薔薇の皇帝 05

第2章 十六夜薔薇と碧の騎士 03

022

 フェルザードとエチエンヌの二人は行方不明のルルティスを捜索するため、フィルメリア王国に向かった。
 少々反則な方法で。
「それにしても便利だね。この空間転移魔法とやらは。私もいつもエヴェルシードから皇帝領まで世話になっているけれど、こんなところにも魔法陣があったなんて初耳だな」
「ええ。世界各地に最低一か所、できれば一つの国に二か所は魔法陣を用意しろと命令されてハデス卿が瀕死状態でした」
「……」
 フェルザードの言葉に、エチエンヌがしみじみと語った。
 宮殿地下の魔法陣の上で短い呪文を唱えれば、床に描かれた陣が輝きだし一瞬の後に景色が変わっていた。辺りを見回せば見事な牧草地である。フィルメリア人の髪の色と同じ、綺麗な黄緑色の草が緩やかな斜面にどこまでも広がっていて、ところどころに小さく牛やヤギの姿が見える。皇帝領と視界に映るものももちろん、風の匂いまでが違う。ここはフィルメリアだ。
皇帝は全知万能の存在ではあるが全能ではないという。その不足部分を補うために、主に魔術関係の方面でロゼウスの主な手下となっているのは先代皇帝の選定者、ハデス=レーテ卿である。
 世間的には悪名を高めながらも四千年以上帝国を治める華々しい経歴の薔薇皇帝だが、その過去には謎が多く、彼の過去を知る者は極端に少ない。三十二代大地皇帝デメテルの選定者であるハデスがいまだロゼウスに仕えていることは、帝国の秘密中の秘密である。
 ひとまずはフィルメリア王都近郊の村に置かれた魔法陣の上に移動した二人は、ルルティスの姿が見失われたという国境に向けて歩き出す。足跡を辿れば何か発見があるかも知れず、聞き込みをしようにもこんな人より山羊の数が多い地域ではろくな話は聞けやしまい。
 めぇめぇもぉもぉと鳴くヤギやヒツジや牛の声を聞きながら道を歩き、フェルザードがエチエンヌに話を振る。
「ハデス卿と言えば、表向きには《大預言者》として知られている方だね。その魔術師としての才でもって、大地皇帝をよく助けたのだとか」
 「はぁ。そんな話になっているんですか?」
「違うのかい?」
「ええ、まぁ……」
 フェルザードの口からさらりと聞かされたハデスの世評に、エチエンヌはぽかんと口を開けた。どういったものかとばかりに言葉を選ぶ様子で、歯切れ悪く語り出す。
「歴史は美しく整えると言いますが、ハデス卿の名前も一部の芸術家のように彼の『死後』に高められたと言っていいんじゃないでしょうか。少なくとも僕の知る限りでは、デメテル帝の御世にはハデス卿に対してあまり良い言われ方はされませんでしたね」
 なまじ本人を知るだけに、どう言っていいものかわからずエチエンヌの口調は胡乱なものになる。 
 一方のフェルザードは興味を隠さない様子だ。彼は皇帝領の中では相当の事情通だが、自分がハデスに直接会ったことはない、と思っている。
「そうなのか」
「ええ。あのー、そのー、えーと。あの方はその……姉であられるデメテル帝とそのー……」
「ああ。恋人関係だったそうだね」
「こ……」
「周囲に反対されながらも愛を貫く、美しい近親相姦だったそうじゃないか。それもあってデメテル帝は子どもを作ることはなかったそうだけれど」
 ヤギさん牛さんが草を食んでいるこんな長閑な景色を歩きながら、そんな生臭い話を。
「……ロゼウスが時々ハデス卿呼びつけてはネチネチいじめながら足蹴にするわけがなんとなくわかったような……」
 知らぬは仏と言うべきかそもそもフェルザードの倫理的許容範囲が恐ろしく広すぎるのか、あの二人の関係を美しいなどと言われてしまったエチエンヌはどう返答したものかわからなくなった。エチエンヌの現在の主であるロゼウスはハデスと仲が悪いが、その気持ちもなんとなくわかるエチエンヌである。
