薔薇の皇帝 04

021

 相変わらずルルティスはフィルメリアの貴族の別荘に閉じ込められていた。
「待たせたね。ランシェット殿」
 窓の外にも見張りの兵士が立っているが、景色を見ることくらいは自由だ。とっぷりと日も暮れて空の色も夜に変わった頃、部屋の中にルルティスを監禁したままだったシャルロが、誰かを連れて戻ってきたようだった。
扉の外には、二人以上の気配がある。もう一人をシャルロが迎えに行っていたのか、それとも向こうから来たのか。とにかくこれで話も進むのだろう。
「あなたを待ってはいませんが、ここから出ていくのはいまかいまかと一日千秋の思いで待っておりますよ。それで、なんで……す……」
 扉が開けられる瞬間を待ち、シャルロの姿が見えたところで勢いよく喋り出したルルティスだったが、その言葉が途中で力を失っていく。扉が開け放たれ、シャルロの背後から入ってきたもう一人の姿を見たからだった。
「あなたは……」
「どうも、お久しぶり。もっとも、あなたは私を覚えてはいないでしょうが」
「誰……」
 問いかけながら、頭の片隅で警鐘が鳴るのを感じていた。ざわりと、背筋が総毛立つ。
 目の前の男、二十代後半だろうシャルロと同年代の男にルルティスは見覚えなどない。
 だが、よく似た誰かを知っている。そんな気がする。
 そしてその既視感は、けっして良い記憶と結びついているわけではない。
 明るい緑の髪に榛の瞳。典型的なフィルメリア人の容貌。穏やかで知性的な人間が多いと言われるフィルメリア人の中でも、特に涼やかさを感じさせる切れ長の瞳。
「サデュケニィス=ネロア=レッセンフェル」
 シャルロが出した名前を、再びその男は口にしてみせる。けれどシャルロがその名を口にした時とは違い、ルルティスはその声音に強い負の感情が含まれていることを感じた。蔑むような響きが、目の前の男の声にはある。
 その強い負の感情は、目の前の男の顔立ちとも相まって、忘れていたはずのルルティスの記憶を刺激する。
「彼を覚えているかい? サデュケニィス、私の兄だ」
「兄……」
「そう、私はサデュケニィスの弟、ファランディス=ネロア=レッセンフェル。今は私がレッセンフェル侯爵だよ。兄の屋敷で一度、私も十年前に君に会っている。その時はさして必要なこととも思えなかったが」
 ファランディスは値踏みするようにルルティスを見下ろす。
「今なら兄の行動もわかるな。まさかこの国がこんな事態になろうとは……。もっとも、サデュケニィスに本当に先見の明があったかどうかは謎だがね。彼はお国の大事より、君自身に執着していたようだ。かわいさ余って憎まずにはいられないほどに」
 何のことだ。何のことだ?
ファランディスと名乗った目の前の男は、ルルティスのわからないことばかり言う。
「あの男は結局、せっかく攫った君を手放してしまった。誰に相談することもなく、国外の貴族に」
「レッセンフェル侯!」
 ファランディスを通してからは脇に退いていたシャルロが、耐えかねたように声を荒げる。
「いきなりそんなことを教えてしまうなんて! まだ彼の方の心の準備というものがあるだろう!」
「何を今更、偽善者面をしているのですかノイドガルテ公爵閣下。この方からしてみれば私たちはどちらも誘拐犯だ。どうせ憎まれるのだから、この際全てを教えてしまった方がいいでしょう?」
「それでも物事には順序というものがあるだろう!」
 ファランディスとシャルロのやりとりを見る限り、この二人どうやら仲良しというわけではなさそうだ。同じ目的のために手を組んだ、穏健派と急進派のそれぞれ代表者と言った感じがある。
 しかし力関係は微妙にファランディスの方が勝るのか、シャルロは言いくるめられてしまう。
「おやおや。私はむしろ、ここに至るまでの全てをこの方に思い出していただいた方が話を進めやすいと思ったのですが。ねぇ?」
「……何のことです?」
 ここで相手の雰囲気に呑まれては駄目だと、ルルティスはようやく冷静になろうと努め始める。
 けれどそれは冷静になるべきだと理性が言い聞かせているだけで、けっして現在の自分がそうであるというわけではない。きつい眼差しで目の前の男を睨みながら、声が震えないようにするので精一杯だ。
 心臓がうるさい程に鳴り響いている。
「あなたのことですよ。やはりご存じではないようですね。公爵はまだあなたに、あなたの本当の素性をお教えしていなかったのですね。では私が教えて差し上げましょう。あなたが知りたがっている全てのことをね」
 別に知りたがってなんかいない。
 言うはずだった言葉はルルティスの口から出てくることはなかった。
 先程の言から考えてそもそもの原因であろう「サデュケニィス」と無関係ではないくせに恩着せがましく、ファランディスは告げる。
「あなたはその昔、我が兄に攫われてきたのですよ。そう、あなたを両親のもとから攫い、屋敷に閉じ込めて監禁していた男。それが我が兄、サデュケニィス=ネロア=レッセンフェル」
「あ……」 
 反射的に一歩後じさろうとしたルルティスの腕を、強引にファランディスの手が掴んだ。触れられた瞬間、びくりと大きく体が震える。
「あの男はあなたに普段、なんて囁いていたのですか? 首輪で繋がれていた五歳のあなたは、本当に愛らしかった」
「ああ、」
「レッセンフェル侯爵、もうこれ以上は」
「黙っていてください。この子が一筋縄でいかないと私に教えたのはあなたですよ。どうせこの少年を擁立するつもりなら、どちらにしろ調教しなおす必要があるでしょう。そう、私たちの都合のいいように。そのために今から暴力的にいたぶるのと、過去の傷を思い出していただくのと、どちらが穏便な方法だとあなたは思うのです? まぁ、私だって兄のやったこと全てを知っているわけではありませんし、私個人に限って言えば前者でも構いませんが」
 その言葉にシャルロはこれ以上の反論を封じられた。爵位こそ公爵であるシャルロの方が上だが、二人の立場はどうやらファランディスの方が上位らしい。
「ノイドガルテ公の了承も頂いたことですし、続きをお話させていただきましょうか。ねぇ、君。覚えているだろうか? 覚えているわけないかな。あの頃はまだ小さかったのだし。あの時君は裸で――」
 小動物を嬲る残酷な子どものように榛の瞳を細めて、ファランディスが嗤う。
 その笑顔に、ルルティスの「過去」が弾けた。

