持ちではありませんでしたが、身体を動かすことは好きでした。剣を振るうのが好きで、私はよく相手をさせられました」
「へぇ」
 僅かに目を伏せたロゼウスの瞼裏に、かつて訪れたカウナードの黄金色の光景が広がる。
 抜けるような青空の下、輝く白亜の城。庶民の家々は日干し煉瓦でできていて、皆小麦色に焼けた肌をしている。
 日の光そのものの金髪を少年たちは短く切り、その端から光る汗を散らして剣を振るう。彼らと同じ色の髪を綺麗に結い上げた貴族の少女が、あるいは女性と言ってもいい年頃の姉が、弟とその子守り役の稽古風景を穏やかな眼差しで見守っている。
ゼイルの話を聞けば、そんな光景が目の前に浮かぶようだった。
 そしてその光景に宿る微かな痛みと。
「主は、普段こそ穏やかでしたが、その胸の裡に強い情熱を秘めた方でした。あの方があんなにも激しい想いを抱いていたことを、誰も、あの方のご両親も姉君も知りませんでした。私自身も」
 不意にぽつりと、ゼイルは過去を悔むように小さな呟きを零す。金の睫毛が伏せられ、吐息と共に青い瞳がさざめく。
「あの方は、恋をしました。決してかなわない恋を」
「……恋」
 かなわない、報われぬ、恋。
 その言葉に、忘れていた何処かの感覚が刺激された。ロゼウスの脳裏で、黄金色の幻想が緩やかに溶けていく。その代わりに、目の前に広がったのは青い湖だ。
 カウナードのオアシスのような青。今目の前に立つゼイルと同じ、青い瞳。
 その色を示された時、脳裏で像を結ぶ一人の少年の姿がある。だがそれは過去の幻だ。彼はもうこの世にはいないのだから。
 第一、何故彼のことを今、ゼイルの話で思い出したのだろう。あの少年は青い瞳ではあったが、水色の――セレナディウス人に独特な髪の色をしていた。
 まさか、という思いが胸に広がる。広がっては自分で打ち消す。
 ゼイルの主人はカウナード人だと言った。カウナード人は他の民族に比べてかなり特徴的な容姿をしている。褐色の肌に金の髪と青い瞳の組み合わせ。
 白い肌に水色の髪と瞳をしたセレナディウス人とは違う。
 だけど……――だけど。
 外交官となる前から、隣国との交渉の席に連れて行かれるのが当たり前だったというその主。父が外交官だったからと言って、何故その道を継ぐのが当たり前とされた?
 もしかしたら、面と向かって聞いてしまえばその事情は他愛のないものなのかもしれない。けれど一度気にしだすと止まらない。
 その主とは、まさか。
 思わず口を開きかけたロゼウスをとどめたのは、他でもないゼイルからの質問だった。
「ところで陛下、この前のことといい、こちらでは私のことをお調べになったのではないですか? 資料を見れば、私の経歴など簡単にわかりそうなものなのですが」
「え? ……ああ。そのことか」
 意気込んで口を開こうとしたところで突然話題を変えられて、ロゼウスは少し拍子抜けする。
しかしゼイルの疑問は疑問でもっともだった。ロゼウスは先日も、彼から簡単に前の主人の話を聞いたばかりだ。付き合いが短くお互いを結ぶような話題もないし、臣下としてのゼイルの動向も知りたいからこその問いなのだが、彼自身からしてみれば奇異に映ったようだ。
「私の経歴なら詳しいものが学会の方にも残っているはずですが……何か提出し忘れた書類などありますでしょうか?」
「いや、そんなことはないよ」
 普通貴族は下働き一人雇うのにも身辺調査をし、以前の勤め先について事細かに調べ上げる。良い家に仕えるのであれば、紹介状がない者を雇うことは通常ありえない。貴族としては握られたら困る秘密を、信用ならない召使いたちに知られるわけにはいかないからだ。
 ゼイルも皇帝領に来る際に己の身上は調べ上げられると覚悟していたのか、この状況に意外そうな顔をしている。シャーウッド伯の紹介とはいえ、一通りの調査もせずに新参者を皇帝の傍に置いておくなどありえるのだろうか、と。
「一応審査はあるけど、あんまり厳しくすると誰一人残らないことになっちゃうから。例え身の上を調べればいろいろ出てくる人間だからって、仕事ができないとは限らない。でもあんまり適当に集め過ぎてもなんだから、時期にもよるけど少しだけ働いてもらってその働き具合で見るってのが基本かな。ちょうど今のお前もそうだろう? 試用期間ってやつ」
 皇帝領で現在働いている人間は様々だ。親兄弟の役割を受け継いで二代目の侍女や料理人としてやってきた者もいれば、新しく雇い入れた者もいる。その中には輝かしい経歴を持つ者も、犯罪歴がある者や後ろ盾のない孤児だった者もいる。
 ロゼウスとしては、それでも彼らが「今」仕事をきちんと行ってくれれば文句はないのだ。だから過去など関係ない。
 そういう意味で言ったのだが、ゼイルは微妙とも奇妙ともつかぬ、歪んだ表情で言った。