 四千年前、彼は誰かの敵だった。そして誰かの味方であった。
 いや、もしかしたら本当は誰の敵でもなかったのかもしれない。あるいは彼にとって全ての人間は敵だったのかもしれない。
 選定者でありながら自らの皇帝であるデメテルを裏切り、自らが皇帝になろうとした野心家、ハデス。しかし彼をその狂気に駆り立てたのは、確かに姉・デメテルであり、彼を取り囲む周囲の人々であったのだ。
 ロゼウスの先帝、三十二代皇帝デメテル。彼女は帝国史上初、《黒の末裔》出身の皇帝であり、その存在は世間を騒がせた。
 彼女の治世自体は悪くなかったが、《黒の末裔》出の美女皇帝は何かと話題になった。彼女に求婚して振られ、一生を独身で過ごした王侯貴族の話も有名だが、それ以上に人々の耳目を集める興味の的となったのは、彼女と弟であるハデスとの愛人関係である。
 「選定者である弟を愛人にした」、ここまで聞けばロゼウスとジャスパーの関係と同じように聞こえる。しかし問題はハデスが、デメテルの真の選定者ではないことにある。
 デメテルは父親に虐待されて育った娘で、両親を恨んでいた。彼女が皇帝に選ばれた際、それを示す印、選定紋章印は彼女の父親の腕に出た。一般に皇帝となる者は次の皇帝が現れるまで人の本来定められた寿命を超えて帝国を治めることになる。よほど激動の時代でもない限り皇帝の治世は一代百年を超えるのが普通で、その間、皇帝が家族と認めた周囲の人間も含めて不老不死となる。そう、ちょうど今現在、ロゼウスに従っているエチエンヌが少年の頃のままの姿を四千年間保っているように。
 デメテルの両親は、娘が皇帝に選ばれたと知り、自分たちが皇族として不老不死になれることを喜んだ。いつも娘を殴っておきながら、自分たちが彼女のおこぼれに預かって不老不死になれると信じて疑わなかったのだ。そんな両親に、デメテルは皇族に加わるための条件を出した。
 私は「弟」が欲しい。弟を「作って」くれ。
 両親は娘の要求に従い、デメテルの望む「弟」、すなわちハデスを生みだした。
 しかし弟が生まれた途端、デメテルは掌を返した。両親を処刑し、父親の腕から選定者の証たる選定紋章印を剥いで弟の腕に移植したのだ。
 そうやって人工的に、無理矢理選定者とされた存在がハデスだ。
 デメテルはこの弟を溺愛し、帝国で皇帝に次ぐ最高の地位である「帝国宰相」を与え、自らの寝所に彼以外の男を近づけなかった。皇帝は世襲制ではないので、彼女がまともな結婚をして子どもを作らなくても困る者は誰もいない。だが実の弟を無理矢理選定者に仕立て上げたデメテルのやり方、ハデスの出生の逸話と姉との近親相姦関係は、人々に眉を潜めさせた。
 しかし下々の者が、「神に選ばれた」皇帝にあからさまな侮蔑の言葉などかけるわけにはいかない。
 デメテルに向けられない分、悪意の矛先は「偽者の選定者」ハデスへと一身に向けられた。彼は皇帝である姉とは違った意味で才能に優れた、ロゼウスに言わせれば「この世で最も優れた魔術師」なのだが、先入観でもって見られるために、まったくその才能を評価されることがなかった。《冥府の王》とも呼ばれたことは知られているが、たいていの人間はその意味を知らず、知れば余計嫌悪感が強まるような時代と立場でもあった。
 誰からも認められることなく、成果の全てを侮蔑の目でもって見られ、姉が実の両親を殺し、その姉の愛人とされる。両親を殺しハデスを選定者として定めたデメテルを憎んでも良いくらいの状況だったのだが、周囲全てが敵である以上、庇ってくれるのは溺愛してくる姉しかいなかったのだ。