 ◆◆◆◆◆

 これは夢だとわかるような夢の中で、誰かの声が響いている。
 僕はこの声を知っている? いや、知らない。知らないはずだ。
 なのにその声は、まるで影のようにどこまでも追いかけてくる。足元に絡みつく荊のように、指の股を這う蜥蜴のように。
 憎い憎いと、自分自身ではない誰かが、けれど自分でしかないはずの誰かが叫ぶ。 
“――…え、この国を、この世界を。我が名は――”
 その先の名前はいつも聞こえない。そしてそこから「僕」の夢が始まる。

 ◆◆◆◆◆

 一番古い記憶は、泣いている女の人の声だ。
 覗きこまれている体勢だが、顔は思い出せない。うろ覚えの記憶の中、響いてくる声がある。
 ――死んでおしまい! 忌々しい子!
 その腕は伸び、こちらの首を絞めてくるようだ。
 ――なんでなんで、私たちがこんな風に!……あなたがいるから! あなたさえいなければ!!
 憎悪を向けられているのに、その声に秘められた想いがあまりにも切なくて相手を恨めない。ただ、どうしてと頭の中で誰かが叫ぶのが聞こえた。
 “どうして、この人生までも――!!”
 後のことは全て闇の中だ。何日とも何カ月とも何年とも知れぬ空白の果てに、開けた先は悪夢だった。
 歪んだ執着と狂気を秘めた榛の瞳。
 ――さぁ、おいで、*******。私の可愛い子。ああ、あの方によく似ている……。
 自分に呼び掛ける相手の声はなんとなく記憶にあるのに、肝心の顔が思い出せない。のばされた手のひらが、とても大きなものに見えていた。その大きさはまったく安心をもたらさず、ただ恐怖と嫌悪を誘う。
 あれはいつだっただろう。いつのことだったろう。
 逃げたかった。逃げ出したかった。あの場所から。あの屋敷から。だからあの男に、とことん嫌われるような行動をとった。あの男って誰? 思い出せない? 顔も、名前も、彼が自分を何と呼んでいたのかも。
 ――何故私にはなつかない! メイドや従僕には良い顔をしてみせるくせに、こんなガキのくせに……!
 霞がかった記憶の中、絶望だけが鮮やかだ。
 ――悪い子には、お仕置きだよ。
 僕は知っていた。子どもならではの不思議な勘の良さで、あの男を信用してはいけないということを。計算して嫌われたのではなく、ただ怖かったから近づかなかっただけ。
 服の中に差し込んで肌を撫でる手が気持ち悪かった。顔を覗きこまれるのが怖かった。早く育ってくれよという言葉に、言い知れない嫌悪を感じた。けれどまだ幼かった頃の自分は、それらをうまく相手に伝える術を持っていない。
 だから逃げ出した。逃げ出そうとした。男の目を盗んで部屋から出ようとし、屋敷から抜け出そうとして。
 すぐに見つかり連れ戻された。後には酷い折檻が待っている。
 ――どうして逃げるんだ! 私がこんなにも愛しているのに!
 愛という言葉の意味すらわかりもしない子ども相手に、男は大仰に嘆いて見せる。いや、あの嘆きは本物だったのだろう。独りよがりだったけれども。
 ――首輪だ、首輪を持ってこい! 誰か、早くしろ! 鎖でこの子を繋ぐんだ! 早く!
 ――まったく、一体何をしていらっしゃるんですか? 兄上。レッセンフェル侯爵の名が泣きますよ?
 ――そんなものはどうでもいい!
 ――どうでもいいと言うくらいなら私が欲しいくらいですがね。
 ――*******は誰にもやらん! 私ものだ!
 ――そっちじゃありませんよ。侯爵家の方ですよ。
 二度ほど逃亡を試みた後から、あの男は狂ってしまったかのようだった。
 当時はまだ「狂う」という言葉も知らぬ子どもだ。その態度の豹変がとにかく怖くて仕方なかった。