「陛下……」
「何?」
「さしでがましくも一言申し上げたいのですが、だからと言って身上調査があまりおざなりなのもどうかと。調査をしっかりとしておけば、少なくとも今回のようにランシェット殿がどんな理由で攫われたのか見当もつかないということはなかったかと」
「……あ」
 指摘されて、ロゼウスは頭を抱えた。
「そういえばそうだよ。せめてルルティスが今までどこでどんな仕事をして誰に恨みを買っているとか調べておけばここまで手がかりなしにはならなかったよな……」
 チェスアトールの奇才はあの性格なので学院在籍時代やマンフレートの家庭教師を務める前にも各地でわんさか敵を量産している可能性もあるが、せめてそれだけでも丁寧に調べて虱潰しに探せば、今のように地道な調査から始めるというこんな状況には陥っていなかったと思われる。
「そうですね」
 ゼイルが苦笑の表情を見せた。万能とされる皇帝がこんな抜けたところを見せては、威厳も何もない。
「……それにやっぱり、野心家のシャーウッド伯など信用せず、あなた方は私に関する調査ももっと慎重になるべきだったのですよ。こんな時期につけいる隙を与えてくださったランシェット殿にも感謝しますが」
「え……?」
 それはどういう意味かと聞き返そうとしたところで、ロゼウスはぐらりと視界が揺らぐのを感じた。眩暈を感じて机の上に倒れこみそうになる身体を、手をついてかろうじて支える。
 床に落ちたカップの割れる音が、何かの警鐘のように響いた。
「何、これ……」
「そろそろ効いてきたでしょう。ヴァンピル専用の眠り薬と痺れ薬を入れた薬湯……あなたが作ったはずの学院こそが、今はあなた方ローゼンティア人の弱点をも作り出す機関になりました。私はこのために薬草学を修めたようなものです」
 夕食のメニューを読み上げるように淡々と、ゼイルは企みを語っていく。その間に、ロゼウスの方は身体から力が抜けていく。
 気力を振り絞ってゼイルの顔を見上げれば、どこか悲しげな表情の中、相変わらず青い瞳がさざめいている。その波が示すものはもう見間違いない。 
 それは墓標を見るような憐れみ。
「ゼイル……」
「十年前、あなたに恋をした我が主は、その想い報われず死にました。殺したのは、当時あなたの愛人として名乗りをあげたエヴェルシードの王子、フェルザード殿下」
 ロゼウスの中で、ようやくゼイルの思惑が見えてきた。十年前、フェルザード。それらの言葉を受けて、先程も思い出しかけた一人の少年の像が、半ば闇に埋められた眼前に結ぶ。
 水色の髪に青い瞳の少年。セレナディウス人の容姿に、けれど瞳だけはカウナードのオアシスのように青いあの少年は、まさか。
「そうそう、言い忘れておりましたが、我が主は戸籍こそカウナード人でしたが、実際はセレナディウス人とのハーフでした。そのために成長してからは両国の絆をより強く結ぶ外交官として活躍する予定でした。もっとも、それもあなたに関わったおかげで夢と消えてしまいましたが」
 カウナードよりセレナディウス人の特徴を強く引き継いだゼイルの元の主人は、かつてロゼウスを愛したがために、最終的にはフェルザードの手により殺される羽目になった男。
 その有名な事件の名を、《碧の騎士》事件と言う。
 舞台はカウナードでもセレナディウスでも皇帝領でもない別の国で、彼本人はセレナディウス人だった。だから忘れていたのだ、あの後味の悪い事件のことを、記憶の底に封じ込めて。
 一見セレナディウス人にしか見えなかった少年が実はカウナード戸籍など知らず、彼にカウナード人の従者がいたことも忘れていた。
「お前、は、そのために……」
「そうですよ」
 ロゼウスはもう限界だった。ゼイルの言葉を最後まで聞くことなく、意識が途絶えて倒れ伏す。
「私は復讐のために、シャーウッド伯を利用してあなたに近づいたのです。麗しき皇帝陛下」
 ぐったりとしたロゼウスを、ゼイルは軽々と抱き上げた。白い肌に触れる褐色の指は、「復讐」を口にした男の触れかたとは思えないほどに優しい。
 だが瞳には、変わらずに青く冷ややかな憐れみがあった。

 ◆◆◆◆◆

 リチャードたち皇帝領の人間が異変に気付いたのは実に数刻後のことだった。
「やられたわね……こんなにもあっさりと」
 ローラが厳しい顔をして、砕けた陶器の破片が転がる室内を睨みつけている。たまたま皇帝に用のあった侍女の一人が執務室を訪れなければ、事態の発覚はもう数刻、それこそ夜まで遅れたことだろう。
 扉を開け放った姿勢のまま硬直していたリチャードが、ついに限界の来た様子で叫んだ。
「だからあれほど、トラブルに巻き込まれるなと言ったのに! 一体あなたは何をやってんですか、ロゼウス様!」
 答える者のない叫びは虚しく部屋に響いていた。