ハデスが縋る先はなく、どこに目を向けても泥沼から抜け出せず、彼がその人格を歪ませていっても不思議ではなかった。
 更に言うなれば、今でこそ三十二代皇帝デメテルの名は当たり前となり、その次に玉座に着いたロゼウスの名が悪名高いこともあり《黒の末裔》がそれほど悪く言われることはなくなったが、四千年前は今とは比較にならないほど《黒の末裔》の地位が低かった時代である。デメテルが皇帝であるため表向きはそう激しくなかったが、かの民は世界の侮蔑の対象であった。
 《黒の末裔》と呼ばれる黒髪黒瞳の民族に対する差別感情は強く、その歴史は実に帝国成立のきっかけともなるほどに古い。もともと魔術の素養を持つ者が多く生まれ、それとは別に高度な医療技術を用いる《ゼルアータ人》は世界中から異端視されていたが、その異端視が彼らを暴走へと導く。ヴァルター王のもとであらゆる民族を侵略したゼルアータ人は反旗を翻した他国連合によって逆に滅ぼされ、以来七千年以上、子子孫孫に至るまで忌み嫌われ侮蔑される対象とされている。
 もとはゼルアータ人と呼ばれていた彼らが現在《黒の末裔》と呼ばれるのもそのためだ。ゼルアータ王家の血筋は根絶やしになった上に、国を興す権利も失ったために、彼らはただ《黒の末裔》とだけ呼ばれている。
 ちなみにその時ゼルアータ王国を滅ぼし、当時の革命軍を率いて世界帝国を築き上げた始皇帝その人こそ、シェスラート=エヴェルシード=ザリューク。ゼルザータに滅ぼされたザリューク王家の人間であり、今のエヴェルシード王家の祖であり、世界最初の皇帝である。
 今エチエンヌと肩を並べて歩いているこの青年は、始皇帝の子孫であり、そしてエチエンヌの元の主君の子孫でもある。
(ハデス卿、か……)
 エチエンヌやローラ、リチャードの元の主君であった人のことは、もはや歴史の一部となって忘れ去られている。皇帝の在位が四千年を超えるようなこの時代、ただでさえ短命なエヴェルシードの王の中でもたったの四カ月しか玉座に座れなかった王のことなど。ましてや彼を詳しく知る者などほとんどいない。
 生前の主君にあまりにも似すぎている横顔を眺めながら、エチエンヌはふと物思いに沈む。
 主君の直系の子孫であるフェルザードだけでなく、これから探しに行くルルティスも、顔立ちだけ見れば主君に似ていたように思う。髪の色の印象が大きいのではじめは気のせいかとも思ったが、やはり顔立ちは似ていて、瞳の色などまったく同じだ。
 フェルザードといい彼といい、まったく懐かしいものを見せてくれる。
 彼らが懐かしい主君の顔で、主君はしなかったであろう表情をするたびにエチエンヌの胸は引き裂かれる。おそらくあとの二人もそうだろう。
 どんなに似ていても、彼らは彼ではない。死んだ人間は二度と戻って来ないのだ。それを思い知らされるようで。
 それと同時に、今でもロゼウスに憎まれ続けているハデスの顔が脳裏に浮かぶ。
 ハデスの生い立ちや境遇は、確かに平穏無事な人生を送る者から見れば同情に値するだろう。彼が不幸な人生を送ってきた、それはエチエンヌも否定しない。
 だが彼の不幸は、エチエンヌの主君であったあの人とは関係がない。
 裏切り者。エチエンヌがハデスに対し思うのはそれだけだ。友人だったくせに。あの方の。
 そして何より憎いのは、主君は別にハデスのことを怒っていないだろうことだ。
 たった四カ月しか玉座に着かなかった主君。彼がもしも歴史書などに現れるとしたら、その名前はすでに悪名だ。ハデスは自分の目的のために彼に罪を着せた。なのに、許された。
 一度裏切ったのに。
 ロゼウスの弟の一人を殺し、その罪を彼に着せたくせに。
「――エチエンヌ」
 隣からフェルザードが呼んだ。
「な、なんでしょう? フェザー様」