 ――なぜ逃げるんだ? 何故私を愛してはくれない……?
 そう、ゆっくりと、段々と、記憶が蘇ってくる。
 血走った眼で男はこちらを睨みつけ、頑丈な首輪と鎖のつけられた足枷をとりつける。逃げようと暴れると、手を上げられた。
 ――ナイフを持ってこい。
 ――お館様、何を――!?
 つき従う侍従が主人の尋常ではない様子とその命令に顔色を変える。
 ――服を切るんだ。この鎖は外してはならない。しかしこのままじゃ下の世話もできないだろう。だから。
 一室に鎖で繋がれ、獣のように裸にされ。
 室温を快適に保たれようとも、芽生え始めた羞恥心が悲鳴を上げる。だが、逆らえば殴られる。
 赤く腫れた尻が痛む。隠すこともできずに体を丸めて蹲り、声を殺して泣く。
 主人の隙を見て甘やかしてくれたメイド、おいしいご飯をくれる料理人、窓の外からさりげなく気にかけてくれた庭師。誰でもいい。助けて。
 たすけてよ! ここからだして! 
 願いも虚しく、足首につけられた鎖に引き倒されて転ぶ。
 豪華な部屋も豪華な調度も、何の慰めにもならない。
 この頃にはもう両親の顔は覚えていなかった。
 代わりのように、浮かびあがってくる景色。見たこともない風景。見たこともない灰色の城の中で、蒼い髪の男に押し倒される。自分のものではないその記憶が、けれど自分自身の想いと重なって。
 “何故……“
 ――なんで。
 “どうして……私は……”
 ――なんで僕が、こんな目に。
 “もうやめてください! 父上!”
 ――たすけて、とうさま、かあさま! たすけて!
 だけど誰も応えてはくれない。
 父母への憧れや期待など、だからあの頃に捨てたのだ。
 憎い憎いと心が叫んでいる。ここではない何処か、今ではないいつかで、誰かが泣いている。
 それが自分ではない誰かなのだと気付くのに時間がかかった。見たこともない景色を、聞いたこともない言葉を、感じたはずのない感情を、まるで自分のもののように感じる。
 “――…え、この国を、この世界を。我が名は――”
 それでもときどき、身体の内側で叫ぶ声についていけなくなる。成長してからようやくわかった。あの頃の自分が理解できない程度には、胸の奥底から叫ぶ声は、「僕」よりも年上だ。
 気付かないまま、運命の時は過ぎる。
 ――どうしても私を愛してはくれないのだな、お前は。
 加害者のくせに酷く悲しそうに男は言った。
 相変わらず瞳には狂気の色を乗せたまま。
 ――ならばもう、いい。気が変わったよ。*******。
 今になっても思い出せないのは、彼が呼ぶ「僕」の名前。本当の名前。思い出したいのか思い出したくないのか。
 ――このままでは私は、君を殺してしまうだろう。
 ゆっくりと屈みこんで目線を合わせ、男が唇を重ねてくる。それが終わると、彼はこちらの足枷と首輪を外した。
 ほっとしたのも束の間、そして僕は国外の貴族に引き渡される。
 ――何をしてもいい。
 ――本当かい? ほう、これはこれは。女でこそないものの凄い上玉だな。十年後、二十年後が楽しみだ。そちらの趣味を持つ人間にはさぞや高く売れるだろうよ。そう、私のようなね。
 ――何をしてもいいが……だが、決して殺すな。殺してはいけない。
 ――ふぅん。何か事情がありそうだ。まぁ、知ったことではないけれど。
 そこからは、ただの悪夢。思い出したくもない記憶。
 ――お前が私を愛してはくれないから……。
 そんなの、僕の知ったことじゃない。僕は知らない。誰も何も一番本当のことを知りたい時に教えてはくれなかった!
 だから、だから僕は――!
 胸の内で叫ぶ誰かの想いに同調する。
 “――…え、この国を、この世界を。我が名は――”