 彼の不意打ちは心臓に悪すぎる。髪や瞳の色は厳密には違うとはいえ、あまりにも主君に似すぎていて。
 次の瞬間、当のフェルザードの口から主君の名が出て、エチエンヌは更に驚かされた。
「また《シェリダン=エヴェルシード》?」
「え……」
「見ていればわかるよ。お前がそんな顔をするときは決まって彼のことだろう? 何年の付き合いだと思っているんだい? それで、今度はどうしたって?」
 フェルザードの顔を初めて見た時、失礼なことに皇帝領の一同は軒並み亡霊を見たかのように驚愕を隠さなかった。そのためにこのロゼウスの愛人になるために玉座を捨てた王子は、ロゼウスの想い人でありエチエンヌ、ローラ、リチャードの元主君、そしてハデスの友人だったシェリダン=エヴェルシードについて、伝え聞かせられる部分のほとんどを知っている。
 故人とあからさまに引き比べられることについて、フェルザードが表立って不満を口にしたことはない。ロゼウスは時折チクチクと何やら言われるらしいが、エチエンヌは少なくとも聞いたことがない。
 まぁ、どれほど見た目が似ていようと完全に重ねるにはフェルザードはあまりにもシェリダンと性格が違いすぎた。フェルザードの強烈な個性は三日もすればすでに各人に印象づけられ、彼を見てしみじみとシェリダンを懐古するなどできるはずもなくなった。
 それに昔の主君に対してこう言っては何だが、フェルザードとシェリダンだったら引き比べるのもちょっと難しい程に、全てにおいて遥かにフェルザードの方が優秀なのだ。これが逆ならば鬱陶しいことこの上ない状況になったかもしれないが、そんな状況を打破するくらいの実力をフェルザードはすでに持っていた。
「ちょ、ちょっとハデス卿のお名前が出たので、思い出していただけですよ!」
「そう? 別にいいけれど、その調子で最後まで呆けられていては困るよ。今日の私たちの使命はランシェットを探し出すことなんだし」
「はい、わかってます」
 春の陽だまりのような表情で結構はっきりずけずけと物を言うのがフェルザードである。
「でも、そういえばランシェットは彼に似ているのかな」
「フェザー様」
「亜麻色の髪と眼鏡に騙されがちだけど、そんなもので私の眼は誤魔化せはしないよ。彼はシェリダン=エヴェルシードに瓜二つだ」
「……そうですね」
「それについて、何か聞いたことはあるかい? 実は子孫だとか。隠し子の血の裔だとか」
「……は? え、ああ、いいえ。そんなこと聞いたことありませんよ! シェリダン様にエヴェルシードの外に隠し子なんていません」
「エヴェルシードの中にはいたかもしれない、ということをしっかり心の手帳に書き留めておくよ。ご先祖様め」
「どうしてそういう言い方になるんですか! で、ですから!」
「まぁまぁそうカッカしないで。とりあえずわかったよ。つまりあれは赤の他人の偶然の空似なんだね」
「……世の中に同じ顔の人は三人いるといいますしね」
「そうそう。だいたいエヴェルシード王族直系同士とは言っても、私だって四千年前の王様とはもう他人と言ってもいい程血が薄まっているはずだしね」
「そうですね……」
「しかしだとしたら、本当にルルティス=ランシェットの素性はまったくわからないってことなんだね」
「ええ」
 そろそろ国境に近づいたが、結局はその結論、すなわち振り出しに戻ってしまった。
「ねぇ、エチエンヌ。話を聞く限りではあのマンフレート君とやらの両親は何も知らないようだった。今回の事件が単純な誘拐とかではなくて、ランシェット自身の身柄が目的だった場合、やはり彼の素性は重要なんじゃないかな」
「まだ確実にそうと決まったわけでもないと思いますけれど……どうしてそう思うんですか?」
「男の勘」
「……とても説得力溢れる、これ以上ない根拠をありがとうございます」
「そうだね、私がとりあえずランシェットから聞き出した話としては――」
 王子様は人の話なんぞ聞いちゃくれない。
「ここ一年はチェスアトールでマンフレート少年の家庭教師をしていた。その前は二年ほどチェスアトールの学院に在籍。でもその前は聞いた覚えがないんだよね。軽く身元に探りを入れたんだけど、かわされちゃった」
「いつの間にそんなことやってたんですか」
「相手の身分や経歴をある程度測る能力に長けてないと、王族なんてやってられないからね。それにさ……あんなぽえぽえした見た目でも、彼、結構やると思うよ」
「ぽえぽえした見た目って、それ殿下もじゃあ」
 二人はほとんど同じ顔立ちだ。
「人間に大事なのは雰囲気だ。ランシェットの話に戻るけれど、あの子は指に剣だこがあったね」
「剣だこくらい、殿下もあるし僕もリチャードさんもありますよ。ロゼウスやジャスパー様はないですけど」
 武人であるエヴェルシード王族のフェルザード、同じくエヴェルシード貴族のリチャードとエヴェルシードで育ったエチエンヌは身体を鍛えるのが日課のようなものだ。この時代銃などもあるが、やはり剣が一番使いやすい。
「そうだね。私もリチャードもエヴェルシード人だし、お前だって碧の騎士だ。けれど彼は? 歴史学者ってのは、手にたこができるほど普通剣の訓練するものかい?」
「そう言われてみれば……」
 毎日毎日ロゼウスを追いかけまわすほど体力のあるルルティスだが、体力と戦闘力は別物のはずだ。
 嗜み程度に武芸を行う者も確かにいるが……。
「ぱっと見の印象に誤魔化されちゃいけないってことだね。つまりよほど大変な状況でなければランシェットは無事ということだろう」
「それなら良いのですけど」
 フェルザードの言葉に少しだけ安心感を得て、エチエンヌはほうと息を吐いた。しかしフェルザードは自分で言いだしておきながら、自分の言葉をあまり面白く思ってはいないようだった。
「フェザー様? どうかしたんですか?」
「いや、別に。ただ、私にそっくり、つまりは《地下室のあれ》にそっくりな人間が皇帝領に増えるかと思うとちょっと邪魔してやりたい気分に」
「やめてくださいね! 本当にやめてくださいね! ただでさえロゼウス狙いで近づいてきた輩は軒並みジャスパー王子が殺していってるのに、あなたまでそんなことしたらルルティス先生死んじゃいますよ!?」
「やだなぁ、そんなことしないよぉ」
「そのしないよぉ、が怪しいんですよ! ロゼウスの愛人志願の人間には容赦の欠片もないくせに!」
「そりゃあそうだろう? だって私は陛下の愛人なんだよ? できればあの方が私しか見ないように誰もあの方に触れられないように一部屋に閉じ込めて自分だけのものにしてしまいたいくらいさ! 何考えているのかわからない君の姉上もいつも不機嫌な顔で私を睨みつけてくる選定者殿もストーカーじみて厄介なメイフェール侯爵もぶっちゃけみんな殺してしまいたいね!」
 ぶっちゃけすぎです王子殿下。
「本当にやめてくださいってば! あと弟として忠告しときますけどローラ怒らせたら本当怖いですからね!」
「うんうんわかっているよ。だからそれ以外で近寄ってくる皇帝陛下狙いの身の程知らずどもに“この人は私のものなんだぜ。へっ!”という無言の圧力と蔑みの視線を送るくらいで我慢しているって」
「それもどうかと思いますが……」
 この世で一番深く付き合って内面を知ってはいけない相手、それがフェルザード=エヴェルシード。彼を見ていると、綺麗な顔をした人間の心まで綺麗なんていうのは嘘だろうと思ってしまう。全世界の綺麗な顔で綺麗な心を持った人たちに謝ってほしい。