 ◆◆◆◆◆

「いつまでも呆けないでほしいな」
 胸の悪い白昼夢から無理矢理目覚めさせられる。
「レッセンフェル!」
 頬の上で乾いた音がした。シャルロがファランディスを咎める。
 それでようやく震えが収まった。
「どうだい? 思い出したかい? 君の過去を。それとも愚かなる我が兄のことなど、全て忘れてしまったかな?」
 叩かれて熱を持ち始める顔を上げ、目の前で嗤うファランディスの顔を正面からまじまじと見つめる。
 記憶の中を思い返せば、おそらく今のファランディスは、「サデュケニィス」と言うらしい昔のあの男と同じくらいの年齢だろう。だからこそ彼をはじめて見た時にわけのわからない恐怖が込み上げてきたのだ。
 可哀想な人だ。
「……事情は、知らない。でも」
「お?」
「思い、出した。僕は……」
 僕は僕を知らない。何よりも自分の過去を知らない。過去に起きた一部の出来事を今ここで思い出せたところで、自らの本当の名も素性も両親の顔も思い出せない。
 それでも。
「それならば話が早い。ならば君は――」
 途切れた言葉がファランディスの最期の言葉となった。骨の折れる鈍い音が鼓膜に響く。
「え……? な……!?」
 驚きながらもシャルロが腰を抜かす。彼が尻もちをついた音に、ファランディスの躯が倒れた音が重なった。
 可哀想に。
 一瞬で首をへし折られた青年を見下ろしながら無感動に「僕」は――「ルルティス=ランシェット」は思う。
 彼は……ファランディスはその兄にこれほどまで似ていなかったならば、こうして殺されることはなかっただろう。そう、本当に可哀想。
 あの頃、泣いて助けを求めた子どもなどもうこの世界のどこにもいない。今彼らの目の前にいるのは、無力で哀れな、ただ泣いているだけの子どもではない。
 “――…え、この国を、この世界を。我が名は――”
 真実つけられた名前が、実の両親がどうであろうと、今この場所にいるのはルルティスと名乗る人間なのだ。その意味を彼らは理解していなかった。
 ルルティスは床に崩れたファランディスの死体の襟首を掴んで再び持ち上げると、それを引きずったまま扉の外に出る。
 室内には程よい場所がなく、扉を開けてすぐの廊下は真っ白な壁だった。
 思い切りたたきつけて割れた死体の頭部の赤が白い壁に映える。びちゃ、と重い水音がして、返り血がこちらの頬に散った。
「ひっ……き、きゃぁああああああ!!」
 たまたま通りがかったメイドがその光景を見て悲鳴をあげる。驚いた侍従たちが何人もそこかしこの部屋や廊下の奥から現れて口ぐちに叫ぶ。
「旦那様!」
「御主人様!」
 変わり果てた姿となったファランディスを見てそう口にしたところからすると、どうやらこの屋敷にいる人間は皆ファランディスの部下で、この屋敷自体そもそもシャルロではなくファランディスの持物のようだった。
 ならば余計遠慮はいらないだろう。
 “呪え”
 この感覚は何年振りだろうか。内なる声に耳を澄ます。
 “呪え、この国を、この世界を!”
 その怒りは自分の怒り、その呪詛は自分の呪詛。
 “我が名は憎悪、我が名は殺意、我が名は――”

 惨劇が始まりを告げる。