「で、またまた脱線してしまったのでランシェットの話に戻るんだけど……結局言いたいのは、彼の過去は一体どんなものだろう、ということだよ」
「学者先生の、過去?」
 今年十五歳だという少年の過去って。
「子どもだからって侮っちゃいけない。たとえば私の可愛い弟などは、王子のくせに庶民に混じって放浪癖があり、魔術を極めようとする皇帝陛下嫌いの王太子だ。こういう人物を見ると、王子という身分や権力でどうにもならない問題に直面しそこから絶賛家出中の人物だと推測できる」
「理由の八割はフェザー様自身の責任の気がしますが、まあ言いたいことはわかりました。情報は多ければ多いほどいい。その人を見れば、その人の過去も類推できる。逆に過去が分かれば今その人に起きている問題もわかるかも、ってことですね」
「そうだよ。お前が先程のような顔をすれば、過去に亡くした者のことを考えているのだとすぐわかるようにね」
 この人は本当腹が立つ、とエチエンヌは思った。面白い人なのだが、絶対に相手を自分より優位に立たせてくれないのが嫌だ。
「そうですか。で? 殿下の目から見て学者先生はどうなんですか?」
「ない」
「は?」
 簡潔な答に自分の聞き逃しかと思い、エチエンヌは再び尋ねる。
「何もないんだよ。彼は。現在を、今を謳歌している様子はあれど、過去に思いを馳せるような様子がどこにもなかった。歴史学者だと言う割に、自分の過去に囚われる気配はまるでなかったね。まぁ、ないから歴史を研究しているのかもしれないけれど。私はまだ会って一日目だからかもしれないが、エチエンヌの目から見てはどう?」
 フェルザードに言われてエチエンヌも気づいた。ルルティスの過去。過去? せいぜい遡れるのはマンフレートの家庭教師をしていたことと、チェスアトールの奇才と呼ばれた学院時代くらい。しかし、その前は? 
 ゼイルがやってきた時、その瞳の陰りには誰もが気付いた。野心を装いながら、彼が内に秘めているものの存在は自然と知れていた。けれどルルティスには何もない。
 過去をわざわざ持ち出す必要などないほど単純な人間なのだろうか。それとも――。
「まるで十六夜薔薇のようだね。彼は欠けているよ。あるいは私たちの誰よりも酷く」
「十六夜薔薇?」
 フェルザードの言葉に、エチエンヌは首を傾げた。そこで周囲の景色が少し変わった。
 話しながらいつの間にか、二人は国境にまで辿り着いていた。エヴェルシード人とエヴェルシードで育ったシルヴァーニ人ののんびり歩きとは、肩で風切る颯爽とした軍人歩きのことである。特に疲れた様子も見せず、人里離れた辺境にまでやってきた。
「この辺りは国境ですから、さすがに民家は少ないですね」
「そうだな。まったくないわけではないけれど……しかし気になるのは、あの駐屯所じゃないかな」
「国境線を守る駐屯所ですか? 何かおかしいところでもありました?」
「おかしいところがないのがおかしいんだよ。低い柵が並ぶだけの国境線ならともかく、一応兵士たちの駐屯所があるこの付近で、山賊や盗賊が出たら彼らが動かないわけはないだろう?」
「でもそんな様子ないですよ。ここら辺で何かおかしなことがあった様子なんてまったくありません」
 フェルザードの言いたいことがわからず、エチエンヌは肩をすくめて見せた。
「まぁ、手がかりくらいにはなるだろう。ランシェットがこの国境を越えたところまではすでに調査済みなんだろう?」
 フェルザードはてくてく(本人基準)と歩いていくと、駐屯所の兵士たちに気さくに話しかけた。
「やぁ、お勤め御苦労さま」
「やや、どなたですかな」
 見知らぬ少年から上から目線で話しかけられ、兵士たちは戸惑いながらもすぐに槍を向けるようなことはしなかった。もともとフィルメリアはエヴェルシードのように好戦的な軍事国家と違う穏やかな国民性の国であるし、たとえ粗末な身なりをしていてもフェルザードの品の良さは隠しきれはしない。本人に隠す気がなく、自由自在に出し入れできるとなれば尚更だった。
「私は通りすがりのエヴェルシード貴族だよ。フィルメリアには観光で来たんだけれど、ちょっと道に迷ってしまってね。今どの辺りで、この辺には何があるか知りたいんだけど」
「貴族様ですか! あ、あの……馬車とかお使いにならないんで? もしよろしければ、一台お呼びしましょうか?」
 人のいい男の気遣いをやんわりと断り、フェルザードはあくまでも笑顔で話し続ける。何をするのだろうと思いながら、エチエンヌは彼の従者らしく装いその手腕を見守った。
「馬車はいいんだ。エヴェルシード人は身体鍛えるのが趣味のようなものだしね。街や村の一つくらい歩いていくさ。それで、この辺りには何があるんだい?」
「何にもありゃしませんよ。観光なら、もう少し中に行きませんと」
「そう? でも先日、この辺りで馬車が通りかかるのを見かけたって、先程そこの民家の人間に聞いたのだけれど」
「ああ、そうですね。この時期、この道を通る馬車なんて珍しかったので覚えていますよ。御者が通行証出す時、チェスアトール人の男の子が二人乗ってたのが見えましたね。皇帝領の方からなんて、なんでそんな道通ったんでしょうね。そう言えば別の奴が、さっきも誰かに最近ここを通った奴がいないかって聞かれたみたいですが、お知り合いで?」
 フェルザードが微かに口元にこれまでとは別種の笑みを浮かべる。エチエンヌも俄かに緊張を強めた。
「ああ。きっとそうだ。私たちは何人かに分かれて旅をしていたんだが、途中でうっかり連絡がとれなくなってしまったんだよ。残りの者たちの行き先もできれば知りたいんだが、他に誰か通りがかった人はいないかい?」
「エヴェルシードのお人ですか? そう言う方はいませんねぇ。何せここはこんな辺境なんですから、国の者だってよっぽどでなきゃ通りはしませんよ」
「国の者というと、ああいった農家の人たちかい?」
「いえ、貴族様です。レッセンフェル侯爵様だったかなぁ。と言っても皇帝領方面から入ってきたわけじゃなくてですね、単に国の中の移動なんですけど」
「移動っていうとどちらへ? ここからはどこへ行けるのかな」
 これからの行き先に迷う振りでフェルザードが更に尋ねると、気のいい兵士はあっさりと口にした。
「来ることはあっちの道からもできますけど、ここを通って向こうに行くならレッセ村の方ですね。前の馬車もお貴族様の馬車もみんなそこ通ったはずですよ」
「レッセ? そうです。先程名前が出た侯爵、レッセンフェルって言うんですよ。そこからとって、レッセ村。たしか侯爵の別荘が村から少し離れたところにあるはずですよ」
「ふぅん。じゃあひとまずはそのレッセ村とやらに向かえばいいのだね。ありがとう」
 フェルザードは礼をいい、兵士の手に礼金代わりの小金を乗せてから別れた。
「単に村より国境の方が近いから優先してみたけど、思わぬ収穫だったね」
「ランシェット先生を攫ったのは、身代金目的の盗賊や山賊じゃなくて、レッセンフェルとか言う貴族なんですか? 一体何のために?」
「それはこの後本人に聞いてみることにしようじゃないか。ここからとりあえずレッセ村まで行って、そこにランシェットの馬車が辿り着いてなかったら決まりだね。この変装、むしろいらなかったかな」
 自分の格好を見下ろしながらフェルザードが呟く。
「結局貴族の権力でごり押ししちゃいましたからね」
 エチエンヌも頷きながら、しかしこれだけはと懐に隠してきた武器の感触を確かめた。
 彼らは確実に、ルルティスの居場所に近づいていた。